第7話 着衣水泳は、やめましょう。

「そうと決まったら、早速始めましょうか」

これから俺は、第二の生を与えられる。

「昔の私が間に合わなかった理由ですが、あの時は生を得るのに時間が掛かりすぎて、私の肉体が完全に消滅してしまったからです」

 あぁ。それで彼女は、自分で助けにいけなかったのか。

「ですが、今のあなたは死んでから間もないのです。第二の生さえあれば、即座に生き返るはずです」

 彼女は第二の生があっても、それを注ぐ器が無い状態。

 俺は第二の生が無くて、注がれる器だけがある状態。

 これが、俺を生き返らせることが可能な理由か。

「あなたの肉体が、いつ使えなくなるか分かりません。今から始めますが、少し苦しいかも知れません。……大丈夫ですか?」

「お、お願いします」

 少し怖いが、ここは我慢だ。

俺の決意を受け取ってくれた彼女が、静かに告げる。

「重ねて感謝します。それでは……。水神よ。御加護(ごかご)を!」

 突如、俺は冷たいものに包まれる。

この感触は俺が生前最後に感じたものと、とても類似(るいじ)している。

これは、水だ。

 水は俺をどんどん包み込んでいく。

「あ、――。あちらの世界に――――、微力ながらも――――に授けます。ですが、今の時代――――かも知れませんが……そこは頑張って――」

先ほどまで聞こえていた彼女の声も、水で遮(さえぎ)られているせいか上手く聞こえない。


――水に包まれた俺は、加速をしながら輪転(りんてん)していく。

ぐるぐると、果てしなく回り続ける。

俺は姿だけではなく、存在も残らないほど粉々になる。何もかもが塵芥(じんかい)と化す。

そこに澄(す)み切った輝きと、全てを融解(ゆうかい)させる熱が込められてくる。

水はさらに加速を続ける。

今度は壊すのではなく、成(な)すために躍動(やくどう)する。

ちりぢりになった物を、全て掻き集めるように、ごしゃごしゃと回り続ける。

それを待ち望んでいたかのように、俺だったものや、輝きや、熱が混じり合っていく。

やがて、それらは一つになる。

とても歪な形ではあるけれど、それは様々なものと混じり合ったが故(ゆえ)の強さを持っている。


然(しか)して、新たな俺は相成(あいな)った。



苦しい。肺が空気を求めている。

俺は必死にもがく。頭上の明かりを目指して、手足をバタバタと動かす。

「ぶはっ!」

 俺は水面(みなも)から顔を突き出し、大きく息を吸う。やばい! 着衣水泳はマジで危ない! 本当に溺れるかと思った!

「今度から泳ぐときは――裸で泳ぐべきだな」

 俺はそんな決意を固めながら、どうにか陸地に這(は)い上がり海に振り返る。

「え、あれ?」

 不思議なことに、そこに海はなかった。

 あったのは楕円形(だえんけい)の泉と、そこに降り注ぐ幅広い滝だ。泉の水はとても澄(す)んでいて、太陽の光を反射して綺麗に輝いている。そこに崖から流れてくる滝の水が荒々しく落ちていき、水面は白く泡立っていた。

俺が立っている場所は浜辺の砂の上ではなく、がっしりとした土の上だ。改めて前方へ振り返って見ると、そこには木や草花などの自然が広がっていた。

「どゆこと?」

いつ、俺はこの森に流れ着いたんだ? てか、俺はこの滝から落ちてきたのか? ……そう言えば冬なのに寒くない。むしろちょっと暑いぐらいだ。

あ、そう言えばここ何県だ? いや、可能性としてはどこかの南の国の森って線もあるのか? ……あと森ってなんか癒やされるな。マイナスイオンが関係しているんだっけ? 忘れたなー、調べるか。ついでにスマホの位置情報で、俺がどこに居るのか確認しとこう。

俺は脳内でこれからの算段を整えつつ、水が滴(したた)っている手をびちょりと濡れたズボンで拭う。

「あっ……」

そう言えば、俺のスマホはポケットに入れたままだ。

ずーっとポケットの中だ。海に入った時も入っていた。もちろん、この泉から這い上がってきた時も入っていた。

俺はポケットから慎重にスマホを取り出して、その場で静かに正座をしながら地面にスマホを置く。

そのまま神に祈るような気持ちで、ゆっくりと電源ボタンに触れる。

 スマホからの返答は……沈黙だった。

「おわっ、たぁ……」

 さ、さすがに海水はダメだったか。あぁ、高校入学を機に買ったスマホが、こんな望まない形で事切れてしまった。

とても悲しい。控(ひか)えめに言って、俺の半身を無くしたみたいな感じだ。大袈裟(おおげさ)に言えば、死にそうだった。

……仕方ないか。どんなに嘆(なげ)いて項垂(うなだ)れていても現実は変わらない。今はスマホを弔(とむら)ってやるべきだ。

俺はふらふらと立ち上がりながら泉の真ん前から、近くの木陰(こかげ)に移動する。そこに少し深めの穴を掘(ほ)り、スマホを埋めて粛々(しゅくしゅく)と合掌(がっしょう)する。

「心配すんなよ。独りぼっちは、寂しいもんな……。安心しろよ、俺もそっちに行くよ」

俺が涙ぐみながらスマホの冥福(めいふく)を祈っていると、その静寂(せいじゃく)を破(やぶ)くように慌ただしい足音が聞こえてくる。

「待て! 小娘っ!」

「いやっ、来ないでください!」

細身の男が、一人の女の子を追いかけていた。泉の前で追われていた女の子は立ち止まり、男の方へ振り返る。俺が木陰に移動したためか、両者は俺に気が付いていないみたいだ。

女の子は新雪(しんせつ)みたいに真っ白なロングワンピースを着ていて、彼女の長く綺麗な黒髪が際立(きわだ)って見える。慎(つつ)ましい胸元には、水滴(すいてき)のような物がぶら下がっている。それは薄く藍(あい)色(いろ)に輝き、陽光を反射させる水面(みなも)の様に艶(つや)やかだ。おそらく首飾(くびかざり)の類(たぐ)いだろう。

女の子の顔立ちは、かなり整っている。あの女の子がアイドルデビューでもすれば、瞬く間に俺はファンになり、あっという間に飯代をグッズ代に充(あ)てて、栄養失調になって倒れる自信がある。

そんな女の子は小さな動物みたいに、身をがたがたと震わせている。顔には焦燥感(しょうそうかん)や恐怖と言った表情がありありと滲(にじ)み出ている。

遠間(とおま)にいる俺ですら、それが読み取れるんだ。本人が感じている焦燥感や恐怖は、俺には計り知れない程だろう。

男の方は上半身を隠すように、首にから深い緑色の布を纏(まと)っている。腰には短剣の様なものがある。かなり身軽そうな服装だ。

「……これはあれか? 美少女コスプレイヤーを変態コスプレイヤーが襲っている、てことか? 事案(じあん)ですねー」

とりあえず、落ち着こう。一般ピープルの俺にできることは限られている。まぁ、最善手(さいぜんて)は警察に通報だろう。二人から目線を逸らさないまま、ゆっくりとスマホがあるポッケへ手を伸ばす。

「……あっ」

おっと。そう言えば、俺のスマホはご臨終でしたわ。ガハハ!

「……ヤバいヤバいヤバい! 非常にヤバい! どうすんの? どうすんのこれ!」

もう通報は出来ない。ならどうする。俺が止めに入るべきか? 

……いや待てよ。これはあの二人の中で『襲われる森の姫』みたいな題材で、写真撮影をするつもりなのかもしれない。

なんだ! そういうことかよ。少し考えれば分かるじゃないか。もー、俺ってばお転婆(てんば)なんだから!

男が女の子に向かって「ぐへへ」って気味悪い笑みで迫っていて、女の子は涙ぐみながら助けを求めているけど、これは彼と彼女の、役作りの賜物(たまもの)なのね!

俺が現状整理(現実逃避)に勤(いそ)しんでいると、男は業(ごう)が煮(に)えたのか少女に向かって怒気(どき)を含(ふく)んだ言葉を飛ばす。

「いい加減、追うのは疲れたぜ……」

そう言いながら、男は腰の短剣を慣れた手つきで抜刀(ばっとう)する。

その途端(とたん)に香(かお)る、鼻腔(びこう)を刺激する血の臭い。刃の根元は、赤黒く染(そ)まっていた。

男が手にしている刃は、生きているものを切り裂いた。刃(やいば)のくすんだ赤色や、命の匂いが、その事実を否応(いやおう)なしに告げてくる。

女の子には切り傷は見えないが、どこか切られたのだろうか。ここからでは確認のしようがない。

……ていうか、これは紛(まが)うことなき事件だ。変質者が、女の子を襲っている。あの刃が少女を切り裂くのは、時間の問題だろう。

それは、分かっている。

だが、俺のスマホは海水漬け&埋葬済だ。どうやっても先に警察が来るより、女の子の肌に刃が食い込む方が先になる。

だから、警察を呼びに警察署に行く選択肢は消えた。なら先程の結論のように、俺が止めに入るべきなのか?

いや無理でしょ。短剣を持った成人男性を無力化するなんて、俺には絶対できないぞ。

男と女の子の距離はジリジリと、早さはないが確実に狭(せば)まっている。

俺が、助けに行かなきゃ。

心では、それが正解だと分かっている。

それに俺は、死を望んでいた。今になって、自分の命に執着する謂(い)れはない。けれど、実際に死の危険が顔を見せると、俺の四肢はピクリとも動かない。

「……すまない。俺には、何も出来ない」

その声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。とても弱々しくて、惨(みじ)めな嘆きだった。

先程の俺の言葉は、誰かに許しを乞(こ)うための言葉じゃない。形式的に謝罪をして、俺には救うつもりがあったと言い張る為の言葉。

自分の無力さを理解しているつもりになって、身の丈に合わない行動はしない俺が正しいのだと、自分を正当化させる言葉。

「ごめんなさい……」

 それが痛いほど理解できていても、俺の口から零(こぼ)れる言葉は変わらない。

あぁ。なんて俺は、取るに足らない人間なんだ。

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