第26話 空っぽの勇者 1
三日後─────。運命の日は訪れた。王都から北方に位置するベルム領。鉱石資源が豊かで、各地との交易が盛んに行われているここは、比較的裕福な街を構えていた。
しかし、実態は貧富の差が激しく、民達は上流貴族にひたすら搾取され続ける。また、鉱山での作業環境も劣悪かつ低賃金で、衰弱死や事故死が後を絶たない。
平等という言葉はなく、貴族は酒池肉林の限りを尽くし、民は明日の命も知れぬ過酷な人生を送っていた。
そんなベルム領に、今日は各地から諸侯が豪勢な馬車に乗って次々と入ってきていた。そのおかげで街も賑わい、富裕層の人間達は大いに盛り上がっている。
その理由は、催しものの中でも大規模に行われる、ある祭事が要因だった。
それが執り行われる教会に、諸侯達は晴れやかな笑顔で足を踏み入れていった。
「ようこそ、ベルム領へ」
無精髭を生やしたルロイド・ベルムは、諸侯達一人一人に挨拶をしていた。
「いやはや、本当におめでたい。まさかこんなにも早くクレイスのお坊ちゃまが婚約するとは」
「ええ。私も聞かされた時は驚きましたよ」
「でも、相手の女性は辺境の地の出身なのでしょう?そんな何の力もない娘で良かったんですか?」
「…………お言葉ですが、あまり花嫁のことを侮蔑なさらないで頂きたい。私の息子が選んだ女性です。出自がどうであれ、祝福するのが親としての務めでしょう」
胸を張って言い放ったルロイドの言葉に、諸侯達から歓声が上がり、拍手するものなどいる始末だった。彼の胸の内にあるものを、有象無象は知る由もない。
(愚者どもめ。私ほどの地位をもってすれば、息子の嫁が何者であろうと関係ない。このベルム家は安泰なのだ。加えて、あの娘は愚息が見つけてきたとは思えないほどの美しい容姿を持っている。それだけで、我がベルム家に迎えるのに十分な理由だ)
ルロイドが舌なめずりをして、邪悪な笑みを浮かべたことに気づいた者は、誰一人いなかった。
「諸侯の皆様。この目出度い日にわざわざ足を運んでくださったこと、大いに感謝致します。さあ、中へお入りください。我が跡継ぎとその妻の晴れ舞台、どうか祝福の言葉で飾ってくれますよう願います─────」
三人ほどの給仕の人達が、せっせと私に花嫁衣裳を着せていく。それはまるで、鎖で縛られるかのようだった。もう後戻りは出来ない。お前は運命から逃げられないんだ。そういうメッセージが込められているとしか思えなかった。
その後、鏡台の前に座って軽い化粧を施されていく。今まで化粧などしたことがなかったため、どんな顔になるのかなど想像がつかなかった。
ただ無心で待つこと十数分。給仕の人達の手が離れ、化粧は終わったようだった
「お綺麗ですよ」
給仕の人は微笑みながら、優しくそう告げてくれた。たしかに、いつもとは印象が違う。粉雪のように白い肌に、薄紅色の唇。全体的に透明感が増していて、いつもより自分の顔が綺麗に見える。それは、嬉しいことのはずだった。
だと言うのに、鏡に映っているその女性のどこにも、感情が見当たらなかった。空虚で何も無い。まるで────空っぽの花嫁だった。
しかし、それこそが私の理想だった。この式までの三日間、苦痛を感じないように心を捨てる努力をしていたのだから。その努力は、どうやら実ったらしい。
嬉しい。目標が達成出来て、嬉しい。けれど、悲しくてたまらない。胸の奥底で、抑圧された感情達が悲鳴を上げている。
泣きたい。逃げたい。立ち去りたい。いっそ、消えてしまいたい。そんな想いを全て投げ捨てて、私は鏡台の前から立ち上がった。
そんな弱音を吐いたところで、現状は変わらない。そう、私さえ犠牲になれば、私さえいなくなれば、村のみんなも、お父さんもお母さんも、ルシも。みんな幸せに、穏やかに暮らせるんだ。
なら私は、喜んでこの体を差し出そう。これは、いいことなんだ。いいこと、なんだ────。
私は歩きにくいウエディングドレスを纏ったまま、教会の入口へと向かう。すると、そこにはタキシードに身を包むクレイスの姿があった。
クレイスはこちらに気がつくと、瞳を見開いて駆け寄ってきた。
「おお!想像以上だ!俺の目に狂いはなかったなぁ!」
人を珍品のように眺めてくる。非常に不愉快で、息が苦しくなる。しかし、それらを全て押し殺し、クレイスと共に入口の扉の前に立った。
「どうだ、リアナちゃん?俺という貴族様の花嫁になる気分は?」
「.............別に、何も無いわ」
私はクレイスに見向きもせずに、そう答えた。だって、彼を視界に映してしまえば、ありったけの罵詈雑言を浴びせてしまいそうだったから。そうなれば、この男が村にどんな仕打ちをするかわからない。私は全ての感情と言葉を、心の奥底に沈めていく。
「ようやく覚悟が決まったってことでいいよな?」
クレイスが笑みを深めるのとほぼ同時に、中から声が響く。
「それでは、新郎新婦のご入場です」
「あ、もうそんな時間か。じゃあ、リアナちゃん?」
そう言って、彼は片腕をくの字に曲げた。私は唇を噛み、涙を押しとどめながら、彼の腕に手を通した。
扉はガチャり、という重い音と共に、ゆったりと開かれる。そして、割れんばかりの拍手と歓声に導かれるように、バージンロードを歩き始めた。
「おお.......!あれがクレイス殿。いやはや、ルロイド卿と同じ威厳を感じる!」
「あれが花嫁.......!なんと美しいことか。この世のものとは思えんほどの美麗さだ!」
席に座っている者達の誰も彼もが、富裕層の貴族達だと一目で判別できた。
纏う服はひたすら豪奢なものばかりで、付けている装飾品も庶民が一生働いても手が届かない宝石が拵えられているものばかり。
また、様々な賛辞を送ってきてはいるが、心のこもっているものなど一つもなかった。ただベルムの領主に媚びを売りたいから、褒めたたえているに過ぎない。それが見え透いてしまった。
全ては、己が欲望のため。誰もこの婚約を心の底から祝福しようなどと考えてはいなかった。
バージンロードを一歩一歩踏みしめる事に、捨てたはずの心が折れる音がする。違う。何もかも、違うのだ。
だってここには、お父さんもお母さんもいない。村長も、村の人達もいない。私の理想だった結婚式は、お父さんとお母さんがかつて行ったような、村での慎ましやかな結婚式だった。見知った人達に祝福してもらい、権力も欲望も介さない、暖かなあの場所で挙式を上げたかった。
そして何より、私の隣にいて欲しかったのは、こんな男ではなかった────。
私は失意と無力感に苛まれながらも、何とかクレイスと歩幅を合わせて歩いていく。そして、程なくして司祭の前へとたどり着いた。たどり着いて、しまった。
司祭はローブを深く被りながら、手元の聖書を淡々と朗読していく。
その司祭の言葉が告げられていくうちに、段々と抑えていた感情が暴れ出す。
どこで間違えたのだろう。なんで、こんなことになってしまったのだろう。私が、何をしたのか。いやむしろ、何もしなかったから、いけなかったのか。
ならば、私の人生は、一体なんだったのだろうか。困っている人を助けたい。そう思っていた、だけなのに。ただあの男の子と、一緒にいたかっただけなのに。
心が苦悶の炎に焼かれて爛れていく。後悔が、失意が、無念が、私を殺していく。
「では、誓いの言葉を─────」
司祭の言葉で、私とクレイスは向かい合った。相変わらずの寒気のするような笑顔を向けてくる。
私は、この人間と生涯を添い遂げるんだ。一生飼われ、嬲られ、飽きるまで玩具のように弄ばれるのだろう。父と母が大事に育ててくれた私という娘の末路は、生んでくれた両親に大した恩返しも出来ずに終わるのだ。────本当にごめんなさい、お父さん、お母さん。
「汝、クレイス・ベルムは、リアナ・リーベルを妻とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、生涯を遂げることを、神と証人の元で誓いますか?」
「.......誓います」
クレイスは許容するはずのない誓いを受け入れた。
新郎が承認を示すと、司祭は次に新婦に問うてきた。
「汝、リアナ・リーベルは、クレイス・ベルムを夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、生涯を遂げることを、神と証人の元で誓いますか?」
ここで首を縦に振れば、村のみんなは救われ、何事もなく平穏に終わる。そう、それでいいじゃない。私の心なんて関係ない。だって私の本当の望みは、村の人達が笑顔で過ごすことだもん。
だから、全部忘れて─────
『ああ、リアナ。おかえり』
…………忘れ、るの。
『すごいね、リアナは』
やめて……。
『リアナがそう言うなら、わかったよ。手加減はしないからね』
『ははは、お前達は十六になっても全然変わらないな』
『いいことじゃない。つまらない大人になるよりずっと』
『リアナ〜』
『リアナ?』
『リアナ……!』
やめて、やめてよ…………。
心を捨てようと思えば思うほど、感情が溢れ出す。
思い出を捨てようと思えば思うほど、記憶が溢れ出す。
楽しくて、幸せだったあの日々が、どうしても忘れられなかった。けれど、その全てに、お別れをしなくちゃいけない。
苦しくて、辛くて、切なくて。胸が貫かれるように痛い。ごめん、ごめんね、みんな。
気づけば、瞳が濡れて、頬を熱涙が伝っていく。とめどなく溢れ、止めようと思っても止められなかった。それほど、私は想っていたのだ。あの日々を、あの男の子を。
私は、それらを全て飲み込み、口を開いた。
────今までありがとう。大好きだよ、ルシ。
「誓いま」
「せんッ!!!」
新婦の言葉を、明朗快活な声が遮った。神父服と付け髭が宙を舞い、司祭の中から声の主が姿を現した。
「悲痛な運命に涙を流す新婦なんて、誰が祝福するんだっつーの」
「…………え?」
────彼のことを、私は知っている。茶色がかった髪に、どこまでも真っ直ぐで優しい瞳。昔からずっと、その顔を見てきた。
口調や身なりが変わろうと、その面影に全く変わりはなかった。こんなところにいるはずがない。きっと別人だ。そんな考えすら湧かなかった。これは、昔から一緒に住んできた私だから持てる確信だ。
彼が、来てくれたんだ……。
己が運命を嘆く涙は、再会の調べと共に歓喜の涙へと変わっていく。そして、彼女は太陽のような眩しいほどの笑顔を咲かせた。
「久しぶりだな、リアナ」
「ルシ…………!」
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