第25話 願いは届かず
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。思考は真白に染まり、視界も断続的にぼやけていく。手足から力が抜けていき、ただ呆然と意識だけを保っていた。
「リアナ・リーベルが、婚約だと?」
「そうっす。姉御、前からあの子のこと気にしてましたから、一応報告した方がいいかと思って」
「クレイスの奴、調執騎士団の動きに勘づいたのか……。それにしても、とんだ暴挙に出たものだな」
何やら二人が言葉を交わしているが、もはや耳に届かない。
行かなければ────。その意思だけが全細胞を支配し、気づけば俺は一歩踏みしめ、駆け出そうとしていた。
「…………!待て!」
しかし、その寸前にアリサさんに腕を掴まれ、俺の足は強引に止められた。
瞬間、胸の内からどす黒い憤怒が湧き上がってくる。
「…………放せよ」
「何をしようとしているのかお前が話すのであれば、な」
「あんたには関係ないだろ?」
「そんな顔をした奴を放っておけるか」
「…………!放せって言ってるだろッ!」
怒りのマグマが脳天から吹きあがり、目の前が真っ赤に染まっていく。
俺はアリサの腕を無理やり弾き飛ばした。
「ルシードさん?!」
「どうしたの、ルシード……!」
心配そうな表情でルイナとメイが駆けてくる。そんな彼女らにさえも、手を出してしまいそうだった。それくらい頭に血が上り、思考があいつの辛そうな顔で埋め尽くされていた。
「邪魔を、しないでくれ」
「ルシード……」
俺は喉から振り絞るように、嘆声を上げた。
「俺は、あいつの元へ行かなきゃいけないんだ……!じゃなきゃ、なんの為にここまで来たのか、わからねぇじゃねぇかよッ!!!」
♢
麗らかな草原。空気は乾き、降り注ぐ陽光が大地を満遍なく照らす。魔族の気配もなく、ただただ穏やかな景色が広がっていた。
そんな草原を、通常より一回り大きな馬車が駆けていく。執事服に身を包む男が手綱を握り、二頭の馬を走らせる。
馬車の中からは、この清廉な大地に似つかわしくない下卑た笑い声が響いていた。
「オルト、ディロイ、よく同行してくれたな」
「そりゃあ、せっかくのクレイスの晴れ舞台だからな」
「ちゃんとパーティーメンバーとして祝ってやるよ」
「ハッ、んな事言っときながら、俺の領土の女目当てだろう?」
「それもある、とだけ言っておくぜ?」
「まあ期待しとけよ。親父の使用済みなら、中々の上物がいるからな」
「お前の親父の中古かよ〜」
「初物が良かったぜ」
「るせぇなァ、文句言ってんじゃねぇっつの」
アッハハハハハ!と、男達は揃って高笑いを上げていた。相変わらず耳障りだが、今日は特に不快な気分になった。
「ん?おいリアナ、露骨に嫌そうな顔すんなよ?」
「………………」
私は無言のまま視線を逸らし、外の景色に目を向けた。少しでもこの汚泥に満ちた空気を、穏やかな外観で中和して欲しかった。
しかし、クレイスが耳元まで近づいてきたことで、さらに不快な黒が心に満ちていく。
「安心しろって。結婚したらちゃんと可愛がって、俺色に染め上げてやっから」
「…………!」
私が内から憎悪を滲ませ睨めつけると、クレイスは笑声を上げながら離れていった。
「おっかねぇな〜お前の新妻は」
「鬼嫁ってやつか」
「なーに、すぐに従順になるさ。俺が何人の女を抱いてきたと思ってる。どんなに嫌がる女でも、最後はよがってただろ?」
「確かにな。お前の最低で最高の責めは尊敬してるぜ?」
「それで落とした暁には、俺らにもお零れがあると思っていいんだな?」
「仕方ねぇなァ。いいけど、こいつは俺の領にずっと置いとくから、抱きたい時はこっちまで来なきゃいけねーぞ?」
「なに、こんないい女が抱けるんならどこへでも行ってやるぜ」
「ハッハハハハハ!!!」
どこまでも下劣で下品な会話が繰り広げられる。吐き気はやまず、憎悪も止まらない。ただただ嫌悪だけがこの身を支配する。
どうして、こんなことに─────。
ある日の晩。
「愛してるぜ」
「なっ────!」
クレイスはそう言って私をベッドに押し倒し、両の手首を押さえ込んできた。そして、舐るように私の体を見回す。
「ほんと、いい女だな、お前は」
「離して……!」
「まあまあ、落ち着けよ。悪いようにはしねぇさ」
クレイスの瞳は焦点がイマイチあっておらず、様々な感情が濁流のように漏れ出ている。しかし、今その中でも最も強いものは、間違いなく性欲だった。
「早くどいて!」
「そんなこと言ってよー、いい加減リアナちゃんも溜まってるんだろう?だからさ、それを解消してやろうっつーわけだよ。お互い気持ちいいし、win-winだろ?」
そう言いながら、クレイスは徐々に顔を近づけてきた。あまりにも唐突な行為に呆気にとられ、体が固まってしまう。その間にも、クレイスの接近は止まらない。
「リアナちゃん……」
そして、お互いの唇が触れ合う────。その寸前、リアナはクレイスの体を思いっきり蹴り飛ばした。
「やめてって言ってるでしょッ…………!」
「グハッ……!」
クレイスは肺の空気を押し出され、その場で悶えるようにえづいていた。
私はその隙に部屋にあった剣を手に取り、臨戦態勢を取る。
「
凄まじい業火が顕現し、剣を包み込みながら燃え盛る。煌めく炎に陽炎が生まれ、視界に映るクレイスの姿を歪ませた。
「いってぇなあ」
「あんなことするなんて、どういうつもり!?」
「どういうつもりも何も、夫婦になるんだからそれぐらいしてもいいだろうよ」
「え…………?」
要領の得ない話しに、思わず呆然としてしまう。夫婦に、なる……?
「リアナちゃんは、今週中に俺と結婚すんの」
「ば、バカなこと言わないで!私はあんたと結婚する気なんてない!」
「意思なんて関係ねーの。俺が決めたらリアナちゃんは従わなくちゃいけない。当然だろ?」
「何を、言って────」
「もう待てない。もう時間が無いんだよ。だから、俺と結婚しよう、リアナちゃん」
彼の表情はひどく歪んでいる。だと言うのに、その顔から笑みが消えることは無かった。
そんな様子に恐怖を感じながらも、私は毅然とした態度で彼に言葉を返す。
「お断りね。あんたと結婚なんて、死んでもごめんよ」
「何言ってんの?リアナちゃんが断った場合、死んじゃうのは君の両親や村のやつらだぜ?」
「クッ…………!」
どんなに抗う意志を持とうと、叛逆の姿勢を向けようと、その言葉だけで全てが瓦解していく。
「拒否権はない。リアナちゃんが断ったら、その瞬間に俺の仲間を出向させる。そして、村の連中全員家畜の餌にして、その家畜をリアナちゃんの食卓に並べてやるぜ。さぞ美味いだろうなぁ!!!」
あまりにも愚劣な恫喝。けれど、この男ならそれぐらいのことは簡単に出来る。権力という意味でも、非人道的という意味でも、容易にこなせるだろう。
思考が勝手に回り、村の人達の笑顔と同時に、惨殺されるイメージまで湧いてくる。
腕が震え、足が竦む。瞳は焦点が合わず、呼吸も乱れていく。気づけば剣が纏っていた炎は火力を弱め、ただのロウソク程度の炎となっていた。
「じゃあ、もう一度聞くぜ?俺と結婚するか?いや、俺と結婚したいか、リ・ア・ナ・ちゃん?」
これから向かうのは、正しく私の墓標だ。私にとっての全てが終わりを告げられる場所だ。思い出も感情も覚悟も意思も、埋葬される。そして、二度と掘り起こされることは無いだろう。
運命を呪い、この男を恨み、そして何より─────自分の無力さを嘆いた。
現実とは無慈悲なもの。どんなに善行を尽くそうとも、悲劇というものは襲いかかる。
「お、見えてきたぜ。あれが、ベルム領だ───」
ああ、そうか。私は、ダメだったんだ。ならもう、心なんていらない。私はただの道具になるのだ。
けれど、あと一度くらいは、ルシの顔が見たかったなぁ────。
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