④
――綺麗なものが見たいんだ。
春休みを迎えたその日。ていりの要望に答え、俺たちは岐阜県にある鉱物博物館に向かった。要するに、デートだ。
移動中の電車内、ていりは慌ただしかった。
両目玉から巨大ムカデが顔を出して蠢く新種のゾンビ(中年のハゲたおっさん)を発見して思わず指を差して騒いでしまったり、席で中年夫婦の愛欲を語る不倫旅(健全な夫婦の山歩き旅)に顔を真っ赤にしたり、遠征らしき少年野球の一団に不良口調でオラオラくそガキども野球なんて辞めろと突っかかったり(ていりは中日ドラゴンズの大ファン)、ことある事に俺はフォローしたが前途多難だ。
電車とバスを乗り継いで数時間後、山々に囲まれた盆地にひっそりと建つ鉱物博物館にたどり着いた。俺もていりもはじめて訪れる場所。
ネットで調べたところ、岐阜県のここら一帯は花崗岩の分布域で、水晶・トパーズ・エメラルドなど様々な鉱石が産出され、明治時代から続く有名な採掘所が多いらしい。
春休みの時期だが館内に人気はなくがらんとしていた。
ド田舎の中心にある地味で古ぼけたここより、電飾賑やかなテーマパークのほうが人気があるということか。
でも、人がいないのはていりにとってよかったし、おそらく彼女もそこを考えて希望したのだろう。
館内は全体的に薄暗く、スポットライトは鉱石たちのみ当てられいっそう煌めいていて、ていりはガラスケースにへばりつくようにうっとりと見つめていた。
「ああ、綺麗……。純粋で、透明で、ただただ綺麗なものが、見たかったんだぁ」
遅まきながら俺はようやくていりが鉱物館に訪れた理由を理解した。
血塗れのゾンビ姿や卑猥な言葉。
汚れた世界の中で、ひたすらに綺麗なものを希求したというわけだ。
と、不意にていりが視線をスライドして俺をじっと見つめた。
「ど、どうした?」
「焼きつけているのです。せいくんとの今日と言う日を、忘れないように」
「いや、ボケない限りそう簡単に忘れんだろ。俺じゃなくて宝石見ろよ」
その後、ていりは展示コーナーで時間を忘れたように観賞して、体験コーナーという一角で『宝石探し』とやらをやった。
砂場に埋められた水晶を探して持ち帰ることができるという小学生がはしゃぎそうな企画だが(十五分八〇〇円)、ていりもまたスカートが汚れんばかりに一生懸命砂を掘り返し、薄青色の水晶の欠片を見つけると世紀の大発見のように手を振って興奮していた。
実際は博物館側によって絶対に見つかるよう均一に散りばめているのだろうけど。
で、手に入れた水晶の欠片を隣接コーナーに持ちこめば、数珠のように繋いで腕輪にしてもらえる(一本につき一〇〇〇円)。商売の流れが完全にできあがっていた。
「手に入れた水晶、せっかくだから腕輪にしてもらおうか。プレゼントするよ」
水晶に穴を開け、糸を通し制作してもらった腕輪をていりに贈る。ていりのことだからオーバーリアクション気味に歓喜するかと思ったが、「大事にするね。ずっと、はめられるように」とどこか感慨深そうに言ってさっそく腕輪を右手首にはめた。
――ま、偽物の宝石の腕輪を馬鹿みたいに喜ぶわけないか。
博物館から出るとすっかり日暮れとなっていた。窓から斜陽が射し込み車内を緋色に染めている。車両には俺とていりしかおらず、現実から切り離されたような空間だった。
「罰、なんだと思う」
ぽつりと、斜陽に溶け込むようにていりが呟いた。
「え、罰?」といきなりの発言に俺は面食らったように口を開けていたと思う。
「わかったんだ。きのう夢を見て、わかったんだよ。夢の中でさ、わたしがわたしに言ったんだ。ここ最近の異常事態、わたしだけ間違えていくのは、ぜんぶわたしが起こしたせい、その罰だって」
「どういうことだ」
「お父さんとお母さん、別居してて。そのきっかけ作ったの、わたしなんだ」
ていりから家庭の話を聞かされたのははじめてだった。
脳裏に浮かんだのは、立派だがシャッターが閉まりっぱなしの冷たい一戸建て。
聞けば、ていりが父親の携帯を見てしまったのがきっかけだった。
父親が風呂に入っている最中、父親の携帯が鳴っていたから手にして、メールの相手から連絡があることを伝えた。
ていりは仕事関係だと思っていたが、母親はなにか気づいたらしくそのメールを開いた。メール差し出し人は不倫相手だった。
「メールの文章には、それこそ耳にしたら恥ずかしい言葉ばっかり並んでた」
――それはまるであらゆる言葉が淫語に聞こえてしまうような。
「お父さんとお母さんケンカがすごくて、毎日で。乱暴で口汚い言葉が飛び交って……」
――それはまるで豹変して口調が乱暴になるような。
「お父さんの投げたガラスの灰皿がお母さんの顔にぶつかって、血だらけで、救急車来て、それでも傷が残っちゃって……お母さん病んじゃって、死んだように生きてて」
――それはまるですべての生き物がゾンビに見えるような。
「お前が余計なことしなければ――お父さん、わたしに睨んでそう言ったんだ」ていりは涙ぐんでいた。「わたしが携帯を見たせいで、お母さんに連絡相手を教えたせいで、家族が……だからその罰をいま……」
「違うだろ」
即座に否定した。
「それはお前のせいじゃないだろ」
ていりはうつむいた。後悔をまだ拭いされないでいたように映った。
「でも、もし仮にそれが原因で間違い現象が起きてるとして、なんで俺だけは間違えないんだ? ゾンビに見間違うわけでも、俺の言葉がいやらしい言葉に変換されることもない」
「それはたぶん……せいくんは本物だから、かな」
「本物?」
「せいくんの目。あなたの目は、本物の人生を送ろうと、美容師になろうと命を燃やす目をしていた。だらだらと時間を過ごしているわたしとは違った」
「大げさだ」
「大げさじゃないよ。せいくんと出会って、わたしはその目に惹かれて髪を切ってもらおうと思ったんだ」
ていりの言葉が、俺に高一の冬の記憶をよみがえらせた。
美容師になりたいと思ったのはばあちゃんが亡くなる前のことだ。
ばあちゃんはがんで足腰は枯れ枝のように弱り、髪も切りに行くのも億劫で、ぼさぼさな髪が嫌で親族と会うことも恥らっていた。
そこで訪問美容師にカットを頼んだ。
髪を切って綺麗になったばあちゃんは久々に笑った。
ああ、よかった、死ぬ前に美しくなれたと。
髪を切れない人のために髪を切る訪問美容師。
素敵な仕事だと胸の奥が痺れたような感覚はいまだ覚えている。
それから俺は美容師のアシスタントのバイトをした。
バイト代でハサミや練習用のウィッグを買ってひたすら練習した。
ハサミを握ってカットすればするほど痛感した。
俺は手先が不器用で、要領も悪く、向いてないことに。
いつか人前で髪を切るのだ。客が笑顔になるようなカットを。
いつか、いつか……。
――それ、いつだ? 俺にそんな日が来るのか?
「わたしでよかったら、いいよ。カットの練習台にしてくれて」
ある日、ていりがそう言ってくれた。最初は信じがたかった。
アマチュアに自分の髪を預けてくれる人間などいるはずがない。
男子だって見た目に気をかけているのに、ましてや女子なんて美容にどれだけお金をかけているのか。
俺なんかにカットされて変な髪型になったら笑われる高校生活を送ることになる。
だが、ていりは笑顔で受けてくれた。
高二で同じクラスになって出会ったばかりなのに。
結果、散々な出来だった。
動揺、混乱、自分のイメージと程遠い、おかっぱ頭みたいなカットになってしまって、もうていりに地面に額をこすりつけたくなるほどだった。
「なれるよ。美容師さん、絶対になれるよ」
なのに、ていりはそう言った。
「わたしでよかったらこれからも髪、切ってよ。いまはへたっぴかもしれないけど、これから上手くなればいいんだよ。わたしで、上手くなって」
切り揃えられた前髪をつまみながら、ていりは朗らかに笑っていた。
「わたし、嬉しかったんだ。自分は夢とか目標とかなにも持ってない、偽物で、自分の人生を生きていない人間だから、命を燃やす目をした人に協力できることが。自己満足かな。自己満足だね」
ていりはどこか寂しい笑みを口角にぶら下げた。
「でも、わたしはついにせいくんに間違えたことを言っちゃった」
こないだの第二被服室の一件を言っているに違いなかった。
「いっつもいっつも迷惑ばかりかけて、唯一、カットの練習相手になることがわたしにしてあげられることだったのに、それすら難しくなって、そんなわたしなんてもう……」
ていりは偽物の宝石が散りばめれた腕輪をぎゅっと掴んだ。
彼女にとってあの間違いは痛撃だったということか。
「俺さ」
一呼吸置いて、胸の内を晒した。
「ていりと会う前、カットの練習する度に打ちのめされてたんだよ。頭の中にある理想のカットは最強で、けど一回、また一回とハサミを入れるごとに、どんどん理想から離れていく。思ったよ。好きなことと向いてることは違うって。髪を切るのは好きなことだけど、向いてはいない。でもそのとき、ていりが言ったんだ。なれるよって。最初思ったよ。根拠ねえじゃん、それ、って。でも、そう、俺はそういう言葉がほしかった。できるとか、だいじょうぶとか、根拠がなくても背中を押してもらう言葉がほしかったんだ」
車窓に街の風景が戻ってきた。
別れる場所、名古屋駅が近づく。一日の終わりが迫る。
俺はていりを正面から見つめて言った。
ずっと考えていたこと。ずっと思っていたこと。
「カットするよ、ていりの髪。いつ間違い現象が終わるかわからないけど、それだけはちゃんとやる。そしてお前がもう最っ高って思えるようなカットできたなら、そのとき告白する。――付き合ってほしいと」
ていりが目を剥いた。電車はゆっくりと速度を落とし、名古屋駅に到着した。
――だが、俺とていりの関係の終わりは突然やってきた。
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