第四話 愛する人
夏米の病室は
私の車椅子を押しながら、吹炉先生は言う。
「ここって本当に忙しいのに、いつも助かったわ。波瑠ちゃん頑張り屋さんで、本当に感謝してる」
ずっとバタバタとここで働いていた事が遠い昔にように思えてくる。私はこの先、一体どうなってしまうのだろう。そして全てが重くのしかかる。私の怪我の状態のことも、夏米の状態のことも、手に取るように先が見えてしまう。患者は一度絶望する。今まで出来た事が出来ないこと。そしてこれから先も治るか保証がなく、言葉を口に出来ないものは精一杯暴れて意思表示をする。こんな場所は嫌だ、こんな生活は嫌だ、過去の自分に戻りたいと悲観し、死んだ方がマシだったと意識する。
こんな状態になるくらいなら、いっそ死ねば良かった。そう何度言われた事だろう。
そしてこの病棟はそれなりの値段がする。親族が「どうして生きてるの」と患者に詰め寄ることも多々あった。精神的に参ってしまう。だから吹炉先生は様々な工夫を加えた。
病棟を一番華やかで安らげる場所にすること。
そしてオープンスペースを大きく作り、意識のあるものたちには様々な体験をさせながらリハビリをすること。もちろん看護師だけじゃなくて理学療法士たちと専門スタッフで代わる代わる動いている。
「大した事出来てないですよ」
私は自嘲気味に言う。
エレベーターで四階に上がり、少し進んだところに夏米の病室があった。
コンコン、と一応吹炉先生がノックし入る。
真っ白な病室。真っ白な壁。真っ白な天井。真っ白なベッド。ただ曇りのないガラス窓が外を映し出している。そして夏米は点滴に繋がれ、たくさんの管に囲まれて目を閉じていた。本当に眠っているみたいで、驚いた。身体も見た感じは異常がなさそうでただただ驚く。
「鮎川さんの場合は熱傷が酷くてね。顔は大丈夫だったんだけれど、それ以外は皮膚移植をしたのよ。だから、もし目覚める事があってもそっちの方が大変だと思うわ」
少しずつ夏米に近づいていく。
「身体には触れないでね。Ⅲ度熱傷なの」
タンクローリーの炎上に夏米は巻き込まれてそこまで大きな火傷を負ってしまったのか。
皮膚の全層が焼けて、皮膚が欠損している事をさす。この状態は治らないので皮膚の移植が必要になる。それも人間の皮膚は複雑で移植にも生きている人間の皮膚が必要となる。
夏米は誰かの皮膚を移植された。皮膚の提供を行うものも相当な痛みを伴う。どうして夏米はそこまで火に巻き込まれたのに、私は平気だったのだろう。もしかしてあの衝撃と痛みの中で、夏米は私を守ったのではないだろうか。
そうでなければ、私が炎に包まれなかった理由が思いつかない。
「夏米」
顔は綺麗なままだ。頭や身体には包帯が巻かれているけれど、顔は夏米。綺麗で整っていて、本当に眠っているだけのようで、そこで私の感情が溢れてくる。
愛しい。今すぐにでも抱きしめたいのに、私は車椅子から動くことさえ出来ず、夏米の頰に触れることさえ許されない。大きくて私を包みこむ手に温もりを感じたいのに、その願いすら叶わない。
夏米。生きているのに。生きていて良かったと思うのに。
触れられない。
私の身体も、夏米の身体もズタズタで、悲しくなってしまう。
あの時、珍しいくらい遠出のデートを計画して巻き込まれたのだとしたら、私たちは近場でただご飯を楽しく食べるだけでも構わなかったのに。
あの日に、私がシフト入っていれば。あの日、夏米の仕事が忙しくて時間が取れなければ。
後悔が波のように押し寄せてくる。
夏米が目を覚ましても、警察官を続けることは難しいだろう。
その時、夏米は何を思うのだろうか。
そして目覚めない夏米を、私は支えていけるのか分からない。
出会って十年。ずっとこれからも夏米といるんだと信じて疑わなかった私もまた、心が引き裂かれそうになる。
解っていたのに。真実を知ることの意味を。
それでも、私の心は揺れる。夏米が死んでも、私はずっと夏米に囚われて悲しむけれど、夏米が目覚めない状態も、その後の壮絶さを想像して苦しみ、後悔することに。
「
笑って、返事をしてくれない夏米。
それでも、私はただただ泣いた。夏米を想って。
どうか目覚めて、と願いながら。
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