第17話 ハーフエルフ 5

 俺とアザカは洞窟の中へと足を踏み入れる。一歩、また一歩と踏み込む事に、異様な重圧に見舞われる。この先にいる生命がどれほどのものかなど、計り知れない。そもそも知識や経験で語ることなど出来はしない。

 自分の位置感覚も、時間感覚も狂わされるような邪気を放つ魔獣。こんな存在が地上で平気で息をしているなど、背筋が凍りつく案件だ。


 俺達は息を潜めながら、その暗闇を歩いていく。すると、程なくして開けた場所へとたどり着く。

 瞬間、目を疑うような光景が広がっていた。


「なん、だ。こいつは」


 ​───俺達の目の前にあったものは、漆黒の泥だった。見上げようとも頂点の見えない、巨大に膨れ上がった汚泥。それは粘つきながら体中を流動し、所々で地面に落下していく。いくつかの穴が空いており、そこから耳を汚すような噴出音を鳴らして泥を生成していた。

 手も足もない。口も目も鼻もない。ただただ不気味な泥だけが、そこにはあった。

 それを視界に映しただけで、体中に痺れが広がり、吐き気が込み上げる。存在しているだけでこれほどの覇気を生み出すなど、尋常ではない。およそこの世のものとは思えなかった。


(おい、まさかこいつが……)

「ああ。

(はず、ってなんだよ)

「いやなに、想定外だったものでな。シュラムがこれほどまでに成長しているとは。いや、そもそも成長するなど夢にも思わなんだ」


 ルインは至極落ち着いた声音でそう言い放った。なんで冷静なんだよ、と言おうとした所で、隣から声がかかる。


「ルシード……」


 アザカは嫌な汗をかきながら、こちらを見やる。瞳は虚ろに近く、光は宿らない。恐怖がまとわりつき、体は震え上がっていた。常人ならばこんなプレッシャーに耐えきれるわけが無い。気を失い、最悪命を落とすだろう。そこまで行かずとも、この場を直ぐに離れるようとするのが生物としての本能が持つ危機回避能力だろう。

 しかし、彼女は逃げ出そうとしない。それは決して足が竦んでいる訳ではなく、自分の決意を裏切らないため、必死に堪えているからだった。


「……アザカ、後ろにいてくれ」

「わかった……」


 俺は彼女の意志を汲み取り、追い返すことはせず後ろに回ってもらった。

 そして、再びその存在に目を向ける。


「シュラムとは、泥の魔獣。無限に体から泥を生成し続ける存在だ。その泥はあらゆる物の生命力を奪っていくため、奴が通ったあとには何も残らん。また、時には溢れんばかりの体内エネルギーを吐き出し、周囲を地獄に変えたこともある。​故に、歩く災厄。さらに厄介なことに、こやつの対策方法は無いに等しい。実態が泥であるが故に物理的な攻撃は一切通用しない。魔術による攻撃は通るには通るが、シュラムの規模が巨大すぎるのと泥の生成による再生能力が桁違いなため、意味をなさん。シュラムがやむなく断球結界ドームに封じられたのは、その不死性も大きな原因となっている。───しかし、もはやその断球結界ドームなどで閉じ込めておけるようなものでは無い。何せ、こいつはここに閉じ込められていた間、絶え間なく泥を生成し、エネルギーの貯蓄をしていたようだからな。近いうちに断球結界ドームは紙切れのように破られ、世界を呑み込んでいくだろう」


 ルインは淡々と言葉を紡いでいった。


「さて、それではどうする、ルシードよ。逃避もまた人生だ。止めはせんぞ?」


 挑発的な口調でルインは煽って来る。こいつは俺が何と答えるかわかっていながらも、こうして問いを投げてきているのだ。まったく、腹立たしい。けれど、口に出すことで覚悟が決まることもある。


(俺は、逃げるわけにはいかねぇんだよ。大切なものを、取り戻すためにも。大切な居場所を、二度と失わないためにもな)


 俺は一歩、強く踏み出した。


「行くぞ、シュラム……!」


 俺の声に呼応するように、シュラムはあらぬ所にあった円形の瞳を唐突に開いた。それを皮切りに、泥に埋もれていた瞳が次々と開眼し、その全てがこちらを睨みつけた。





 ゴアアアアアアアアアア!!!





 そして、世界が軋むような咆哮を上げた。地面は激震し、空間は無作為に揺れ動く。内蔵がひっくり返りそうなほどの衝撃に、思わず体を屈めて耳を塞いだ。


「くっ…………!」

「う、うう……!」


 終焉を告げるようなその声は、数十秒にわたって続いた。───それが終わる頃には、俺とアザカの意識は半分閉じかけていた。


「アザカ、大丈夫か?」

「ええ、なんとか………」


 俺は頭を振り、自身の麻痺しかけた感覚を無理やり取り戻す。


「これは、結構やべぇな」

「ルシード………」


 半身で振り返ると、彼女の顔は絶望に覆われていた。それこそ、彼女が立てた決意を揺るがすほどの。しかし、そんな表情はしてはいけない。させてはいけない。彼女は、母を救えると信じて、危険を冒しながらも俺についてきてくれたのだ。

 ならば俺がするべきことは決まっている。


「大丈夫だ。俺を、信じろ」


 そう言って、アザカに笑いかけた。俺にだって、恐怖がないわけじゃない。今だって膝がガクガクだ。こんなやつ、相手になんてしたくない。

 けど、こいつを倒さなければ、救われない人がいる。こいつを倒さなければ、見えてこないものがある。


 ならば、乗り越えるしかない。


 シュラムは街一つ飲み込めるほどの大きな口を開き、そこにエネルギーを集束させ始めた。

 青白い光が口内に結集し、徐々に肥大化していく。大地は恐慌するように震え上がり、大気は歪み不自然な陽炎を生み出す。


「小細工無しの真っ向勝負か……面白い」


 ルインが不敵な笑みを浮かべているのがわかる。


「心しろ、ルシードよ。あれを放たれれば、お前らどころか王都をも呑み込み、世界が形を変えるぞ?」

(………まあ、そうだろうな)


 見ればわかる。あれが放出された後の未来を。全てが荒野へと代わり、生命という生命が息絶えることぐらい想像がつく。

 そんなこと、決してさせはしない。アザカを、リアナを、王都の人達を​───。死なせるわけにはいかないんだ。


「さあ、ようやくお披露目の時間だ、ルシード!無能力ヴォイドと罵られ、蔑まれてきた男の反撃の狼煙……盛大にあげようではないか!」


 俺は全身の魔力を高め、シュラムへと一歩一歩近づいていく。この角度なら、をしても大丈夫だ。

 シュラムが集束させていたエネルギーはやがて赤黒く変化し、放たれるまでは秒読みだった。それは、多くの命の終焉までの時間でもある。





 ────僕は、無能力ヴォイドだ。何の魔術の適正も持たない、希少な落ちこぼれ。何も成し得ず、何も守れず、何も救えなかった、無能な人間だ。


 ────けど、俺は違う。未だに無能力ヴォイドであることには間違いない。しかし、ある運命的な出会いにより、無能力ヴォイド故の強さを手に入れた。

 そう、あの頃とは違うんだ。悔しさに涙を流す自分はいない。遠き幻想に目が眩む自分もいない。

 俺は全てを手に入れ、全てを守る。あらゆる理不尽を跳ね除け、あらゆる運命を弾き返し、あらゆる災厄をねじ伏せる。そのために、あの一年を過ごしてきたのだから。





「反発せよ!叛逆せよ!何人たりとも、お前の歩みを止められるものなどいない!お前の道を阻めるものなどいない!​───さあ、ここが始まりだ!お前という存在を、世界に知らしめるがいいッ!」


 ルインの声が響く。喧しいが、心地いい。


「​───行くぜ」


 俺はシュラムへ向けて手を翳す。その瞬間、


「ガアアアアアアアア​────!!!」


 シュラムは膨れ上がったエネルギーを一気に解き放つ。視界は全て赤黒い熱線に覆われ、それは大気を引き裂きながら俺の元へ刹那で到来する。


「ルシードッ!!!」


 背後から、アザカの声が響く。大丈夫だ。ここから先には、行かせねぇからよ。


 恐怖はある。不安もある。───けど、負ける気はしねぇな。


 俺はシュラムに向けて最高の笑顔を向けてやった。




業反射リベリオン──!!!」




 無能力ヴォイドの少年による、魔術の発動。本来有り得ないはずの空前の出来事は、ここで現実のものとなった。

 魔力を収束した手に熱線が触れた瞬間、それらは全てその場で停止する。いや、それどころか熱線は逆流を始め、シュラムの元へ全てが弾き返された。


「ガア、アアアアアアアアア!!!」


 熱線はシュラムの全てを焼き焦がしていく。原型を留めることは出来ず、泥により生成された体は瓦解していった。細胞一つ一つが滅され、シュラムという存在自体が消失していく。

 熱線は留まることを知らず、岩山の大部分を吹き飛ばし、断球結界ドームをも貫通し崩壊させていった。やがて熱線は空へと至り、太陽に伸びる一筋の光橋となった​────。


「はあ………はあ…………」


 俺は体に走る激痛と疲労に肩を上下させながら、口角を上げた。

 王都とは反対方向にも、街はある。そのまま真っ向から反射したのならば、熱線は地面を抉りながらその街達も飲み込んでいっただろう。だから俺はそこへ被害が出ないよう、熱線と俺の立ち位置の角度を調整し、斜め上へと反射させた。そんな俺の目論見は、成功したようだ。

 シュラムだけを討伐し、他に被害が出ることは無かった。​────加えて、目的の物も、無事にそこに咲いていた。


「よし、こんな、もんだろ…………」


 岩山が消え、陽光の満つる所となったかつての洞窟。

 そこには、ひどく衰勢した少年と、少年に駆け寄るハーフエルフの少女。そして、天に向けて強く咲き誇る、サナーレの花があった。


 ────災厄の魔獣の討伐。のちの世に語られる彼の英雄譚は、ここから始まるものだった。

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