第9話 再び、着衣水泳。

「骨すら残さねーぞ」

男はそう言いながら歪な笑みを浮かべ、野球の投手みたいに右腕を大きく回して炎を投げてきた。

「うわっ!?」

俺の身体が反射的にすくむ。その結果、俺の左頬を強烈な熱が掠(かす)めていく。俺の顔は泉の水で濡れていたので、なんとか火傷を負わずにすんだようだ。

炎に当たらなかった事を安堵していると、男は更に声を荒らげながら言う。

「ほらっ! もう一発いくぞ!」

男は左手で握るように持っている炎を、先程のように腕を鳴らしながら投げつけてくる。

投げられた炎は、今度も俺の顔をめがけて飛んでくる。

「くっ!」

俺は上体だけを左に傾けて、どうにか炎を避ける。やはり、男は俺の顔を狙っていた。男が投げてきそうな場所が、予(あらかじ)め予想できれば避けられないことはない。

俺が次弾を警戒して男を睨み付けていると、小さな叫び声が俺の背中を叩く。

「きゃっ!」

俺が避けた炎が、女の子のすぐ近くに着弾していた。

「……あ、まじか」

よくよく考えれば、この状況はかなりまずい。俺が炎を下手に避けたら、女の子に当たってしまう。だが、俺が炎を避けないと、俺はこんがりと焼かれてしまう。……俺って運がないなー。

まぁでも、俺が出来ることはそう多くない。

俺が死んで、あの女の子が助かるなら、それはそれでいいんじゃないか? 元より、俺が無傷でどうにかなる話でもないしな。それに覚悟なら、とっくに出来ている。

俺は男を見据(みす)えたまま、ゆっくりと両手を広げる。まるで、サッカーのゴールキーパーになった気分だ。

男は下品な笑い声を上げながら、自身の両手に真紅の炎を再び灯す。

「おいおい、どうした? やっと天に召(め)される準備が出来たのか?」

「馬鹿言え。やっとだと? こちとら最初から死ぬ気満々だっつーの」

「そうか。良かったな。俺が火葬してやるから、さっさと灰になりな!」

男が炎のついた右手を、勢いづけて大きく引く。俺はそれと同時に、両手をめいっぱい広げながら全速力で男に詰め寄る。

俺が中途半端に男から距離を取ってしまっていたので、彼我(ひが)の間は六メートルほどの空間がある。当然、そんな距離を一瞬で詰められるほど俺は強靱な脚を持っていない。

程なくして男が放った炎が、俺の顔面を直撃する。

「がっ!」

それは炎と言うよりも、石を投げつけられたような衝撃だった。けれども、その物が持つ熱は、明らかに炎の熱だった。

俺の顔の付近で、じゅうじゅうと音がする。

髪が燃えたのか、皮膚が燃えたのか、首元のニットが燃えたのか、何処が燃えているのか分からない。ぶっちゃけ全部燃えている気がする。それに眼球の水分が蒸発したのか、目がしょぼしょぼして見えにくい。

とっても熱い。でも、不思議なことに我慢できない程じゃない。興奮し過ぎてアドレナリンがドバドバで麻痺しているのか?

俺は着弾の衝撃で崩れかけた膝に、再び力を込めて駆け出す。

「なっ! こいつ化け物かよ」

男は驚きながらも、きっちりと左手の炎を放ってくる。彗星の如く飛んできた炎が、俺の右腹に直撃する。正直な所、炎が発する熱より、炎に当たった時の衝撃の方がやばい!

俺は右腹への衝撃にも耐えきり、やっとの思いで男に肉薄する。

炎の陽炎(かげろう)で歪む視界の中から、なんとか男の顔を見つける。男はギョッとした表情を浮かべ、慌てて右腕を炎上させて投げるために腕を引く。

「この、クソガキっ! さっさと燃え尽きろよ」

俺は上半身を火だるま状態にして、男の腹へ全速力の体当たりをする。男は両手を燃やしながら、俺の腰あたりを掴んで揺さぶってくる。

俺は頭上から降ってくる、男の怒号を聞き流しながら思う。

「……」

ここからどうしよう……。 

俺の計画では、『俺が焼死する間に、女の子が逃げる』って感じだったんだが。まさかのどちらも失敗してるし。これからどうすればいい?

考えろ。

考えろ。

考えろ。

「……あ」

女の子が動けなくても支障(ししょう)はなくて、あわよくば男を無力化できるかもしれない作戦がある。やはり俺は天才か! 勝手に口角が上がってしまうぜ。

「な、なんなんだよお前!」

男は上半身を燃やしている俺が独りで笑っている様が見えたのだろう。男は勝手に戦慄(せんりつ)していた。そんな男に、我輩がさらなる恐怖をくれてやろう!

「フハハハハハー! お前にも着衣水泳の怖さを教えてやろうかー!」

「な、何をする気だ! 早く手を離しやがれ!」

 男は慌てた様子で怒号して、俺の背中に肘打ちや脇腹に拳をめり込ませる。それでも男が放った炎に比べれば容易に耐えることができる。

俺は男の背中に回していた腕をそのまま男の両太ももを下から担ぐように持ち直す。男は地面と完全に切り離されて、上擦った声で何かを叫びながらジタバタと暴れる。

男を離してしまわないように注意したまま、右方(うほう)できらきらと輝いている泉の水面へ素早く俺は向き直る。

「はぁーーーー……っ!」

俺は大きく息を吸い込んでから、一直線に泉がある方へ全力で走りきらきらと輝く水面へ飛び込んでいく。もちろん、担いでいた男も道連れだ。

ドボンと大きな音を立てて、俺と男は泉の中にずぶずぶと沈んでいく。俺の上半身を燃やしていた炎が、男の両腕を覆っていた炎が、鈍く煌めいてから水に飲み込まれていく。乾いた眼球も潤い、やっと視界に自由が利く。

泉の中は陽光のおかげか見通しはかなりよく、水中で森林のように生い茂っている水草や苔などが簡単に見ることができた。純粋に泉の水が綺麗というのもあるのだろう。

それでも泉の底はかなり深いらしく、空から注ぎ込まれる光の束は、水中の闇に呑まれて泉の底を照らす前に消失してしまう。

と、いけないいけない。泉に見惚れている場合じゃないや。

俺は着水した時の衝撃で男を掴んでいた腕を解いてしまっていたようだ。鎮火された男は俺よりも数メートルほど下でもがくように沈んでいる。俺はそんな男を目掛(めが)けて、全力バタ足で接近する。

男は水を吸って重くなった首元の布が邪魔なのか、あっさりと俺の接近を許してしまった。男は突然の事態で相当パニックなのか、近づく俺に向けて右手を突き出してきた。男の右腕が真紅に輝き、炎が吹き出てくる。

だが、ここは水の中だ。当然のごとく、炎は一瞬で消えた。

俺はその間もバタ足を続けて肉薄し、自分の腕と周りを見渡してやっと状況を完全に理解した男の無力化を図る。

無力化と言ってもそんなたいそうなことじゃ無い。むしろ最低な部類だと思う。

俺は両手を男の首に伸ばし、全力で握りしめる。

お願いだ。さっさと気を失ってくれ。

男は抵抗として俺の顔を荒々しく殴ってくるが、水中で殴られたって痛くない。俺はもがき続け次第に勢いをなくす男の首に、一段と両手に力を込めて意識を手放すことを願う。

「……ボガッ!」

やがて男の口から、大きな気泡群(きほうぐん)が零(こぼ)れでる。俺の顔を気泡群が、優しく叩いて水面へと昇っていく。

男は手足を投げ出すように水中で大の字になり、服の重みでみるみる泉の底に引き寄せられていく。

これで男は無力化が出来た。早くこいつを、陸に上げないと。

俺は沈み続ける男の後ろに回り込んで、羽交い締めするように掴んで水面を目指して脚を動かす。……だが悲しいかな。既に俺も限界だ。

俺の手足は鉛の様に重く、思考は水に溶け出し、視界に映るのは暗闇ばかりだ。

あぁ、この男はどうしよう。死ぬのは俺だけで良かったのに。

すまない。……来世では女の子を襲わずに、健全に生きてくれ。

俺は途切れ途切れになる意識の中で、勝手に男の冥福(めいふく)を祈ってから眠るように瞼を閉じた。

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俺が信じたのは自分の心でした。 まよ @Tomayo

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