Ed
「カトレア」は名古屋駅徒歩五分の好立地に建つ美容院で、俺が高校生からバイトしている職場だ。
店内カットに加えて身体障害者や高齢者に訪問カットするサービスも行っている。
普段は店でのカットを任されている俺だが、就職して三年目、今年の春から念願だった訪問カットを任されるようになって、仕事は順調だ。
時計を見た。今日は自分の人生において特別な日になる。
だってカバンの中には――
「清、お前にお客さん」と店長に呼ばれた。
指名かと思ったが、カットの依頼ではなかった。
なんだろうと首を傾げながら待合室に向かうと、中年の女性がいた。
やせ細っていて頬がこけ、その右頬には刃物で切ったような傷跡が化粧でもごまかしきれていなかった。
見覚えがなかった。だが、その傷を見て引っかかる。なにか、どこかで……。
「はじめまして」中年女性が頭を下げた。「成宮つぐえです。安藤清さんですよね?」
「はい、そうですが、あの、失礼ですがどちら様で……?」
「私は成宮ていりの母です。あの……ていりのこと、覚えていますか?」
ていり――時の砂に埋もれていたその名が突然中耳を震わせた。
自然、ぽけっと開いていた俺の唇は固く結ばれた。
「ええ」と頷き、彼女に着座を促して対面に座った。
「もちろん覚えています。だって俺たちは――」続きを言おうとして、言葉をのんだ。
ていりとの関係の説明に困った。
特別な関係ではあったが、交際しているわけではないし……戸惑ったまま、別の言葉を探った。
「ていりは……その、元気ですか?」
つぐえさんは悄然としたようにうつむいた。
「いま、『施設』にいます」
俺はぎょっと目を丸めた。施設……。
「もしかしたら安藤さんはご存じかもしれませんが、高校生のとき、急に様子がおかしくなって……」
六年前の記憶の断片が次々と去来した。間違い現象。
「それはおそらく、私の……私の家庭のせいかと……」情けなさと悔しさが言葉に滲んでいた。「いまも、ていりはおかしなままで、あらゆることを間違えたままで……」
「いまもていりはおかしなまま……?」
信じられなくて俺は同じ言葉を反復してしまった。
だって、ていりは俺との記憶を違えたことで、他の間違い現象は治ったはずじゃ……。
「その、家庭の話で恐縮ですが、私は数年前に夫と離婚しまして、ていりを引き取って四国の実家に戻ったのですが、ていりはおかしいままで、施設に入っても改善せず、私にも壁を作って打ち解けることもなく……。あるとき、忘れ物を取りにていりの個室に戻ったとき、彼女の震えた声が聞こえたんです。『せいくん、せいくん……』、そう漏らして、何年も大事にしている水晶の腕輪をさすっていて、それで調べてあなたを知って……」
震撼した。ていりは俺の記憶を違えてなどいなかった。
ならなぜ春休みの補講のとき、俺との記憶を間違えたのか。
疑問と同時に脳裏に閃光が落ちた。
――一芝居打ったということか。間違い現象を利用して、俺との記憶がなくなったフリをした。
「そんな、なんでそんなこと……っ」
思わず疑問が口を衝いて出て、夕暮れの車内で悲しげに語ったていりの記憶がフラッシュバックした。
――カットの練習相手になることがわたしにしてあげられることだったのに、それすら難しくなって、そんなわたしなんてもう……。
あらゆる間違いを犯していくていり。それに付き添う俺。
だが俺はていりのサポートに疲弊し、ていりはカットの練習相手になることがせめてもの貢献だったが、もはやそれも叶わなくなった。
ていりの間違いに付き合い続ければ俺に負担がかかる。
そう危惧したていりは芝居を打った。記憶を違えるなんて現象をでっちあげた。
つまり間違いだらけのていりは、せめて俺の人生を間違わせないようにと距離を取った。
「あ……」
疑問の氷解。同時、目の前がぐるぐると回って暗転し、平衡感覚を失ったように上体がバランスを崩しかけた。
六年。六年だぞ。ていりはずっと歪んだ地獄のような世界を独り抱いて生きていたのか。
痛烈な後悔が心臓を刺した。俺は六年前、ていりの間違い現象が小康状態となり、俺の記憶を違えても仕方なく、それで彼女がまともになれたらそれでいいと思った。
それは嘘じゃない。でも別の本音もあった。
ていりと離れたことで〝ある感情〟が芽生えた。
白状しよう。〝負担〟に感じていたのだ。俺はていりの存在を。
だから俺はていりが本当に記憶を違えているのか入念に調べなかった。
ていりとの関係を本当に続けたければ、補講の帰りに再度声掛けすればよかった。
家に行って直接話を聞くことだってできた。
躍起になればよかったのにそれをしなかったのは、すなわち、負担が両肩から下りたことに〝ほっとした〟のだ。
えづきそうになった。情けなくて全身がふるふる震えた。
彼女はみずから距離を取るという献身をしてくれたのに、俺は負担なんて感情を覚えていたなんて……。
「安藤さん。あなたに、お願いがあります」
「お願い……?」
「ていりのところまで訪問して、髪を切ってほしいのです。そのお願いのため、本日、四国から参りました。ていり、どこにも髪を切りに行こうとしないんです。すっかりもう、伸びてしまって、ひどい姿で……一日でも早く、無茶を承知で、いますぐに……っ」
つぐえさんはていりの姿を思い出したように涙目になった。
行くべきだ。情けなさに打ちひしがれ、どれだけみっともなくとも、ていりの髪は俺が切るべきだ。
「なれるよ」と彼女は背中を押してくれた。
夢を叶えさせてくれた彼女のためにと立ち上がる。
身体の半身、右足はいますぐに遠く離れた四国まで行こうとしている。
だが残り半身、左足は地面に根を下ろしたように動かない。
いまの俺の腕なら高校時代に目指していた理想のカット、ていりの髪を美しく切る自信がある。
そう、カットできてしまう。
俺はかつて言った。美しくカットできたならそのときちゃんと言うよ、付き合ってほしいと。
でも、いまの俺には、カバンの中には偽物ではなく、本物の宝石がはめられた指輪が――
俺は時計を見た。約束の時刻まであと三十分。
進もうとしている右足と、まったく動かない左足。
身体が半分に引き裂かれそうだった。選択を強いられていた。俺は――
そのとき、ポケットにしまっていた携帯が振動した。
指輪を渡す相手から届いたメッセージを、俺はごくりとのどを鳴らして読んだ。
〈kanae.Y〉 予定通り三時にカトレアに着くよ。清くんに髪を切ってもらった後は二人で五十階のフランス料理! わざわざ今日早上がりしてくれてありがとね。毎年清くんと一緒に記念日を過ごせて幸せです。今日大事な話があるって言ってたけど、期待してるね!
ていりの間違い 字書きHEAVEN @tyrkgkbb
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