第6話:お父さんは心配性Ⅱ【前編】



 レイモンドとは新兵訓練所で出会った。

 もう二十年も前のことだ。

 第一印象はどうだったか。

 少なくともいい印象は持たなかったに違いない。

 あの頃の自分は今よりも遥かに狭量で自己中心的だった。

 そんな自分と一緒にいたのだから、さぞや苦労したことだろう。

 そう尋ねると、レイモンドはいつも微妙な表情を浮かべる。

 そして、色々あったとか、面と向かっては言えないとか、もう一杯どうだとか、そんなことを口にする。

 レイモンドの目に自分がどのように映っていたのか分からないが、ロイドは彼を親友だと思っている。

 だから、異動を考えた時、レイモンドに相談した。

 最初は渋い顔をしていたが、話が終わる頃には自分も異動すると言い出した。

 これにはロイドの方が驚いた。

 自分が率いていた部隊を引き継ぐのはレイモンドしかいないと思っていたし、彼もそれを望んでくれると思っていたからだ。


「……ロイド、放してくれ」

「馬鹿を言うな、レイモンド。俺は絶対に戦友を見捨てたりしない」


 ロイドはレイモンドに肩を貸して夜道を歩く。

 精霊祭が終わり、寒さは日ごとに増している。

 春先ならまだしもこの季節に見捨てたら死んでしまう。

 何だか死んでしまいそうな気がする。


「もう疲れたんだ。休ませてくれ」

「レイモンド、歩くんだ! 寝るな! 寝たら死ぬぞ!」


 今にも倒れそうな戦友を叱咤する。

 レイモンドが何かに躓き、もつれ合うように倒れる。

 レイモンドはゆっくりと体を起こし、塀にもたれかかった。


「俺はここまでのようだ。先に行ってくれ。心配はいらない。すぐに追いつくさ」

「どうして、そんな弱気なことを言うんだ」

「さあ、行け。お前には家族が待っている」


 おお、神よ。どうして、こんなことになったのですか、と心の中で問い掛ける。

 精霊祭が終わり、誘拐事件の後処理も終わった。

 後味の悪い事件だったが、気持ちを切り替えなければならない。

 俺達は気分転換に酒を飲んだだけなのに、とロイドは顔を覆った。

 何故か、涙が出てきた。


「……あなた、何をやっているんですか?」

「助けてくれ。レイモンドが……」


 冷ややかな声を浴びせかけられて顔を上げると、そこにはローラがいた。

 ムッとした表情を浮かべ、腰に手を当てている。


「……精霊よ」


 ローラが苛立った様子で呟くと、大量の水が降ってきた。


「な、何をするんだ?」

「それはこっちの台詞よ! 酔っ払って家の前で泣くなんて!」


 うっ、とロイドは呻いた。

 そうだ。

 二人で酒を飲んだのだ。

 久しぶりの酒だったので、ついつい飲み過ぎてしまった。

 レイモンドは足下が覚束なくなり、一人で帰らせるくらいならと肩を貸して連れてきたのだ。


「言い訳は?」

「……ごめんなさい」


 ロイドは素直に謝るしかなかった。


「食事は余り物でいいわね?」

「……はい」


 口調は穏やかだったが、有無を言わせず迫力があった。


「よかったわ。テンの餌を作り過ぎちゃったのよ」

「……それは」


 うん? とローラは可愛らしく首を傾げる。

 何故か、その姿は火焔羆――ロックウェル周辺で最強の肉食獣を連想させた。

 おお、何と言うことでしょう。

 結婚生活が幸せすぎてすっかり忘れていました。

 彼女は火焔羆を超える捕食者なのです。


「はい、分かりました」

「それと今日は一階で寝てね。私、お酒の臭いが好きじゃないの」

「ローラさんがアルカと一緒に寝るのはダメですか?」


 丁寧な言葉遣いを心掛けて尋ねる。


「酔っ払いと一緒に寝るのも、寝ゲロでベッドを汚されるのも嫌なの。分かってくれるわよね?」

「はい、分かりました」


 やはり、ロイドは頷くことしかできなかった。



 低い、地の底から響くような声で目を覚ました。

 不意に古い記憶が甦る。

 新兵訓練所を卒業後――国境警備隊に配属されてしばらく経った頃の話だ。

 大規模な戦闘が起きた。

 霧の中で足掻くような戦闘だった。

 何しろ、状況が分からない。

 戦闘が始まった理由も分からなければ、どうすればいいのかも分からなかった。

 仲間と共に目の前の敵に対処するしかなかった。

 戦闘も悲惨だったが、その後も酷かった。

 特に酷かったのは重傷を負いながら死ぬことも、意識を失うこともできなかった者だ。

 痛みに耐えている者もいたが、泣き叫ぶ者の方が多かった。

 死が救いになることもあると知ったのはこの時だ。

 その後、幾度となく聞くことになった苦悶の声が隣から聞こえる。

 ロイドは目を開け、体を強張らせた。

 死神がレイモンドの顔を覗き込んでいた。

 髪も白ければ、肌も白い、着ている物さえ白かった。

 レイモンドは苦悶の声を上げている。

 死神は助けを求めるように伸ばした手を優しく握り締めた。


「……安心して。ここにいる」


 優しい声だった。

 苦悶の声が規則正しい寝息に変わる。

 それなのにロイドは不安を抑えることができなかった。

 死が救いになることもある。

 レイモンドが苦悶の声を上げなくなったのは死を救いと感じてしまったからではないか。

 そう思ったのだ。


「頼む。そいつを、レイモンドを連れて行かないでくれ」


 親友なんだ、と懇願する。

 しかし、死神は振り返らない。


「……もう、いい?」


 死神は優しく語りかける。


「や、やめろぉぉぉぉぉぉッ!」


 ロイドが叫ぶと、死神は驚いたように振り返った。

 死神はアルカの顔をしていた。

 バタバタという音が聞こえてきた。


「あなた!」


 ローラの声が響き、照明用の魔術具が点灯した。


「な、何だ! 敵襲か!」


 レイモンドが飛び起き、不思議そうにアルカを見つめた。


「……説明してくれるわね?」


 はい、とロイドは頷き、布団の上で正座した。


「実は……」

「自分の娘を死神扱いするなんて呆れて物も言えないわ」


 経緯を説明すると、ローラは溜息交じりに言った。


「……怖がらせてしまった。申し訳ない」

「悪いのはお父さんなんだから、謝らなくてもいいのよ」

「……申し訳ない」


 今度はロイドが謝る番だった。


「……助けを求められた」

「レイモンドに?」


 ローラが問い掛けると、アルカはコクコクと頷いた。


「……テンと一緒」


 アルカは小さく首を傾げる。


「……ちょっと違った。レイモンドおじさんは怖がっている」

「怖がっているだって?」


 思わず聞き返す。

 レイモンドは勇敢な男だ。

 どんな陰惨な戦場でも臆病風に吹かれることはなかったし、どんな困難な任務も乗り越えてきた。

 おい、何か言ってやれよ。

 そう言おうとして隣を見ると、レイモンドはアルカの指摘が正しいと認めているかのように青ざめていた。


「……大人でも怖いものは怖い。それは普通のこと」

「……」


 レイモンドは小さく息を吐いた。

 まるで自分が認められずにいた感情を肯定されて安堵したかのように。


「あ、ああ、俺は怖いんだ。いや、普段は大丈夫なんだが、仲間が死んだ時の夢を見るとな」


 レイモンドは両手で顔を覆った。

 何人もの戦友を看取った。

 その時は落ち着いているように見えたが、そうではなかったのだ。


「どうして、相談してくれなかったんだ?」

「臆病者と思われたくなかった。分かるだろ?」


 咄嗟に反論できなかった。

 分かるのだ。

 軍人は勇猛果敢――真っ先に危険に突っ込み、嬉々として敵を殺さなければならない。

 そうしなければ信用と尊敬を失い、孤立することになる。


「よければ上司に相談するが?」

「夢見が悪いだけでそこまでしてもらうことじゃない。起こしてすまなかったな」


 レイモンドはそう言って横になった。


「……おやすみなさい」

「アルカ、戻るわよ」


 ローラはアルカの手を引いて部屋を出ていった。



 テンが食堂の床でミルクパン粥を食べている。

 夜が明けてもローラの怒りは収まらないらしく、ロイドとレイモンドの食事もミルクパン粥だ。

 今日の夜には怒りが収まっていると信じたい。

 ロイドとレイモンドは無言でミルクパン粥を口に運んだ。


 つらい。

 美味しいだけに辛さが際立つ。

 半分ほど胃に収めて手を休める。


「……なあ」

「私は後で食べるわ」


 ローラはテンの近くに佇み、ニッコリと微笑んだ。

 ミルクパン粥は罰ゲームですか。

 そうですか。


「アルカはどうしたんだ?」

「部屋で裁縫をしてるわ。しかも、徹夜で」


 ローラはふて腐れたように言った。


「徹夜で裁縫?」


 本当に六歳児なのだろうか。

 自分が子どもの頃は――少なくとも徹夜をしたことはなかった。


「……裁縫か。いつの間に教えたんだ?」

「教えてないわよ」

「見様見真似で裁縫なんてできるのか?」


 愚にも付かない質問だった。

 見様見真似でも裁縫はできるだろう。


「レイモンド、調子はどうだ?」

「朝までぐっすりだ。手を握ってもらったのがよかったのかも知れないな」


 レイモンドは照れ臭そうに笑った。

 言われてみれば昨夜の切羽詰まった感がない。

 それにしても、どうしてアルカは気付けたのだろう。


「……そう言えば」


 助けを求められたと言っていた。

 もしかしたら、アルカには不思議な力があるのかも知れない。


「そう言えば、何?」

「いや、アルカはテンと上手くやっているのかと思ってな」


 やっぱり、母親なんだな、とロイドは苦笑する。


「散歩に行くし、躾もしてるから、それなりに上手くやってるんじゃないかしらね。テン、アルカと上手くやってる?」


 テンは食事を中断し、ローラを見上げた。


「アルカと上手くやってる?」

「……がう」


 ローラが再び尋ねると、テンは間を置いて答えた。

 犬が人間の言葉を理解しているとは思えないが、考え込むように沈黙する姿は人間じみていた。


「ミルクパン粥ばかりで飽きないか?」

「飽きないわよ」


 テンはロイドとローラを見比べた。


「飽きないわよね?」

「がう、がう♪」


 ローラが屈んで尋ねると、テンはミルクパン粥に再び食べ始めた。

 嬉しそうに尻尾を振っている。


「じゃあ、ずっと、ミルクパン粥でいいかしら?」

「……」


 え? とでも言うようにテンはローラを見上げた。


「冗談よ。しばらくしたら肉と魚も食べさせてあげる。けど、野菜もちゃんと食べないとダメよ?」

「がう♪」


 テンは嬉しそうに尻尾を振った。

 気のせいか、先程よりも嬉しそうだ。

 こいつは本当に犬なんだろうか。

 食事を再開する。

 ミルクパン粥がなくなった頃、リズミカルな音が聞こえてきた。

 アルカが下りてきたのだろう。

 アルカは食堂に入るとレイモンドの隣に立ち、何かを差し出した。

 それは手の平に収まるほど小さな布袋だった。

 長い紐が付いているので、ネックレスのように首から提げるのだろう。


「……お守り。霊験あらたか」

「くれるのかい?」


 レイモンドが尋ねると、アルカは小さく頷いた。

 お守りを受け取り、首から提げる。


「ありがとう。嬉しいよ」

「……テンにも御礼。寝床の一部を供出してもらった」

「そうか。テン、ありがとうな」

「……がう」


 テンはちょっと目線を逸らしつつ応えた。

 どうやら、寝床の一部を供出したのは本意ではなかったようだ。


「近い内に必ず礼をするよ」

「がう♪」


 テンは嬉しそうに尻尾を振った。


「お父さんにはないのかい?」

「……お父さんは大丈夫」


 言い切られた。

 何が面白いのか、ローラはクスクスと笑っていた。



「ちゃんと前を向いて歩け。転ぶぞ」

「いや、嬉しくてな」


 レイモンドは嬉しそうに言って、目線の位置に上げていたお守りから手を放した。

 犬の寝床から作られたお守りだが、父親としては羨ましい。


「アルカちゃんは優しい子だな。将来はいいお嫁さんになりそうだ」

「勘違いするな。アルカはお前のことが心配でお守りを作ったんだ。それ以上の感情はない」

「お前こそ、勘違いしすぎだ」


 レイモンドはかなりドン引きした様子で言った。

 いや、ドン引きしたフリをしているのかも知れない。

 アルカはいい子なのだ。

 きっと、将来は美人になる。

 今からアプローチを掛けておけばライバルに一歩も、二歩も先んじることができる。


「アルカを嫁に迎えたいのなら俺を倒していけ」

「戦魔も今は子煩悩な父親か」

「その名は捨てた!」


 ロイドが叫ぶと、レイモンドは肩を竦めた。

 ちなみに戦魔とはロイドの二つ名である。

 若い頃はイケてると思い、ことあるごとに戦魔と名乗っていたのだが、結婚して子どもができると――あまりの恥ずかしさに死にたくなる。

 きっと、かつての仇敵もロイドと同じ気持ちを抱いているに違いない。


「……お?」

「どうしたんだ?」


 レイモンドが立ち止まり、道を戻る。


「お守りを落とした」

「まあ、子どもが作ったものだから――ッ!」


 ロイドは最後まで言い切ることができなかった。

 箱馬車がもの凄い勢いで背後を通り抜けていったのだ。

 箱馬車の片輪が浮くが、辛うじて横転は免れた。


「……効果抜群だな」

「ああ、そうだな」


 冷や汗を拭いながらレイモンドに答える。

 お守りを落とさなければ箱馬車に轢かれていたに違いない。


「あれ?」

「どうかしたのか?」


 レイモンドは紐を持ち、お守りをジッと見つめている。


「紐が切れていないんだ」

「は?」


 思わず声を上げる。

 レイモンドは首からお守りを提げていた。

 だから、紐が切れたせいでお守りを落としたと考えていたのだが。


「よく見ろ」

「本当に切れてないんだ」


 レイモンドは切れていないと証明するように紐を広げる。

 確かに紐は切れていない。

 だったら、どうして、落ちたのだろう。


「……霊験あらたかだな」

「いつも首から提げておくよ」


 ロイドが呟くと、レイモンドは神妙な面持ちで頷いた。



「大変です! 隊長!」


 自分の机で書類整理をしていると、新人のリッキーが慌てふためいた様子で飛び込んできた。

 新人だけに認識の甘さが目立つが、決して無能ではない。

 適切に教育すればロックウェルの治安維持に大いに貢献してくれるはずだ。

 その彼がこれだけ慌てているのだ。

 それだけで異常事態だと分かる。

 ロイドは居住まいを正して報告を待つ。

 リッキーは何度も深呼吸を繰り返し、背筋をピンと伸ばした。


「隊長! エドモンド商会の従業員が商品の輸送中に火焔羆と遭遇しました!」

「被害は?」


 静かに切り出す。

 周囲は沈黙に包まれている。

 火焔羆はロックウェル周辺で最強の魔物だ。


「エドモンド商会の従業員と荷馬車は無事でしたが、護衛の傭兵が餌食になっています」

「最悪だな、それは」


 ロイドは顔を顰めた。

 遭遇しただけならば猟師を招集して対応策を練ればいいが、人間の味を覚えたとなれば話は別だ。

 そうした個体は繰り返し、人間を襲うようになる。


「リッキー、エルウェイ卿に報告して猟師を招集してくれ。エルウェイ卿ならば心配はいらないと思うが、周辺の街や村に伝令、帝都に援軍の要請するように伝えてくれ。レイモンド、お前は討伐隊の人選を頼む。毒の準備を忘れるな。俺はエドモンド商会に状況を確認しに行く」


 ロイドが捲し立てると、詰め所にいる衛兵達は慌ただしく動き出した。



 ロイドがエドモンド商会で確認を終えて戻ると、部下達は革鎧と槍で武装し、詰め所の前に整然と並んでいた。

 年嵩の衛兵が多い。

 いい人選だ。

 今回のような状況ではベテランの存在が何よりありがたい。


「ロイド、どうだった?」

「二十人中十名が死亡、五名が重傷だ。従業員の話によれば街の近くで襲われたそうだ」

「サイズは?」

「三メートルと言っていた」


 レイモンドに耳打ちされ、平静を装いながら答える。

 エドモンド商会はそれなりに大きな商会だ。

 そこに雇われた傭兵が無能であることは有り得ない。

 にもかかわらず、壊滅的な損害を被ったということは並の火焔熊ではない。


「他所から追いやられてきたか、他所を食い尽くしたか」

「どっちにしても最悪だな、そりゃ」


 レイモンドは顔を顰めた。

 動物や魔物は人間と同じように学習する。

 狡猾さを身に付けた火焔羆など考えただけでゾッとする。


「念のために聞くが、近隣の街や村から報告は?」

「……ないな。商人からも報告が上がっていない」


 もう少し情報が欲しいんだが、とロイドは小さく溜息を吐いた。

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