第三話 キャンバスを染めて



 筆だけは持つものの私はそのままキャンバスを眺めていた。夕陽が射し込んでも、私のキャンバスは真っ白のまま。

 どれほど時間が経っても、私の絵は完成しない。

 ただキャンバスを前に、私は目を瞑ろうとする。その時、口を開いた。

「紫雪って本当、水彩画みたいなやつだよな」

「だから、それ、どういうこと?」

 真っ白なキャンバスと私。どこに水彩画のようなところがあるのだろう。

「淡くて儚くて、消えていきそう」

「それは失礼じゃない?私、消えたりしないよ」

 だって、ここには真っ白なキャンバスがあるから。

 そこに一筆いれてしまうとそれは絵になってしまうけれど、まだ油絵にも水彩画にも、何にもなっていない。

「じゃあさ、なんで描かないの」

 慶樹がいつにもなく真顔で言う。

「どうして、描かなきゃいけないの?」

「どうしてって……」

 困ったような表情をして慶樹が私を見る。

「ねえ、十八時になっちゃうよ。バイトの時間でしょ?」

 私は満面の笑みを浮かべて答えた——筈だった。

 慶樹もそれを感じとったのか小さく首を横に振る。

「紫雪はそろそろ、現実を見なくちゃいけないんだ」

 それは本当に突然だった。

 私の身体がゆっくりと震える。

 慶樹は今、何を言おうとしているんだろう。

 それは私が今、心から拒否したい言葉のような気がする。

 私が立ち上がろうとすると、慶樹が目でそれを止めた。

「ねぇ、紫雪」

 優しげな声で、私を諭すように慶樹が口にする。

 やめて!と叫びたいのに、慶樹の顔をずっと見てしまう。

「紫雪が、最後の部員だよ」

 私の笑みはどこかで凍りついている。

 どうして今更そんな事を言うんだろう。

 私は何か声に出したかったのに掠れて上手く言葉に出来ない。

「紫雪がその絵を描ききったら、美術部が無くなるからだろ?」

 どうして、慶樹は笑っているんだろう。

 美術部が無くなる?

 私が絵を描けない理由?

 真っ白なのに、何も描いてさえいないのに、慶樹は一体何を言ってるんだろう。

「紫雪。紫雪が絵を描いても紫雪は消えないよ」

 そう言って慶樹が私のキャンバスを撫でる。

「ふわふわしてマイペースなところもあるけど、誰よりも他人を大切にしている紫雪は消えない。心が折れそうなほど細くて淡くて儚い可愛い紫雪は、ずっとこの世界にいるよ」

 当たり前の日常。

 当たり前の毎日。

 当たり前の放課後。

 それなのに、どうして慶樹は入り込んでくるのだろう。どうして私のこの真っ白なキャンバスに、色をつけようとするのか分からない。

 私は必死で涙を堪えて首を横に振る。

「紫雪は、体調悪くてあの日、合宿に行けなかった。ただそれだけなんだ。だから皆があの日いなくなったことは、紫雪のせいじゃない」

 認めたくない。

「紫雪、頼む。美術部員で」

 やめて!

 声が出ない、どうして?今なら慶樹が紡ぎ出すその言葉を止められるのに。

「生きているのは紫雪だけなんだよ」

 慶樹が苦しそうな顔で言う。

 そんな目で見られると、私はどうしたら良いのか分からない。

 私はただ溢れ出そうな嗚咽と涙を堪えるのに必死だった。

「毎日真っ白なキャンバスで耐えなくていい。俺達の思い出だろうと、風景画だろうが、なんでもいいよ。頼むよ、絵を描いてくれよ」

 私が、あの日、行かなかったから。

 熱を出していても構わなかった。

 私も強引に美術部の皆と合宿に出ていれば良かったのに。

 そう、何度も何度も後悔した。

 合宿先に向かう途中の高速道路でバスが横転し、乗客全員死亡。

 顧問の沼留 ぬまる先生。胡坐 こざ おりん先輩に、後輩の優莉 ゆうり 瑚々 ここちゃん、数えきれない仲間たち。大好きで家族と同じくらい大好きで大切な仲間たち。皆が旅立って、私はこの世界に一人取り残された。

 絵が上手いわけじゃない。ただ私はみんなが大好きでその空間で絵を描くことが大好きだったのに、死にぞこなった。私だけが生き残ってしまったことに、どうすれば良いのか分からなかった。

 事故に関係なくても謝りたくなって、皆に詫びた。

 たくさん泣いて泣いて泣き明かして、それでも私の心の隙間は埋まらなくて授業も何も頭に入ってこなくなってしまい、友達も私の傷が癒えるまで私をそっとしておくことに決めたらしい。

 そんな時、慶樹だけが私の目の前に現れた。

 さすがに教室では声を出せなくて徹底的に無視したけれど、私以外が使うことの無いほとんど閉鎖されたに近い美術室で、私と慶樹の二人の時間となっている。

 慶樹は昼間に続いて本の話をする時もあれば、絵の話をする時もある。

 今までその話題に触れることなく当たり前な日常のように振舞っていたのに、何故今になってそんな事を言うんだろう、と霞む視界の中でぼんやりと思った。

「俺は紫雪のことも、紫雪の絵も好きだ。紫雪は俺たちと違って生きてるんだよ。だから、紫雪が今生きている証を描いて欲しい」

「無理に……決まってるじゃない……あれから、一度も触ってないの。一度もだよ……私は生きてる証なんて欲しくない!私は皆に生きていて欲しかった!」

「じゃあ、生きていて欲しかったって想いを描け」

 何を言ってるの——と言葉が出そうになる。

「紫雪の時間を、進めたいんだ。その為の一歩だ。死んだ死なないって話じゃない。紫雪は生きてることは事実だ。その事実でならなきゃいけないこと、あるだろ?死んだ俺達には出来ない、紫雪にしか出来ないことが」

「慶樹、変なの……こんなにも、慶樹は生きているみたいにいるのに」

「ずっといることは出来ないんだよ、紫雪」

 分かっていた。少しずつ慶樹の身体が薄くなっていってたことくらい。

 そして慶樹を繋ぎ止めるためには、もっと真っ白なキャンバスが必要なんだと信じて疑わなかった自分もいた。

「……描けるかな?私に」

 私の言葉に慶樹は満面の笑みを浮かべた。

「お前の存在は水彩画みたいだけど、想いのこもった素晴らしい絵を描くやつだよ、紫雪って」

 私は涙を零しながら小さく頷いた。

「描くことで認めたくなかった。私はずっとずっとそばにいたかった。だから……」

「頑張ったよ、紫雪は。もう悩まなくていい。今の気持ちも全部、絵にのせてやれ」

 慶樹につられて私も頬を緩める。

「私、描く。みんなとの思い出や、気持ちを込めて」

「そうこなくっちゃな。完成までは見届けてやるよ」

「そんな事言って、私の読書を邪魔する癖に」

 慶樹が優しく微笑んだのを私は見送って、キャンバスに色を塗った。


    ◆


 雪空学園はしばらくの間、美術部は無かったけれど、私の申し出によって三年生になった時に部長として再開を許可された。新しい部員集めからのスタートだったけれど、雪空学園の美術部は無くならずに今も継続されている。

 あれから四年。

 私も大学三年生になり、そして相変わらず絵を描いている。

「青穂先輩って、絵もそうなんですけど、本当に水彩画みたいな人っすよねー」

 私は思わず「それってどういうこと?」と言いたくなりそうになりながら慌てて別の言葉に変える。

瀬日 せびくん、貴方までそんなこと言うの?」

「ははあ、散々言われてますね先輩。いやあ、絵もなんか淡い感じなんですけれど、絵は人を表すっていうか」

「あのねえ……」

 私は思わず叱り飛ばしそうになる。

「でも、なんで最近は油絵ばっかなんすか?」

 瀬日くんの言葉に「それはね」と私は続けた。

「色々な絵を、今からでも描けるようになりたいから、かな?」

 水彩画だけじゃない。

 私は相変わらず、絵を描いています。

 気持ちを込めて、他人へ届ける絵を。

 たくさんの絵を、空に放つことが出来れば良いのに、と思いながら。

 油絵なら漆黒の夜空や宇宙を描くことが出来そうで、そんな星に貴方達を描きたい。

 慶樹、今どうしてますか?

 今年貴方の大好きなシリーズ新刊でたよ、なんてね。

『それ、俺にも見せろ』

 そう言葉が聞こえてくるようだった。

 私は筆を取る。

 私のキャンバスは、もう、真っ白じゃない。


 

 

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