第2話 受験生でも偶には馬鹿になる。

「ただいまー」

俺は自宅の扉を開けて中に入り、帰還(きかん)の意を告げる言葉を発する。

しかし、返答はない。それもそのはず、今の久瀬(くぜ)家には誰もいない。

母は仕事だ。父はもういない。俺が四歳の時に母と離婚して以来、どこで何をしているのか知らない。兄弟や姉妹もいない。母と俺だけの家だ。

正直な話、居心地はあまり良くない。俺の高校入学を境(さかい)に、母からは疎(うと)ましく思われているからだ。

大学の学費は母が全て用意すると言っているので現状の不満を母にぶつけてしまうと、学費の話が破談(はだん)にされる可能性があるので迂闊(うかつ)には言えない状態が続いている。

それでも俺からしたら、母はたった一人の家族だ。

今は経済的にかなりの負担がかかる時期なので、母には相応のストレスがあるに違いない。それさえ過ぎれば、少しは良くなるはずだ。

とりあえず、俺が反発するのは、問題にしかなりえない。

母が落ち着くまでは、この空間を耐えしのぐしかない。

これが――最善(さいぜん)策(さく)だ。

すでに何遍(なんべん)も決意したことを、再び心に誓(ちか)わせる。

「際限(さいげん)ないな」

 ついつい口角だけが歪(いびつ)に持ち上がった、出来の悪い笑みがこぼれる。

俺は皮靴を気怠(けだる)さ満載(まんさい)で、ゆったりと脱ぎ捨てる。

そこで俺は、あることに気が付く。

「なんというか……すっげぇネガティブだなー」

いけないけない! せっかく早く帰ってこれて気分が良いのに、自ら気分を下げるなんて愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)だ。とりあえず部屋で着替えて、さっさと部屋着になろう。

俺は手洗いとうがいをちゃっちゃと済ませて自室に入り、制服やシャツをあえて勢いよく脱ぎ捨て、ボクサーパンツと靴下だけの格好になる。そのままの格好で自室にある、ベッドのヘッドボードに置かれている黒い電波時計で時間を確認する。

時刻は、まだ午後の一時を表示している。

「さて。思った以上に早く帰ったが……どうすっかなー」

いつもなら四時過ぎに帰宅をしているのだが、今日はまだ一時だ。

勉強は普段より早くやるとしても、三時ぐらいからで十分だろう。

「んー」

二時間で、何をしようか。

今は考えている時間すら惜しい。故に『本気の一休さんポーズ』をとるしかあるまい。

だが、ここで問題が生(しょう)じる。

床だと尻が痛くなるし、俺の勉強椅子は中古のオフェイスチェアなので、手すりが邪魔で座禅(ざぜん)が組めない。

床は柔らかくて、座禅を組むのに俺のおみ足を遮(さえぎ)る物がない、そんな場所が必要だ。

「――よし。今日はベッドの上でしますか!」

俺はそそくさとベッドの上に移動して、一つ深呼吸をしてからポージングをする。

……ベッドの上でボクサーパンツと靴下だけを着用して、座禅を組みつつ、両手の人差し指で頭を指さすようにしている。これはあれだな。人様には、死んでも見せられない惨状だな!

だが、俺は目的を遂行(すいこう)するためには、手段は選ばない人間です。世間体なんて気にすんな!

「さて、テレビゲームで遊ぶか、録画したアニメをみるか、読んでいない漫画か小説を読むか……」

多分ゲームとかの娯楽(ごらく)系(けい)をしたら、ずーっと遊んじゃいそうだ。アニメも漫画も小説も、そんな感じがする。遊ぶ系は危険だな。……ならばどうするか。

数瞬の沈黙を経(へ)て、俺は徐々(じょじょ)に目を見開く。

「……そうだな。新しい本を、買いに行こう」

本は買っても、今日は読まない。一度読み出したら最後まで読まないと、続きが気になって勉強に集中できない。ならば、読まなければいい。

すぐに読まないで、受験が終わったときに読むための、言わばご褒美的な物にしよう。

今の俺は、ご褒美を満喫(まんきつ)する為にも、受験を失敗させない為にも、全力で勉強する。

大学合格後の俺は、苦労の末(すえ)に数多(あまた)のご褒美に囲まれて幸せになれる。

「あー、神よ。これが天啓(てんけい)か。……我は神の声を聞く者なり!」

 俺は天を仰(あお)ぎ見て恭(うやうや)しく合掌(がっしょう)をしてから、世界中の全てを抱擁(ほうよう)するように、自分の身を抱きしめる。

……すごい活き活きとした顔してるだろ。嘘みたいだろ。これで受験生なんだぜ。

俺が一番驚いてるよ。やっぱり、今から受験勉強しようかな?

はぁ。……こんな小芝居もそれなりにしつつ、さっさと着替えて本を買いに行こう。

俺は自分に軽く失望しながら、タンスから着替えのニットとズボンを取り出した。

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