鏡像

大堂 真

鏡像 In the mirror

 親友と恋人――僕は信頼していた二人の人間に、同時に裏切られた。二人は、僕に隠れて付き合っていたのだ。

 ――彼と付き合ってるの。私と別れて。

 僕はその事を彼女から告げられ、ショックを受けた。僕はあいつの事を信頼していたのに。彼女の事をあんなに愛していたのに……。

 彼女と別れて以来、僕は部屋の中に引きこもるようになった。愛し、信頼していた人々に裏切られたショックから、僕は人間不信に陥っていた。

 こんな苦しい思いをするのなら、もう誰も信じない。もう誰も愛さない――僕は他人を拒絶し、自分の殻に閉じこもる日々を過ごしていた。

 しかし、他人を拒絶する一方で、同時に僕は誰かを愛したいと言う強い思いも抱いていた。だが、二人に裏切られた記憶が、僕の中にトラウマとなって残っていた。

 誰かを愛したい……だけど、また裏切られるのが怖い――僕は矛盾した思いに苦しんでいた。

 どうしたらいい、どうすればいい――部屋の中で、僕はひとり頭を抱えた。

 ふと誰かの視線を感じ、僕は顔を上げた。

 僕の視線の先にあったもの――それは、一枚の鏡だった。昔買った大きな姿見の中から、“僕”が僕を見つめていた。

 鏡――その鏡を見た瞬間、僕の頭に閃くものがあった。

 そうだ、鏡の中の“僕”を愛そう。この世の中で唯一絶対に自分を裏切らない人間、鏡の中の自分を――。


 その日以来、僕は鏡の中の“僕”に話しかけるようになった。

 朝、目を覚ました時も、食事の時も、眠りにつく時も、僕は鏡の中の“僕”に話しかけた。日常生活で起きた楽しい事も嫌な事も、読んだ本や観た映画の話も、僕はありとあらゆる話題を“僕”に話した。

 鏡の中の“僕”は、どんな時でも僕の話を聞いてくれた。僕が笑えば“僕”も笑い、僕が泣けば“僕”も一緒に泣いてくれた。

「君は、いい奴だな」

 僕は、“僕”に笑いかけた。“僕”は、いつもの様に僕に笑顔を返してくれた。

 自分のやっている事が、一方通行の虚しいコミュニケーションだとは分かっていた。だがそれでも、僕を受け入れてくれる鏡の中の“僕”に、たまらない愛おしさを感じていた。

「君の事を……愛しているよ」

 僕は“僕”に告げた。“僕”の唇も動き、同じ言葉を僕に返した。

 僕は右手を伸ばし、そっと鏡に触れた。“僕”も同様に左手を伸ばした。

 二人の手が鏡を隔てて重なった。重なった掌に温もりはなく、ヒヤリとして冷たかった。

 こんなに愛しているのに、絶対に触れる事が出来ない――。二人を出会わせ、そしてまた隔てている鏡が、僕は恨めしかった。

 僕は鏡に頬を寄せた。“僕”も、鏡に頬を寄せた。

 二人の頬が、鏡を隔てて重なった。

 そして僕は――いや、僕達はキスをした。

 温もりの無い、冷たいキスだった。

 愛する相手に触れる事さえ出来ない――その切なさと悲しみに、僕達は涙を流した。

 唇を重ね続ける僕達の頬を、一筋の涙が流れていった。


 だが、そんな僕達の関係は、次第に変わっていった。

 ある日、僕は一人の女性と出会った。彼女と接する内に、僕の中の頑なだった部分が少しずつ解けていった。やがて僕と彼女は次第に惹かれていき、愛し合うようになった。

 いつしか僕は彼女の事ばかりを考えるようになり、鏡の中の“僕”に話しかけるのをやめてしまった。

 それどころか鏡の中の自分に話しかけ、あまつさえ愛していた事が恥ずかしくなり、僕は鏡を見るのも嫌になってしまったのだ。

 過去と決別する為に、僕は姿見に布で覆いをかけた。それで僕達の関係は終わりだった。


 ある夜、僕は彼女とのデートを終えて部屋に帰ってきた。暖かな気持ちで部屋の中に入った瞬間、僕は肝を潰した。

 真っ暗な部屋の中に二つの目が浮かび、僕を睨んでいたのだ。ギラギラと光る二つの目――僕を睨むその視線には、僕への激しい憎しみが宿っていた。

「だ、誰?」

 僕は上擦った声で二つの目に問い掛けた。だが、二つの目からは何の言葉も返ってこなかった。二つの目は、無言のまま憎悪の視線だけを僕に向け続けた。

 い、いったい誰なんだ。あんな目で人から睨まれる覚えなんて、何にも無いぞ――射る様な憎悪の視線に、僕はただ戸惑うばかりだった。

 その時、窓から月の光が差し込んで、二つの目を照らし出した。

 二つの目――それは、鏡の中の“僕”の目だった。“僕”が鏡の中から、怒りと憎悪の眼差しで僕を睨んでいたのだ。

“僕”の唇が動き、声の無い言葉を発した。

 ――君ヲ、アンナニ愛シテイタノニ……。

 ――君ハ、僕ヲ裏切ッタ!!

 僕は、“僕”の言葉にたじろいた。そして同時に僕への憎しみの理由を悟った。

 かつての自分と同様に、“僕”もまた僕の事を愛しているのだ。だが、僕の愛は彼女へと向けられるようになった。“僕”は、僕が彼女を愛している事を……僕の心変わりを恨んでいるのだ。あの憎しみの目は、愛する者に裏切られた怒りの眼差しだったのだ。

「違う、違うんだ! 君を裏切った訳じゃない!」

 僕は必死で“僕”に弁明しようとした。だが、“僕”は激しい憎悪の眼差しで僕を睨み続けた。

「やめろ……やめてくれ! そんな目で、僕を見ないでくれ!!」

 僕はたまらず頭を抱えて鏡の前に蹲った。

 その時、“僕”の足元に姿見を覆っていた布が落ちているのを見つけた。僕は慌てて布を拾うと、姿見にかけようとした。だが、動揺してしまい、手が震えてうまくかからない。その間も、布の隙間から“僕”が憎悪の眼差しで僕を睨み続けていた。

「ああっ!」

 パニックに陥った僕は布を床に叩きつけると玄関へと走った。そして金属バットをひっつかむと、鏡の前に戻った。

“僕”は憎悪の眼差しで僕を睨み続けていた。

「やめろ……やめろおっ! そんな目で、僕を見るなあっ!!」

 僕は“僕”の顔に向かって、金属バットを全力で振り下ろした。鏡の割れる音と共に、“僕”の顔が砕けて飛び散った。

“僕”の顔が砕け散っても、僕は鏡にバットを叩きつけ続けた――何度も、何度も。

 鏡の破片が部屋中に飛び散り、“僕”の姿は消え去った――。


 僕はバットを握りしめたまま、荒い息を吐いていた。

 鏡は全て砕け散り、台座だけが僕の目の前にあった。

 僕は、“僕”を殺した。これで全ては終わりだ――そう思った瞬間だった。

 僕は視線を感じた。僕を射る様な、激しい憎悪の視線を――。

 まさか……まさか!

 僕は視線を感じた方向へと振り返った。そこには、“僕”がいた。“僕”は窓ガラスの中から、僕を睨んでいた。“僕”は、まだ死んでいなかったのだ。

「ああ……ああっ! ああっ!!」

 僕は窓際に駆け寄ると、絶叫と共にバットを振り下ろした。窓ガラスが割れて、“僕”の顔が砕け散った。

 これで、これで本当に終わりだ――そう思った瞬間、僕はまたしても“僕”の視線を感じ、振り返った。

“僕”がガラステーブルの中から、僕を睨んでいた――。


 その後も、僕は“僕”を殺した……殺し続けた。

 だが、その度に“僕”は別の場所に現れた。戸棚のガラスに、洗面所の鏡に、テレビの画面の中に、“僕”は次々と姿を現した。その度に僕はバットをへと叩きつけ、“僕”を殺し続けた。

「くそっ、くそおっ……」

 僕は肩で息をしていた。

 終わらない……何度殺しても終わらない。僕は自分が牢獄の中に閉じ込められた気がしていた。終わりの無い、合わせ鏡の無間地獄に――。

 その時、僕はまたしても“僕”の視線を感じた。それはこれまでの視線と違い、圧倒的な物量で僕に襲いかかった。何十人もの悪意と憎悪が束になって僕に突き刺さり、その圧迫感に僕は恐怖した。

 視線は、床の辺りから発せられていた。僕は恐る恐る視線の元へと目を向けた。

 そこには、数え切れない程の“僕”がいた。床の上に散らばった夥しいガラスや鏡の破片――その中から無数の“僕”が、僕を睨みつけていた。

 そのあまりの光景に、僕は喉も裂けんばかりに絶叫した。


「よう」

「ああ、課長。お疲れ様です」

「死体(ホトケ)が出たって?」

「ええ、この部屋です。足元に気をつけて下さい」

「こいつは――」

 課長は室内の惨状に言葉を失った。床の至る所にガラスや鏡の破片が散らばり、その中で若い男が仰向けのまま絶命していた。

 その死顔は、凄まじい形相をしていた。目と口が裂けんばかりに大きく開かれ、歪んでいた。

「……凄え死顔だな。こんな死顔のホトケは見た事がねえな」

「ホトケはこの部屋の住人です。隣の部屋の住人がガラスの割れる音と、男の叫び声を聞いてこの部屋に駆けつけ、ホトケを発見しました」

「ホトケの死因は?」

「検死官の先生が言うには、詳しい事は解剖してみないと分からないそうですが、ホトケの身体には外傷や致命傷が見られなかったそうなので、ショック死じゃないかと。」

「ショック死か……成程ね。それなら、この死顔にも納得出来るな」

「それにしても……ホトケの身に何があったんでしょうか」

「さあてなあ、皆目見当が付かんな。だが、これだけは言えるよ。きっとホトケさんは、俺達の想像もつかない様な恐ろしいモノでも見ちまったんだ。そうじゃなきゃ、こんな死顔にならんよ」

「恐ろしいモノ……いったいなんでしょう?」

「さあてなあ――」

 課長は、床の上に散らばった鏡やガラスの破片に目を落とし、じっと考えた。

「……もしかすると、鏡の中に何かとんでもないモノでも見ちまったのかも知れんな……」

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鏡像 大堂 真 @blackbox1999

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