少年と魔女の物語(仮)8
別れの言葉を発したモーナは、空間に溶けるように、空間に飲み込まれるように消えた。闇に映えていた彼女の白い髪は跡形もなくなって、僕の目の前にある風景を邪魔することなく見せてくれる。
あんなに吹いていた風もすっかり鳴りを潜めて、まるでここにいたのは僕一人だったんじゃないかと思えてしまう。
本当に、僕の妄想だったらどうしようか。
なんてくだらないことを考えてしまうくらい僕の心は冷静で、それが途方もなく嫌だった。
そこから、事態が急変するのを予測するのは容易だった。
モーナの行動と、話していたことから、幾つか需要そうなことを抜き出して考えてみる。
「野心」。「森も伐採されそうだし丁度いい」。「町長を殺した」。
森を愛していた彼女なら、森が伐採されるようなことは望まないはずだ。あれ以上町が荒れたら、森を壊して森のあった土地にまで壁を築いただろうから、モーナはそれを阻止する必要があった。それを止めるために、モーナはそれなりに高い権力を欲した、つまり、町長という肩書が欲しかった。その感情を野心と表したのだろうか。その結果が、町長の殺害なのだろうか。
彼女が僕に言った「町を平和にする」引き金になったとは思わない。僕にそんな影響力はない、ってとうの昔に知ったから。それに、なんだか自意識過剰みたいで恥ずかしいから。
三日ほど前に学校に行ったというのに、週明けの学校はやけに久しく思われた。
自分たちの住んでいる町の長が死んだというのに、何一つ変わっていない級友たちを目にして、僕は違和感を覚えた。
彼らは、怖くないのだろうか。恐れていた”森の魔女”が行動を起こしたというのに、何故平然としていられるのだろう。
「遂に森の魔女が現れたな!」
「森から出てきて即人殺しとか魔女怖すぎー」
「本当にいたんだな……。正直疑っていたんだよね、魔法とか」
……恐ろしい。
彼らは、人が殺されたという事実を楽しんでいる。もしかしたら、死んでいたのは自分だったかもしれない、とは考えないのだろうか。
どうして、こんな荒れた町で育ったのに物事を楽観できるのだろう。幼い頃から危険と隣り合わせだったというのに。
誰かが死んだことを笑えるような人と一緒にいるのが嫌で、僕は本を開いた。本以外の者はすぐに見えなくなり、頁めくる音しか聞こえなくなる。……少しだけ、現実から目を背けていたい。
「お兄ちゃん」
家に帰ると、妹が不安げな顔でこちらを見つめていた。
「今度の町長、森の魔女になるんだって」
「え?」
モーナがこの町を治める。予想した通りじゃないか。
「私たち、どうなるのかな。……殺されちゃう?」
「だ、大丈夫だよ……」
薄茶色の瞳いっぱいに不安の色を滲ませて、か弱い声でそう尋ねる妹を励まそうと言葉を紡ぐが、僕の声はどうしようもなく震えるばかりだった。モーナのことを信じているのに、恐怖という感情が消えてくれないのだ。
「大丈夫よ、二人とも。私が守ってあげるから」
台所から姉が出てきた。ずっと玄関で話している僕たちを不審に思ったのだろう。そして、さっきまでの会話を物陰から聞いていたのだろう。
「不安になる必要なんてないよ。私たちはずっと一緒。……お母さんがいなくなっちゃったときにそう決めたでしょ?」
決して強くはない姉はそう言い切った。いつも頼りなかった姉の背中が、とても大きく見えた。
それから、姉は妹を抱きしめて、僕を抱きしめた。
人の温もりを感じた。忘れかけていたものだ。
僕は、一人じゃないんだ。
ずっと現実逃避していたから、仲間がいるっていう事実も忘れてしまっていた。僕は馬鹿だなぁ。こんなにも優しくて強い家族がいたのに。
その時、ジュウゥゥゥという嫌な音が聞こえてきた。
その瞬間、姉の顔が青ざめる。
「お湯沸かしていたの、忘れてた……」
やっぱり、姉は姉だった。いつも呆れていた姉の間抜けさが、途方もなく愛おしかった。
好きだよ、姉さん。
「別人になったようだ」
「人が変わったみたい」
なんて言葉はよく物語で使われているけど、僕は今までこの表現に疑問を抱いていた。どれだけ環境が変わったって、人間は根本的なところは変えられないと思っていた。
でも、僕はこの表現が正しいことを知った。
町長になったモーナは、別人と表す他にどう表せばいいのか、というくらい人が変わった。
いや、モーナと呼んでいいのだろうか。彼女はモーナという名前ではなく、ヘクセと名乗っていた。……でも、僕はヘクセの中にモーナが残っていることを信じたいから、モーナと呼ぶことにする。
威圧的な口調に、厳しい目つき。森を愛した少女の面影はどこにもなかった。
よく似合っていた貴族みたいなワンピースを着るのは辞めて、黒いスーツを着ている。白い髪がよく映えて、全く似合ってない訳じゃないんだけどね。
でも、今のモーナはなんか嫌だ。
誰に対しても分け隔てなく接していたモーナじゃないのだ。慈愛に満ちていた、あの少女じゃないのだ。
――どうして僕は、モーナが誰にでも同じように接すると知っているのだろうか。……分からない。
モーナはどんどん町を改革していった。
その一つに、「銃や剣で人を傷つけてはならない」というのがあった。更には、「火事を起こした者には五年の労働」というのも。
まるで、町を平和にしたいみたいじゃないか。
そんな暴動を抑えるための法ができたので、争いは少なくなった。いや、なくなったと言っても過言ではないだろう。その法律だけではなく、モーナは暴動を起こした人を厳しく罰したのだ。彼女の魔法の力によって。
町は、世間一般でいう普通になった。
普通に平和になったはずなのに、僕はどこか息苦しさを感じていた。昼夜構わず外に出られるのに、死と離れることができたのに、なぜか不満があった。
きっと、法に縛られているからだ。他人の決めた規則で生きなくてはいけないことが不服なのだ。モーナの課した法が、あまりにも前の生活とかけ離れてるから。
このままでは、僕のように不満を持つ人が増えてくるだろう。そしていつの日か、下克上が起きるだろう。モーナの政策は、とても合理的で、危ない。
モーナに危険があると示したい。でも、それは僕には無理だ。
僕は、モーナが町長に就任したあの日から、何度も何度も森の入口へ行った。何回も何回も、モーナの名前を叫んだ。でも、モーナが僕の前に姿を現すことはなかった。
町役場には、兵士が駐在しているから、僕みたいな子供は簡単には入れない。
モーナと僕にはもう、再会する術がないのだ。
瞼を伏せると、モーナが脳内に蘇る。
「さようなら」と記憶の中のモーナは言う。あの時、僕も「さようなら」と返せたら、いや、「またね」と返せたらどんなによかっただろう。もう会えないのなら、せめて別れの言葉だけでも言いたかった。
モーナに沢山もらったものがある。それに対する感謝の気持ちを伝えたかった。僕の心を救ってくれてありがとう、僕が前を向けるようにしてくれてありがとう、って。
僕と言う存在を肯定してくれてありがとうって言いたかった。
いや、これは言いたかった、伝えたかった、なんて過去形で表される感情じゃない。今この瞬間も、僕はモーナに言いたいし、伝えたいのだ。過去に抱いた思いじゃない。
現在進行形で表される、今抱いている感情なのだ。
つまり、僕はモーナに会いたいのだ。
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