第6話 絵を描く少年
夢を見ていた。
それはまず、温かい夢であった。
両親で食卓を囲み、寒い冬の夜に温かいスープを飲む。夜は母さんと一緒に美術書を読み、お互いにその絵から感じ取った印象を話し合った。少し冗談めいたことを僕が言うと、母さんは面白い解釈だと笑い、そんな母さんを見て僕も笑った。少し離れたソファで新聞を読んでいる途中で眠ってしまっていた父さんに優しく声をかけ、僕は自分の部屋に戻る。部屋に戻るとそこにはなぜかマリーさんがいて、紅茶を飲むかと尋ねてくる。僕の部屋だったはずが、そこはもうマリーさんの家であった。さっきまですぐそこに両親がいた、とマリーさんに話しても聞き入れてもらえず、両親を連れてこようと部屋を出ると、そこはもう家の跡地でさらにその真ん中にはミリアが立っていて、僕に左手を差し出す。
「コーギィ、こっちにおいでよ」
僕は、その言葉で目を覚まし、時計を見て寝坊したと自覚した。
「ごめんなさい……」
朝食をバッグに詰めて、慌てるマリーさんに詫びる。
「気にするな。そもそもは私が朝に弱いのがいけないのだからな」
いつもより、髪の外ハネが大きいような髪を揺らしながら、マリーさんは僕の頭を少し乱暴に撫でて家を出ていった。
「ふぅ……」
それにしても夢を見るのは久しぶりのような気がする。慌てて起きてしまったせいで、もはやどんな夢を見ていたのかも曖昧になってしまったが、確かに僕は夢を見ていたのだ。
「マリーさんには悪いことをしたな」
この家に住まわせてもらっている分、僕にはできることをやらなくちゃ、と僕は自分に言い聞かせて、今まで以上に気を配って部屋の掃除をこなした。
いつもよりも時間がかかってしまったが、マリーさんの部屋は片付いたし、窓もまるでガラスがないみたいにピカピカだ。最後にベッドを整えようとするとそこにも数冊の本が置かれていた。
「もう、ベッドでは休めばいいのに」
その本を手に取ってみると、なにやら魔法陣のようなものにまつわるものだということはわかった。まぁマリーさんの前で魔法陣などいう単語を使えば、また魔法なんて言葉に夢を見て、と笑われるのが関の山である。様々な陣が描かれた本をパタンと閉じて、本棚にしまう。そしてベッドを整えて、この日の掃除は終わった。
*
スケッチブックを持って外へ出る。今日も外は青空が広がり、上空を見上げると家の赤いレンガたちとのコントラストが一段と映えているように見えた。ちょうどお昼時ということもあってか、食堂には人が列を作っているところもあった。そこにロビーの姿もあった。彼も僕に気付いて、小さく手を振った。僕もそれに返して、噴水広場へと歩を進める。
噴水から湧き出てくる水の音が心地よく、風も華やかで、この瞬間切り取ってずっと大事にしまっておきたいほどだった。こんな日はなにか面白いものが描けそうな気がする。
まだ何も描かれていない白紙のページを開いて、筆を手に取る。まず思いついたのは優しい顔をしたドラゴン。ドラゴンなのに、食べることが大好きすぎて少し太り気味だ。寒い日には薪に火を付けて、チキンを焼いて人間と一緒に食べたりする。人と生活することに慣れてしまった、そんな人懐っこいドラゴン。
「なぁに、その太っちょドラゴン」
「わあっ!」
突然、横からミリアが声をかけてきた。完全に自分の世界に入り切っていた僕は思わず、スケッチブックを閉じたその勢いで噴水の中に滑ってしまいそうだった。
「あははは」
そんな僕を見て、ミリアは笑っていた。赤毛の肩まで伸び、くるくると強めのパーマがかかった赤髪がそれの笑い声に合わせて揺れている。
「びっくりしたよ」
そういうと、悪びれもせず、彼女はごめんねと謝った。
「コーギィを見つけて、最初は声をかけたんだけど、夢中だったから」
どうやら何度か呼ばれていたらしいが、その声には気付くことができなったようだ。
「こっちこそごめん。絵を描きだすと、その、夢中になっちゃって……」
「ううん、大丈夫。わかるから」
そう言って、彼女もスケッチブックを取り出した。それは僕の持っているものとは違って、サイズも一回りほど大きく、ずいぶんと年季が入っているようで、表紙も少し擦れたりして独特の味が出ていた。
「随分と古そうなスケッチブックだね」
「ふふん、これは実は自慢用」
彼女はそれをパラパラめくると、それぞれの頁には別のスケッチブックに描かれたものが貼られていた。描かれているのは人物画や風景等、どれも抽象的なタッチで描かれているのだが、それぞれの特徴をうまく掴んでいるためか、ぼんやりとした中にもその人の姿形などがすっきりと捉えられる。
「すごいね、これ。まるで美術書みたい」
「でしょ。それ、私のベストセレクション」
そう言って僕にそれを渡して、彼女はまた別の新しい僕と同じサイズのスケッチブックを取り出した。
「私が絵を描くとね。父さんがすごく喜んでくれるの」
その言葉に悪意はなかったのだろうが、僕の心に一本の細い針が刺さったような小さな痛みがあった。
「それで、父さんが持っていたスケッチブックに私のお気に入りの絵を貼って、一冊にまとめてくれているの」
「……優しい、お父さんだね」
「うん、実は私、体があんまり強くなくって、寒い日になるとずっと横になっていないといけなくて。それで父さんにスケッチブックを買ってもらって、それからはずぅっとベッドの上で絵ばかり描いていたんだ」
今では元気そうなミリアを見ているとそんな姿は想像つかなかった。確かにベストセレクションのスケッチブックの風景画はどれも家の中の風景だった。人物画もきっと家族の絵なのだろう。
「家族の絵か……」
「コーギィ、モデルになってよ!」
「えぇっ?」
いきなりモデルになってと言われて、家族の話のことが一気に飛んで行ってしまった。
「大丈夫、そんなに変な風には描かないから」
「い、いやでも、僕、モデルなんてやったことないから……」
「いいのいいの。そんなに気取ったものじゃなくて、さっきみたいに絵を描くのに夢中になっているコーギィを描きたいの」
彼女は既に鉛筆を手にしていて、ここで僕が断っても描くつもりでいるようだった。
「絵を描いていればいいの?」
「うん!」
彼女はそう大きく頷いた。
「……、わかった。やってみる」
モデルなんて考えたこともなかったが、自分が誰かの絵のモデルになれることなんて今後の人生であるかどうかもわからかったので、僕はそれを承諾した。
「じゃあ私、少し離れて描いているから」
そう言って、彼女は言葉通り少し離れたところで壁に寄りかかりながら酒屋に置いてあった樽を椅子替わりにして座った。
「…………、とはいえ落ち着かないなぁ」
常に誰かの視線を感じるのはやはりムズムズしてしまう。自分の感覚を取り戻そうと目をつむった。先ほどのドラゴンのことを考えようとしたが、頭に浮かんだのは今朝の夢のことだった。家族という言葉やミリアの存在で今朝、僕が見た夢を思い出していた。
父さんや母さんと飲んだ温かいスープ。一緒に読んだ美術書。ああそうだった、そんな夢を見ていたんだと思い出した。不思議とそこに悲しみはなかったが、ただもう取り戻せないんだという虚無感だけが心の中に広がっていった。そして自然と筆が進み始め、思いのままに出来上がったのは先ほどのように肥えたドラゴンではなく、寂しそうな痩せこけた姿をしている角が生えた悪魔のような姿だった。この悪魔はどうやれば幸せになれるのだろうか。悪魔の姿をして、忌み嫌われ、誰からも受け入れられず、食べるものもなくこのまま暮らしていくのだろうか。もしこの悪魔が肥えたドラゴンに出会ったらどうなるのだろうか。スラスラと筆を進めて、食べるものを分け与えるドラゴンと少しずつ太り始める悪魔の姿があった。このあと、この二匹は仲良く暮らせるのだろうか。それとも悪魔はやっぱり悪魔なのだろうか。
はっとした時には随分と時間が立っていたようで、喉はカラカラになっていた。
「コーギィ、本当に集中していたね」
ミリアもいつの間にか僕の横に座っていた。
「……うん、なんだか今日は入れ込んじゃうみたい」
自分でも不思議なくらいだった。ここまで考え込んでしまうのは夢のせいなのだろうか。それともミリアの影響なのか。
「ほら、出来たよ」
そこにはラフ画で描かれた自分の姿があった。絵の外には「絵を描く少年」というタイトルまで付けられていた。
「なんとなく、これが自分だっていうのがすぐにわかるのは、なんだかすごい」
率直な感想を伝えると、彼女は嬉しそうに「ありがとう」と答えた。
「これも着彩したらベストセレクションに入れるね!」
「あ、ありがとう」
少し恥ずかしさも感じながら、僕はそう彼女にお礼を言った。
「本当に、外の世界っていいね」
少し陽が傾き始めて、気温も少し落ち始める。
「ミリアは、もうずっと冬は外に出られないの?」
「……わからない」
その回答に僕は聞き方を間違えてしまったかもしれないと気が付いた。
「……ごめん」
「ううん、大丈夫。この病気の症状が出たのも三年前からだから。それまでは普通に寒くても全然大丈夫だったんだけどね」
「そう、なんだ……」
「私の病気のせいで、お母さんも家出ていっちゃったから、本当にいろいろ大変だった」
「お母さんが?」
「うん。多分病気のことで大変……、だったんだと思う。だから冬はお父さんがずっと私の看病をしてくれてるんだ」
なんだかその話に関しては僕の中からうまく言葉が作ることが出来なかった。何か彼女を励ましたいと思ったところでその言葉は虚無であることを僕は知っている。
「ごめん、なんかこんな話」
「ううん、大丈夫……」
僕はひとつ決心をする。
「実は、昨日いたあの場所なんだけど……」
「火事があったっていう家のこと?」
ミリアの目を見ないで、話を続けた。
「うん、あれは僕の家だったんだ」
「え……」
「でも、今の僕には両親と同じくらいの優しさをくれる人がいっぱいいるってわかったんだ。だから僕は前向きに生きていける」
自分でもなぜこんなことを言っているのか、はっきりわからなかった。
僕にもこんな経験があってもなんとか立ち直ったから、ミリアも一人じゃないなんてそんな傲慢なことを言いたかったわけでもない。いや、ただ単に傷をなめてもらいたかったのかもしれない。いや、ただ単順に自分のことを知ってもらいたいだけだった。それがなんとなく回答に一番近いような気もした。なによりも急にこんなことを言って、嫌われたかもしれない。そう思って、ミリアの方を見ると彼女の目から大粒の涙がこぼれていた。
「ごめん……」
そう言って、彼女は僕の手を握り締めた。色々と慌ててしまい、必死に弁明をする。
「う、ううん、あの火事でも僕は生き延びたから、両親の分も生きて、それを両親に伝える。僕のお世話になっている人が教えてくれたんだ。人は生きているからこそ、いなくなった人たちを敬ったりできるんだって。生きているからにはなんかしらの理由がある。僕はそう思ってる」
先ほどまであった悪魔の気持ちなんかよりも今は色が赤く変わり始める太陽のように温かい気持ちに満たされていた。多分それは、マリーさんのことを思い出していたからだろう。もしくはミリアの手を握っていたからかもしれない。
「ミリアのお母さんもきっと理由があったんだと思うよ」
「…………、ありがとう」
しばらくの間、僕はミリアの手をぎゅっと握りしめながら、傾き始めた街の影をぼうっと眺めていた。
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