第5話 貼りついた視線

「…………」

 箱を開けた時のあの嫌な感覚、まるで誰かが自分を迫害するような、そんな感覚だった。私は誰かに拒否されている。蔑まされている。憎まれている。そういった負の感情が一気に思考に流れ込んでくる。それは冷たい水が血管の中を流れていくような感覚で、頭の中では甲高い叫び声が響いているようなものであった。その影響もあってか、多少の眩暈もする。

 私は頭を振り、一旦その感覚をなんとか切り離す。こんな状態では、コーギィにも心配をかけてしまうであろう。昨日の伯父の話の一件もあるのだから、これ以上、彼に不安や心配事を抱えさせたくない。

 そう思っていると、目の前に見覚えのある小さな、癖のある髪の毛を揺らしながらスケッチブックをぶら下げた少年がいた。

 その姿に思わず、口が緩んでしまう。大丈夫、落ち着いて行こう。

「コーギィじゃないか」

 そういうと彼はこちらへ振り返り、にっこりと笑って手を振った。

「マリーさん、お疲れ様」

「早く帰れた甲斐があったな。ちゃんと珈琲豆は買えたか?」

「ちゃんと買えましたよ。それくらい」

 彼は自慢げにそれが入っているであろう肩掛けバッグをパンパンと叩いた。

「そうか、これでしばらくカフェインには困らないな」

「珈琲もいいですけど、ちゃんと睡眠は取ってくださいね」

 少しばかり生意気にそんなことを言ってくる。

「変わりに私の仕事をやってもらっても構わんのだぞ」

「えぇー……」

 そう言って彼と私は笑いながら家へと向かう。彼がいることで私はどれだけ救われているのだろう。こうして誰かと会話をしながら笑顔で家路を歩く。たったそれだけのことでも、私は自分には持て余してしまいそうな幸せを感じていた。

「…………ッ」

 そんな幸せに突き刺さる一つの視線。いや、それは正確には視線ではなく視線のようなモノ。あぁ、気が付かなければよかった、そう心の中で思ってしまう。魔女だからこその感覚なのであろう。殺気に似たそれは、私の背中にまとわりつくようにべったりと貼り付いているようであった。

「どうしたんですか?」

 コーギィがその異変に気付いて、心配そうに私を見ている。

「いや、大丈夫だ。何か買い忘れがなかったかなと思ってな」

「大丈夫ですよ」

 そう言って、自宅の扉をコーギィが開ける。私はその振り払いきれない背中に感じるものを背負ったまま、家の中へと入っていった。


 そのままコーギィと食事を済ませる。

 その間も彼は今日一日、彼に起きたことを話してくれた。珈琲屋でロビーという自警団メンバーに会い、事件のことを聞かれたが、その人に対しては嫌な思いをしなかったから色々と話をしたこと。それから自分の家のことが気になって、久々に跡地へ訪れたこと。そしてそこで出会った、ミリアという不思議な女の子のこと。特にそのミリアという女の子の話をしているときのコーギィの瞳はキラキラとしているように見えた。珈琲屋で幼馴染の話があったとのことで、その子が自分の幼馴染になるのではないかと淡い期待のようなものを抱いているようだ。

「ふふ、コーギィ、その子のことが好きになったのではないのか?」

「そ、それは……、まだわからないですけど」

 あまりからかうのも可愛そうであったが、なんとなく茶化してみたくなるのが大人としての醍醐味のようなものだ。

 しばらくは新しい珈琲の匂いに包まれて、穏やかなる食卓をコーギィと過ごした。



 自室で残っている仕事と少しばかりの勉学を済ませ、コーギィが既に眠っていることを確認する。相当粘り強いのか、背中にはまだあの感覚が残っている。

 まだどこかで私のことを見ているのだろうか。私はまだ肌寒い春の夜空の下、薄手のコートを羽織り、外へと出る。時刻が0時を過ぎているのもあってか、誰一人として外を出歩いているものはいなかった。ここから少し離れた先で、暗闇の森の門番が松明を持って辺りを照らして見張っているのが見えるくらいだった。

「……誰かいるのであろう」

 私は小さくそう呟いてみた。もちろんそれに返答などない。

 あたりを見回すが、少し引け目を感じてしまうほどしんと静まり返り、遠く木々が騒めく音が耳に入ってくる。魔女の目は暗闇に強く、どんなに暗くとも遠くまで見渡すことが出来る。さらに神経を研ぎ澄ませて集中させてみても、背中でそれを感じているにも関わらず、人どころか生き物の気配が全く感じることが出来なかった。

 さすがにこれはおかしいと、ふとあの箱のことが頭をよぎる。

「もしかして、あの陣のせいか……」

 陣のことを思い出してしまった瞬間に、バチっという強い静電気のような痛みが頭に走る。それと同時に箱の底に描かれていた陣が、まるで光が目に焼き付いたかのようにぼんやりと浮かび上がる。次第に体から血の気が引いていくように私の足から力が抜け始めた。

「そうか。……あれは、呪紋」

 まずいと思い、力を振り絞って家の中へ戻る。

「くっ……」

 そのまま音を立てないようにゆっくりと床に横になる。

「この街に呪紋を知る奴がいるとは……」

 もう十数年ほど前にもなるが、過去に私はそれを本で読んだことがあった。

 呪紋。その名の通り、何かを呪うための血で描かれた紋章のことである。その紋を力のあるものが見ただけでその呪いは発動する。発動するというよりも正確には、発症してしまう。これは力を持つものに向けたウィルスのようなものだ。

 ただ、呪紋には発症する方法がいくつかあり、それを見ただけであれば、時間とともにその呪いの効力は薄れていく。私の恩人でもあるリディという魔女にはそれが身に刻まれていた。身に刻まれてしまったその呪いは消えることなく半永久的なものとなり、その宿主の死をもって呪いが解けるほどの強力なものになる。

 そんな呪紋を知っているのはそういった類の本を目にすることがある魔女の一族くらいであろう。そしてコーギィが言っていた、彼の家に火をつけたのも魔女の可能性が高いという話。関連性についてはわからないが、箱を私に送ってきた送り主は私に攻撃を仕掛けていることは今では確かであった。

「一体、誰がこんな……」

 私はなんとか立ち上がり、壁伝いに部屋に戻る。そして、本棚にあるいくつかの呪紋の本を手に取った。その間も引っ付いて離れない背中の嫌悪感に堪えながら、呪紋を少しでも軽減する陣を見つけ、自分の血でその陣を描いた。さながらワクチンである。

 結局のところ、完全には拭うことは出来なかったが、多少ばかり背中が軽くなった感じがする。そしてそのままベッドに倒れこんだ。

「くそ……」

 遠のく意識の中、明日の朝にでも今起きていることをコーギィに伝えるべきかどうか考えていた。彼には今、彼のやることがあるであろうし、これは私の問題である。私が話したことで彼を巻き込んでしまう可能性もある。それだけは避けるべきであった。

 なにか隠し事をするようで少しばかり心が痛むが、私はそう決意してそのまま眠りについた。

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