第10話 邂逅 前編

「うわああああああ!!!」


 僕は受け身を取ることも出来ず、ただただ重力に引かれて森林へと突貫する。大木の枝や葉に激しく揉まれ、体を切り裂かれながら地面へと落ちていった。


「くっ、ううう……」


 蹲りながら、体中に走る痛みに苦悶する。どうやら木々がクッションとなって落下死は避けられたらしい。そのおかげであらゆる場所に裂傷を負ったのも事実だが。

 僕は何とか体を起こし、辺りを見渡す。景色だけであれば、木々の異常な肥大化以外に特に変わった様子はない。しかし、この森を包んでいる雰囲気は特異なものだった。殺意と悪意と害意に満ちており、その場にいるだけで身をすり潰されそうだった。

 まさに別世界。ここは、平穏平和という言葉から最も遠い場所だ。


「とりあえず、どこかへ、隠れないと.......」


 こんな傷だらけの状態で魔獣などに出くわしたら、確実に命を落とすだろう。とにかく、今は逃げなければ。見つかる前に、早く、早く.......!








グルルルルル.......







「え.......?」


 しかし、時は既に遅かった。背後へ振り返ると、一匹の狼がこちらをめつけていた。人間の十倍以上もある巨体。片方に傷を負い、隻眼となった紅い瞳。鋭利にすぎる四十二の大牙。漆黒に染まる体毛。隆起した筋肉。

 間違いない。こいつは、魔獣だ。


 狼は喉を震わしながら、こちらへと一歩一歩詰め寄ってくる。瞳は完全に僕を捉えていて、明確な殺意を滲ませていた。

 逃げなければ。早く離れなければ。そうしないと、喰い殺される。そんなことは分かりきっている。全細胞が警鐘を鳴らしている。

 それでも、体は動かなかった。極寒の大地に放り込まれたかのように、震えることしか出来ない。


 圧倒的な脅威の前で、人はあまりにも無力だ。


「ガアアアア!!」


 狼はその巨大な口を広げ、凄まじい勢いで喰いかかってきた。

 くっ、そ.......!


 足は竦んで動かない。それでも何とか刀を懐から抜き、水平に斬り掛かる。

 これで傷を負わせられれば、隙ができるかもしれない。そう考えたのだが、そんなものが通用する程甘い相手ではなかった。

 狼は僕の刀を牙で挟み、受け止めたのだ。まるで白刃取りのように。


「そん、な……!」


 獣に出来るような芸当じゃない。危機の察知能力も、思考力も、そこらの動物とは一線を画している。

 魔獣とは、理性を無くした化物じゃないのか……?


「グワウッ!!」


 狼は刀を咥えたまま大きく首を振り、そのまま僕の体を彼方へと放り投げた。


「うわああああ!!!」


 激烈な力によって放られたため、体勢を整えることも出来なかった。風を切り、空気を裂きながら宙を舞う体は、今度は木々のクッションを受けることなく地面へと衝突した。二度、三度とバウンドし、何度か体が回転してようやくその勢いは止まる。


「くっ、うう………」


 口の中に鉄の味が広がる。意識は朦朧として、思考もまともに働かない。軋むような痛みが縦横無尽に駆け回り、麻痺するような感覚すらあった。本当にこれが僕の体なのかと疑いたくなるほど、鉛のように重くて感覚が鈍かった。

 それでも、体に鞭を打って無理やり立ち上がろうとする。まだ心は折れていない。絶望するには、まだ早い……!


 そうして自分を奮い立たせるが、それとは反対に右足だけが言うことを聞かなかった。何だ、と思いその右足を見やると、ありえない方向にねじ曲がっていた。


「あああああああ……!!!」


 認識した途端、更なる激痛が立ち上ってきた。精神ははち切れ、発狂にまで至る。あまりにも惨い光景。夢だと思いたい。嘘だと信じたい。しかし、現実は痛みという形で際限なく突きつけられる。

 気を失うことも出来ず、ただそこには絶望だけが居座っていた。


 そんな極限状態の中、地を駆ける足音が一つ。こちらに一直線に迫ってきていた。もはや直感で分かる。あれは、先ほどの狼だ。


 僕は生命の終わりを悟った。恐らく、このままあの狼に喰い殺されて、人生に幕が降りるのだろう。本当に、何もなしえていない。何も出来ていない。何もやり遂げていない。

 悔いしか残らない幕引きだった。けど、人生なんてそんなものなのだろう。そう、割り切るしかない。

 だって、僕にはもう一縷の希望も───。


「………………?」


 完全に諦めかけた、その刹那。視界の端で、何かが光ったのが見えた。一体なんだ?と思い首をそちらに巡らすと、そこには人一人が通れるほどの洞窟があった。しかも、目と鼻の先に。


 その瞬間、僕は刀を支えにして強引に立ち上がった。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙……!!!」


 鮮血が滴り、視界に黒が混じり始める。それでも、立ち上がらずにはいられなかった。あれは、僕に残された希望だ。ここで潰えてしまった方が楽なのかもしれない。あそこに行っても少し命が伸びる程度なのかもしれない。

 けれど、僕は抗いたかった。一縷でも希望があるなら、縋りたかったのだ。


「はあ………はあ………はあ………」


 僕は右足を引きずりながら、刀と左足を支えにして洞窟へと向かう。

 その間も、背後から迫る足音は止まらない。


「もう少し、もう少しなんだ……!」


 一歩、また一歩と進む。その度に紅血が地面を濡らし、骨の髄まで焼けるような痛みが駆け巡る。


「グルルルル……!!!」


 迫っている、どころではない。もはやほとんど真後ろに、魔獣の気配を感じた。しかし同時に、僕は洞窟の入口までたどり着いていた。


「う、ああああああ!!!」


 僕はそのまま倒れ込むようにして、洞窟の中に身を投じた。瞬間、背後ではガチン!という牙同士が擦れ合う音が響く。


「はあ…………はあ…………」


 息せき切りながら、背後へと振り返る。すると、忌々しげに狼はこちらを睨みつけていた。しかし、到底入れる大きさではないのを悟ったのか、そこから数秒も経たずに走り去っていった。


「間一髪、だった…………」


 僕は地面に身を預けたまま、安堵のため息をついた。どうやら、逃げることには成功したらしい。

 そう確信した瞬間、強烈な眠気に襲われる。脅威の消失と安全領域の確保。これらの要因は、緊張の糸を切るのには十分なものだった。


 ああ、ダメだ。意識が、保てない。落ち、る………。


 そこで完全に意識は途絶え、泥のように眠りについた───。







「このような場所に人間が現れようとは、奇怪なこともあるものだ」





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