第4話 悔いは無いから、これでいい。

俺の世界から、色が失せていく。あんなにも賑やかだった界隈(かいわい)は、腹立たしい程に森閑(しんかん)としている。すこし暑いぐらいに効かされていた暖房も、すでに感じられなくなった。

俺は自身を壊さない為にも、思考を放棄(ほうき)する。一緒に感情や感覚も手放す。

これ以上は駄目だ。じゃなきゃ、俺を守れない。

「くっ!」

 奥歯を噛みしめ、足が駆(か)けだす。俺の意思ではない。本能的に、この空間が俺に与えるストレスは、俺が許容(きょよう)できる範囲(はんい)ではない。そう悟(さと)ったのだろうか。

俺は誰(だれ)憚(はばか)らず、急駛(きゅうし)する。

ショッピングモールの出口へと、俺の足は向かっていた。

俺の視界は、朧気(おぼろげ)に歪んでいる。だが、今は関係ない。そもそも、俺は視線をどこにも置いていない。

時たま肩に軽い衝撃を受けて、耳の縁(ふち)を誰かの声みたいな音が撫(な)でていく。

ドガッと一際大きな音と衝撃が、俺を現実に引き戻す。

俺の左肩が、ショッピングモールの自動ドアと激突した。明確に、痛みを感じる。

それでも情けなく呻(うめ)き声をあげ、刹那に揺らめくだけに留(と)めて走り続ける。

俺は止まれない。止まってしまったら、あの光景を思い出してしまう。

全身全霊で、四肢(しし)を稼働(かどう)させる。

考える余地なんて、これっぽっちも残さないようにと。



 俺は、夜の浜辺に倒れこむ。自身の乱れた呼吸音と、心地よい波の音が聞こえる。

眼前(がんぜん)には際限(さいげん)なく海が広がっていて、太陽はずっと前に沈んでいる。

普段から勉強の休憩中に、筋トレやランニングをして体は動かしている。だが、自分の意思で動かせない程に疲弊(ひへい)するのは、初めての経験だった。

 夜気(やき)によって冷やされた砂の温度を、俺は堪能(たんのう)しながら考える。

「ショッピングモールから、どんだけ走ったんだろう……」

止まることを疎(うと)ましく思った俺は、最終的に河川敷(かせんじき)の土手(どて)を走り続けた。海にぶち当たったのは、たまたま下流に向けて足を動かしていたからだ。

ポケットに入れたままの、汗で光沢がマシマシになっているスマホを開く。

午前二時三十四分。

「あれ? すごいな俺」

フルマラソンの完走とか、できるんじゃないか?

スマホを掲げていた腕を、こときれた人間のように、だらりと砂浜へ下ろす。

俺は緩やかに、それでも確かに瞳を閉じる。

 それでも俺の目からは、涙がこぼれ出す。

 こんなことをしていたって今日、というか昨日の出来事はなくならないし、忘れもできない。

たぶん、大学には通えない。バイトもしてないから仮に合格しても、俺だけじゃ入学金が払えない。奨学金制度の登録は、とっくに期限が過ぎているだろう。そんで唯一の肉親には捨てられ、俺を厭(いと)う者が新しい父親になる。

「はは。無理だろ……」

 何も楽しくないのに、自然と笑みが湧き出る。

一(いち)学生(がくせい)の俺では、どうしようもないだろ。

俺に残された唯一の選択は、独りで惨(みじ)めに嘆(なげ)いて、未来を閉ざす準備をすることぐらいだろう。

「あーあ、なんでかなー」

大学でやりたいことは、沢山あった。

どんなに下らない事でも一緒に笑い合える、友達を作りたかった。

こんな自分を受け入れてくれる、恋人と出会いたかった。

多くの人間と触れ合っていろんな事を学んで、人として成長したかった。

自分や他人に誇れる、目標を掲(かか)げたかった。

この他にもまだあった。数えるのが億劫(おっくう)になるほどあった。

けれど、もうおしまい。あんなに沢山あったものは、すべて朽ち果てました。

これから先にあるのは、人生を消耗(しょうもう)する事だけが目的の生き方だ。

そんな腐敗(ふはい)した世界で、俺は生きていくのか。

 無尽蔵(むじんぞう)に押(お)し迫(せま)り、移ろっていく様々な感情。

憎悪(ぞうお)なのか、哀(かな)しみなのか、悔(く)いなのか。

言葉でいちいち表すのが、間抜けにすら思えてしまう。

「……いやだなー。こえーなー」

 自分の生き方を、自分で決められないことが嫌だ。

目的もなく寿命が尽きるのを待つように生きる、傀儡(かいらい)のように過ごす日々が怖い。

「……」

 涙で濡れた頬を拭いながら、俺は熟考(じゅっこう)する。

こんな理不尽を押しつけられながら生きることに、意味なんてあるのだろうか。

俺を苦しめる為だけに存在する世界に、俺が居座り続ける謂(い)われはあるのだろうか。

前者の問いでも、後者の問いでも、俺の答えは同じだ。

「ない、だろ」

俺は目を開いて、一つの決意をする。

俺の人生に、己で幕を下ろす決意をする。

先ほどまで鉛と化していた俺の体が、幾分(いくぶん)か軽く感じる。決意のおかげかもしれない。

 俺は砂浜の上にゆっくりとだが、しっかりと自分の意思で立ち上がる。

 夜空だと思っていた空は、すこし白(しら)んでいる。

 かなり長い時間ここにいたのだと、俺は今更ながら気が付いた。

 普段から物思いにふける方だとは自覚していたけれど、このレベルはもう笑わざるを得ない。俺はどんだけ夢中で考えていたんだか。やれやれだぜ。

自分に自分で呆れながら、俺は思う。

どんなに小さな事でもよかった。

俺のことを、最後に自分だけでも知ってあげることができて、とても嬉しく思う。

「もう……満足だ」

 俺にしては珍しく堂々と胸を張って、浜辺から真っ黒な海を眺めてみる。

「うっ?」

突如、海の向こう側から一陣の光がさす。あまりの眩(まぶ)しさに、俺は目がくらむ。

その光の正体は、陽光(ようこう)だ。

橙(だいだい)色や黄色、はたまた白色の光を煌々(こうこう)と発している。優しさを感じる光の束(たば)だ。

空は自身が持っている寒(かん)色(しょく)で清々(すがすが)しい色味と、太陽が放つ暖色(だんしょく)で暖かい色味を使って、緩やかに観測者へ与える印象を変えていく。そこを様々な形の雲が、時間という概念を忘れたかのように、ゆらゆらと流れていた。海は相変わらず、夜みたいに静かな色だ。だからこそ、海に鏡面(きょうめん)反射する日の光が、一段と輝かしく見えた。

「あー。すごいな……」

それしか言えない。自然の美しさの前では、どんな賢者だろうが赤子だろうが、等しく自然が有する美しさに飲み込まれるのだろう。今後、この光景の事を説明しろと言われても俺は「すごかった」とか「やばかった」の一言でしか伝えられないと思う。……ま、そんな機会は、もうないだろうけどな!

 ……うむ。特大の自虐ネタが綺麗に決められたので、なおさら満足だ。

 まー、唯一の心残りとしては……この美しい光景が、この瞬間だけの物だというところか。できるなら、この瞬間を切り取って、いつでも眺められるようにしたい。

正直、魅入(みい)られたと言ってもいい。俺の朽ち果てた世界が、一瞬だけでも色付いたのだから。

「……よし。そろそろ終わらせるか」

最後の最後に、本当に素敵なものを見ることをできた。これは俺の余生を、すべて差し出しても足りないぐらいのものだ。これ以上望んでいたら、罰が当たりそうだ。

「さて」

どうやって終わらせようか。

俺はガイナ立ちをして、海を眺めながら思考を練(ね)っていく。

「……」

ふと、思いつく。

 この海の向こう側には、何があるのだろうか?

 俺の目の前の海は、ざっくりいうと太平洋だろう。一般常識で考えれば、太平洋をまたいで、アメリカあたりに到着するはずだ。泳ぎ切れればだけど。

……けれど、もしかしたら。この海の向こう側は、アメリカじゃなかったら。

この海の向こう側は、この景色よりも数段と美しい世界が広がっているとしたら。

この海は、その世界への入り口なのだとしたら。

幾分(いくぶん)かは、素敵じゃないか?

不思議なことに、俺の恐怖は和らぎ、楽しくすら思えてくる。

「よし。決まった!」

その場で手足や首をぐりぐりと回して、俺は入念に準備体操をする。

そして、二月の海へと駆(か)けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る