二〇一九年七月二十六日金曜日

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『二〇一九年七月二十六日金曜日 by:Unified-One.

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 https://douyathsy.itiino-ct.ac.jp\iumus/にて行ってください。』


私はメールの通知を消して、ただただ日数を徒銷した。勉強など碌に手に着かず、読んだ書物の殆どが抜けていってしまった。いつまでも微睡の中で彷徨っているかのようだった。


 ――私は彼女のことが好きだから、早百合に暇乞いを済ませた。それで、私は何の疚しい気持ちも無しに、この心情を吐露しようと計っていたのだろうか。そうだとしたら、私はどれだけの不動心を持ち合わせていると、買いかぶっていたのだろうか。

 いや、違う。こんなのは、不動心などと言わない。

 

 虚言癖だ。虚言でしか自分を確立することが出来ない、哀れな人間だ。



 〇

 今朝。朝会のときのことである。

 担任の女教師がいつもどおり気怠そうに諸連絡を口にし終わって、そして、

「あー、昨日の夕刻、学生課の受付に一通の手紙が置かれていたらしい。宛て先は――」

 と奇怪な手紙を開きつつ、担任は話を進めていった。しかし先程述べたように、到底私はそんなことを聞いてやれるような状態ではなかった。無心で携帯を弄っていた。

「内容は、『お久しぶりです。お元気でしょうか。私は元気です。けれど、最近はあなたに会えなくて少しばかり口が物悲しい気がします。もうそろそろテストがあると前に言っていましたね。頑張ってください。テストは来週の休日を挟んでいるようなのですが、その、もし可能なら、土曜日(二日目)の市井野花火へ一緒に行きませんか。

 良かったら、お返事ください。あ、またあの場所に来てもらえると嬉しいです。放課後、待っています。 南雲結』」

「――結ちゃん!」

 思わず声を上げて、腰も上げてしまった。クラスメイトがこちらを訝しんで、しかし直ぐに、揶揄する声を上げ始める。

「……おい、東雲。私的な連絡はもっと気を遣え。だいたいお前はいつもな……」

 再び担任の説教が始まってしまった。そんな状況を、皆は授業時間が潰れるからと、嬉しそうな面をこちらに向けるのだった。


 〇

 そして、八限の睡魔を鐘が薙いだ。私は荷物を纏めて、ただ、急いだ。


 授業終わりの筆洗の水みたいに澱んだ空は、低く感じられた。しかしそんなことを気にしていられる余裕などない。普段から運動を全くといっていいほどしていない私は、三階の教室から玄関口に向かう時点で既に横っ腹に痛みを感じていたのだった。

 私はそれでも、歩けない。止まれない。歩くのと大して変わらない速度で走りきってみせる。ここで走るのを止めてしまうと、二度と会えなくなってしまうような気がして。


『遊歩道』と看板が嘯くのは、言ってしまえばただの山道に過ぎなかった。そこら中に転がっている石ころによろめくこと暫し、いよいよあの四阿へと辿り着いた。多分の汗を含んだワイシャツやチノパンは肌にへばりついてしまっていた。


「結ちゃん!」

「あ、待ってましたよ、東雲くん。……って、相変わらず結ちゃんと呼ぶのですね。ふふ」

「嫌なら、直そう」

「そういう言い方は卑怯です……。嫌じゃなきゃ、そんなこと言えません」

「ははは。――では、私のことを秀一と呼んでも良いのではないかね」


「……秀一くん。――何か、悩んでいることはありませんか」


 〇

「いやあ、なんか勉強に集中できなくてね。いけない、いけない。私は奨学金を頂いている身だから、赤点なんて許されないのに」

「それが、悩んでいることですか」

 彼女は眉尻を下げ、呆れるようにして、笑った。

「心配して損しちゃいましたね。ふふふ」

 しかしすぐ、昼を迎えてしまった朝顔のように、俯いてしまった。

「でも、やっぱり……貴方はちゃんと伝えてくれないんですね……」

 表情は翳ってしまっていたものの、彼女が呟いた弱々しい声風が、哀切だろう表情をうかがわせた。

 そんなときに、通ったのは湿気た風で。

 亜麻の糸が煽られて。

 

 石畳が――滂沱の涙で黒ずんだ。

 

 どうして彼女は泣いているのだろうか。

 私は、何も彼女を傷つけるようなことはしていない。

 たとえ彼女に虚言を吐いていることが気づかれていようとも、たとえ私が真実に苦しんでいようとも、彼女が傷つく理由にはならない。

 彼女と幸せになるための虚言なら、私はいくらでも厭わない。それなのにどうして、どうしてこんなにも苦しいのだろうか。


 ◇

【とある話その二】


 少年は思考した。

 二十一時には祖母の家を出て、実家のほうに帰らなければならない。屋台は十六時から、花火は十九時から始まる。父親からは、「十七時に祭りに行くぞ」と言われていて、しかし少女にも同行を求められている。

 待ち合わせの予定を一切定めていなかったが、少年はきっとあの四阿に行けば会えると思った。

 心配なのは、父からどう逃れるかだけだった。



 空模様は、昨日とは打って変わっての晴天だった。

「おーい! ゆいちゃん!」

「あ、シュウくん! ……良かった、昨日は何にも言わずに行っちゃうから、会えるか心配だったんだよ!」

「ごめんごめん。――けど、お祭りなのに浴衣じゃないんだね」

 少年は含み笑いをした。しかし、ワンピース姿の少女を見て、抑えきれずに、

「っはは、可愛いね、ワンピース!」

「もう!」

 からかわれた少女は、すたすた先へと行ってしまう。すると先で、彼女の短い悲鳴が飛んできた。

「きゃっ! 熊蜂が飛んでる!」

 少女は少年の方へと逃げて来る。

 熊蜂は少女のあたりをホバリングしながら追って来た。

 そのけたたましい音に、少女は身を怯ませ、足を躓かせた。

 少年は一心不乱に少女の下へ駆けつけて、倒れ込むかたちでその身を抱きとめた。そのとき、少年は煩わしい羽音が聞こえないぐらい、腕の中の少女に釘付けだった。首元から漂う花畑のような瑞々しい香りが胸を重くし、嫋やかな身体が触れるたびに、脳が溶けるような感覚を覚えた。

 たいそう怯えて、少年の背を力いっぱいに抱く少女の頭を撫でると、自分とは全く違う、細く、なめらかな亜麻色の髪は暖かかった。

「大丈夫。大丈夫。じっとしてれば、大丈夫だよ」

 しばらくして、羽音の一切が聞こえなくなってから、やおら腕を解いていった。

「ごめん。怖かったの……」

「気にしないで。ぼくもからかってごめん」

「うん。いいよ。――じゃあ、お祭り行こっか」

 少女はさっと立って、少年に手を差し出した。

 それを少年ははにかんで取るのだった。



 少年は父親に、体調が優れないから寝るという旨を伝えた。祖母が看病して来そうだったので、阿呆みたいに、「ぼくはもう看病されるような子供じゃない! 一人にさせて!」と叫んでいると、やがて諦められた。

 そして布団からするりと抜けて、四阿を目指して走った。祭り会場で父親らに遭遇しないことを願った。



「ねえ、すごい! わたあめがほんとにあるよ!」

「え、わたあめくらいどこのお祭りにもあるじゃん……」

「ほら、かき氷も! 一度食べてみたかったんだよね! あと、ぽっぽ……何あれ」

「ポッポ焼きじゃん。え、知ってるでしょ」

「知らない! 食べてみたい! ……あ、お財布忘れた……」

「いいよ。買ったげる。――おじさん、ポッポ焼き十五本ください!」

「あいよう! おっ、あんちゃんデートかい。羨ましいねえ。俺なんてクソ怖い嫁に『働け働け』ってバラ鞭で叩かれて……これが意外と悪くねえんだ……それでこうしてクソ暑い中、労働なんだぜ……ほら、三本おまけ」

「ポッポ焼きって鞭で叩かれながら作るんだね! ふしぎ!」

「アンタ、こんな小さい子に何言ってんだい! この馬鹿! 阿保! 三十路!」

「……はは、ゆいちゃん、行こう」



「ポッポ焼きってもちもちしてるんだねえ! 美味しい!」

「おい、ぼく三本しか食べてないのに袋カラじゃん……」

「ねえねえ、次あれ食べたい!」

「わかったよ……はは」



「うわ……人でいっぱいだなあ」

「ね! はぐれちゃいそう。……ほら、もっかい手、繋ごうよ」

「う、うん……」


『まもなく、市井野大花火大会、打ち上げ開始でございます』


「そろそろ花火が始まるみたいだよ」

「ほんと! いやあ、わたし、写真でしか花火も見たことないんだよね」

「なんで。花火だったらどこの県でも見れそうだけど。……引きこもり?」

「違うよ! ああでも、花火自体は知ってるんだよ? ――えんしょくはんのうってやつでしょ!」

「なにそれ」


「うわあ! 花火すごい! すごいね! きれい!」

「だね……。すごく……きれい」

「ん? こっちに花火あるの」

「え! あ、いや、そのお、えと。……あのさ、ぼく、ゆいちゃんにどうしても言いたいことがあるんだ」

「なに?」

「ぼくさ、ゆいちゃんのことが……」


「――秀一! お前、なんでこんなところにいるんだ!」


「え、父さん……」

「おい、子供がこんなところに一人で出歩いたら危ないだろ! ……お前、嘘ついたんだな」

「…………」

「いいから、ばあちゃんのとこ行くぞ。秀一、秀一って出てからずっとうるさいんだ」

「ちょっと、待ってよ! ゆいちゃんが……!」

「うるさい! 明日は早百合ちゃんと海へ遊びに行くんだ、あんまり遅くなると起きられなくなるぞ」

「ああっ! 離して! ゆいちゃんっ! ゆいちゃんっ!」



「シュウくんっ! ねえ、しゅういちく――」


 そして、彼女の声は届くことなく、喧噪に紛れた。



 〇

 沛然たる雨は、筆洗をひっくり返したかのようだった。

 割れた雨粒が白い波となって四阿に入り込んでくる。それは私たちの前で縮んでいくと、やがて霧散した。

 彼女は引き続く沈黙を厭ったのか、無理くりに口を開けるようにして、言った。

「思えば……貴方と初めて会った日は、酷い雨でしたね」

「そうだね。私はすっかり眠りこけてしまっていたようだったが」

「違いますよ」

 こちらに話しかけている彼女は、未だこちらに視線を向けようとしない。石畳が波に黒く侵食されていくのを、ただぼんやりと眺めていた。その様子は、まるで彼女と初めて出会ったとき、水筒の蓋を傾けながら遠くを見やっていたときと、いくばくか似通っているのだった。

「違うとは、どういうことかね」

「まだ、わからないんですか」

 彼女は呆れて、言った。

「あの日の男の子は、なにも、覚えていないんですか」

「だから、どういうことかね。なぜ、そんな迂遠な物言いをする」

 そう、問うたときだった。

 彼女はふいに立ち上がり、私の目の前で緋色の日傘を広げた。緋色がほんの少しだけ頬を明るくさせた。その赤らんだ口元が、静かに告げた。

「人というものは、寂しがり屋なんです。だから、自分が信じているものに認められているのかと、言葉や仕草を欲するんです。だから、恥ずかしいからと、認めてもらうために託けるんですよ」

 ですから――。と傘を折り畳み始める。胸元までおりた亜麻色の髪は、湿気を吸って毛先がはねていた。無垢な指が握るハンドルが、酷く重そうにみえた。徐々に鋭くなっていく傘の下――彼女の顔は熱っぽかった。この距離を遮るものが無くなって、目のやり場に困ったのか、視線を斜め下に運び、今度はそれをあちらこちらにやると、果たして私を腫らした目で見下ろして言うのだった。


「――シュウくんに、認められていたんだったら嬉しいなあって、ただ、それだけのことだよ」



 ◇

【ある話その三】


 少年は、あの少女のことを忘れようと努めた。大好きな昆虫採集を捨て、苦手な勉強に務め、親孝行にも努めた。他人を腫れ物のように、丁重に虚言交じりに触れた。やがて、あの少女というのは、恋愛対象というものでなくなり、微睡が覚めるまでのほんの僅かな物語に出てくる【女の子】という存在に成り果てた。【女の子】がいったい誰なのかを、もう少年は知らない。ただ、その【女の子】が落ち込んでいた少年を励ましてくれ、初めて恋をした相手であることだけを胸に蟠りとして残していたのだった。


 少年は、もしかしたらその物語を終焉へと導くためにも、苦手な勉強に勤しんでまで、辺鄙だと嘲ていたところへと、越してきたのかもしれない。

 ただ、これは作者の憶測でしかない。


 〇

「君は……あのときの少女、なのかね」

「あのとき、じゃわかんないよ」

「あのとき……私が小さいころ祖母の家に遊びに来ていて、山へ遊びに行ったらにわか雨に遭って、大好きだったカードが破れて落ち込んでいるとき、私を励ましてくれた……あの、少女なのかね、君は」

「うん。そうだよ、シュウくん。ずっと、会いたかったよ」

「そうだったのか……。しかし大変申し上げにくいのだがね……」

「うん」


「私は、今の結ちゃんだけしか知らない。……結ちゃんが、あの少女だと判明しても、私はそれを知らないのだよ」


「どういうこと……」

「私は、確かに、あの少女と会って、なぜだか好いていた。きっと色々話したり、遊んだりしたのだろうね。だが、少女がいったいどういう人間なのかを、私は一切と知らない」

「そんな、そんなことって……。ねえ、そのときも、シュウくんは結ちゃんて呼んでくれたじゃん」

「……私は、なにも知らない」

「――っ。……たくさん遊んだよね。たくさんお話したよね。それで、お祭りにも行ったよね。私お祭り行ったことなくて、とっても楽しかった。花火も見たよね。とっても楽しかったね。……とっても、悲しかった、よね」

「私は……私は、本当に、そんなことを知らない」

「……じゃあさ、」


「――知りに、行こうよ。八年前の話を。それと……その続きもね」



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