⑤
春休み期間中に実施される大学受験用の補講。
ていりは参加していたが、俺は専門進学のため授業を受ける必要はなかった。
けど、ていりのサポートのため登校してはいた。
昨晩も深夜までバイトしていたため睡眠時間が短く、何度もあくびを噛み殺していると、廊下の端からていりがやってきたので「おはよう」と声をかけたのだが……。
「……だれ、ですか?」
俺は苦笑した。「だれですかはないだろう。なに寝ぼけているんだ」と言うが、ていりは首を傾げるだけだ。
「……え、ちょっ、えっと、悪ふざけ、じゃないのか?」
ていりはまだ他人行儀だった。
「俺だって。清。安藤清だ」
ていりの反応は鈍いまま。だんだん笑えなくなってきた。
「同じクラスで、旧棟の被服室でていりの髪を切っただろ。家まで何度も送って……」
「……ごめんなさい。記憶にない」
「ちょっ、ちょっと待てよ……本気か、それ本気で言ってるのか? じゃ、じゃあ三月二十九日、そう、二十九日の金曜だ。俺と一緒に間違いなく岐阜まで行った。そこで水晶を砂場から見つけて、腕輪にしてもらって、その腕輪を……」
俺は目線を落として背筋が凍りついた。
ていりの右手首に水晶の腕輪がなかった。
大事にする。ずっとはめられるように――そう言っていたのだが……。
「その日、わたしは家にいたと思うけど……」
目眩がした。同時に、あるひとつの考えが思い浮かんだ。
――ていりは記憶を違えている。
「じゃ、じゃあゾンビは? ていり、いま、普通に登校してきたけど、周りのやつらがゾンビに見えるだろ」
「ゾンビ……なにそれ?」
――ゾンビに見えてない?
「俺以外の声はいやらしい言葉に聞こえるだろ。な、ほら! 卑猥な言葉に!」
「なっ、なに、言ってるの……」
「なにって、お前が散々苦しんだ間違い現象だ! ずっとお前は苦しめられて!」
声高に叫んだところでほかの生徒たちの怪訝な目が突き刺さった。
俺のことを、異常者と見るような……。頭がこんがらがった。
え、なにこれ。おかしいのは俺のほう?
「まさか……記憶を違えて、引き換えにほかの間違い現象が治ったというのか……」
予鈴が鳴った。ていりが教室に入ろうと踵を返した。
「ごめんなさい」と小さく頭を下げてそう言っているように聞こえた。
俺は手を伸ばしかけたが、教室まで追えなかった。
補講に参加登録してなかったというのもあるが、それ以上に気持ちが萎んでいた。
鉛のように重い足を動かして一度家に帰った。
ていりの携帯にメッセージを飛ばしたがスルーされ、電話にいたっては通じなかった。
複雑な気持ちだった。
俺との記憶を間違えたショックもあるが、しかしそれによりほかの間違いが正常に戻った。
それはていりにとって喜ばしいことに違いなく、少なくともいま俺がいなくても彼女はやっていける。
違えた記憶をもとに戻せるならそれに越したことにないが、どうすればいい。
いやそもそも、記憶を戻したことによってほかの間違い現象が再発したらどうなるのか。考えれば考えるほどわからなくなった。
今日一日、ていりのために使う時間がぽっかりと空いた。
やることがなくなった。
いままでていりに時間を費やしていた分、いろいろなことができる。
寝るのも、カットの練習するのも、遊びに行くのも、すべて自由……。
――自由?
不意に〝ある感情〟に襲われた。その感情の正体を知った瞬間、ぶるっと身震いした。
馬鹿な、違う、と否定の言葉をすぐに連発するが、その感情は波のように押し寄せてきて、そこでふとんをかぶって胸を掻き毟った。
結局、ていりからは連絡がなかった。
春休み中、〝その感情〟を否定するように何度も電話をかけ、メッセージも飛ばした。だが、またスルーされた。
「なんで、なんで無視すんだよ……ッ!」
次第にメッセージを送る頻度も減っていき、頭をもたげたのは、これでよかったんじゃないのかという思い。
ていりは俺の記憶だけを違え、ほかの間違い現象は収まった。
「いやいやこのままじゃダメだ」「でもこれなら仕方ない」、両天秤にかけられた二つの感情は日を追うごとに「これなら仕方ない」というほうが重りを増していった。
春休み明け。せめてもう一度勇気を奮い起こし、直接会ってそこでゆっくり話そう。そう思ったが、その機会は訪れなかった。
ていりは四国の学校へと転校した。
突然だった。
混乱したが、想像がついた。
親の不仲が原因で離婚が決まったのではないかと。
転校を教師から告げられたとき、四肢を突然もがれたような痛みを覚えた。
フラフラになりながら夕暮れの第二被服室に行くと、そこにはカットに真剣で緊張でまともに喋れない俺の姿と、それを見て朗らかに笑うていりの幻影を見た。
俺は間違っていない。俺の記憶は違えていない。
彼女とここで過ごし、彼女は光ある言葉をくれたじゃないか。
――なれるよ。美容師さん、絶対になれるよ。
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