期末試験の結果は散々たるものだった。

 美容系の専門学校進学希望のため、大学受験する連中にくらべれば成績はそれほど重要ではないが、勉強を疎かにしていいとは思えない。

 最近はていりとの電話で寝不足気味で、頭の中がよくぼうっとしてしまう。

 ていりの前ではなんとかごまかすが、ふとひとりになったときにまぶたが自然と下りた。

 うつらうつらする日が多くなった。

 身体も重く、疲れを感じているところを吉野に指摘された。

「安藤くん。最近調子悪そうだけどだいじょうぶ? 目の下、影できてるよ」

「え、ああ……いや、平気だ。心配かけて悪いな吉野」

「かなえ。私のこと、皆みたいにかなえって呼んで。二年になってからずっとそう言っているのに呼んでくれないね。成宮さんのことは下で呼ぶのに。よし、わたしも安藤君のことせいくんって呼ぼ。せいくん。ふふっ。悩みがあるならいつでも相談に乗るから」

 俺は気合いを入れるように頬を叩いた。

 今日はていりをカットする日。待ちに待った日。

 彼女に疲れているところなど見せたくない。

 どう彼女の髪を切るのかイメージを膨らませ、前日はカットウィッグでずっと練習していた。

 高揚していたのは俺だけでなく、ていりも同じなのだと頬を朱に染めた笑顔を見て確信した。

 ていりに襲いかかる異常事態の最中、久しぶりに見た明け透けな笑顔に俺も意気込んだ。

 せめて俺といるときは、ゾンビだの淫語だのと歪んだ世界を忘れられるように――

 放課後の斜陽が射す第二被服室。

 衣装確認のための等身大の鏡、その前でパイプ椅子に足を揃えて座るていり。

 俺はカットのハサミを持って彼女の後ろに立つ。

「髪型はいつも通り、俺まかせでいいんだよな?」

「うん!」鏡に花みたいなていりの笑顔が咲く。「ドキドキだなぁ、ワクワクだねぇ。どんな髪型になるんだろう」

「あと、今日は髪を切りながらプロみたくトークします。話すテーマも用意してきました」

「おお! 進化してる!」

「もう春休みはすぐそこだろ。だから、春休みに行きたい場所。その話」

「どこかつれて行ってくれるの!? せいくんが一緒に! きゃー、きゃー!」

「おい、足をバタバタして暴れるな。髪が切れないって」

「私、行きたいところあるんだ! あのね! あのね!」

「っておいダメだぞ。髪切る前に話題を消化するのはダメだ」

「あっと、ごめんごめん。じゃあ、よろしくお願いします」

 ていりが居住まいを正し、さあ、カットするぞと俺が気息を整えて髪にハサミを入れようとしたまさにその瞬間だった。

「オイテメェェェぇぇ!! なに髪切ろうとしてんだッボケコラああんッ!」

 えっ、と俺はハサミを持つ手が止まった。ぽかんと口を開けた。

 だれの声か、思わず左右、そして後ろに首を振った。だれもいない。

「オマエだよ、オ・マ・エ! おうおうちゃんと聞いてんのかすっとこどっこい」

「す、すっとこ……」

 荒れた口調で痛罵してきたのは、ていりだった。

 ていりがこちらに振り向くと、普段穏やかに垂れ下がったまなじりが、キッと吊り上がっていた。

「どうわっ」やや遅れて、俺は驚きで思わず素っ頓狂な声を出してしまった。「て、ていり……なのか?」

「なのか? じゃねえよ! どっからどう見てもていりだろうがよ!」

「どっからどう聞いてもその喋り方はていりじゃねえよ!」

 ていりは身体に巻いていた散髪ケープを脱ぎ捨て立つと、俺に肉薄して胸倉を掴み、不良さながらにメンチを切ってくる。

 ただ迫力そのものは怖いというより可愛らしさが勝っていたが、いきなりの豹変に頭がついていかない。

「おいコラ。もし下手こいて変な髪型になったらどう責任とってくれんだよ! 失敗しねえって言えるか? このあたしに上手くやるって約束できんのか? 周りの女に笑われたらやべーだろうが! あん、ああん!」

「お前のその口調と態度がやべえよ……」

 口にして、ハッとした。ここ最近襲われているていりの異常事態。

 生物をゾンビに見間違え、あらゆる言葉を淫語に聞き間違え、だとしたら今回は……。

「テメエ、あたしの髪切ろうとしたよな。このスカポンタン!」

「す、スカポ……れ、冷静になってくれ。俺たちはただ、いつものようにカットの時間を過ごそうとして……」

「無理だよ。てめえみたいな素人には」

 はたと、全身の血流が凍りついた。

 思わず、二度三度まばたきを繰り返した。

 そのとき、ふっと胸倉を掴んでいた握力が弱まった。

 ていりのまなじりは元に戻ったように下がっていたが、その表情は停止していた。

「え……あ、ち、違っ……」

 ていりは数歩後ずさる。

「思ってない。そんなこと、たった一度も思ってない……!」

 ていりはみずから口を衝いて出た言葉に怯えるように両肩を小刻みに震えさせ、否定するように何度も首を横に振っていた。

「なに、これ……。どういうこと。わたしが思ってることと正反対のことを……!」

「ていり」

「違う……違うよっ、違う違う! わたし、そんな、無理だなんて!」

「ていり!」

 俺はていりの両肩にそっと手を置いた。

「だいじょうぶ。俺は、だいじょうぶだから」

 落ち着くよう言い聞かせる。ていりにも、俺自身にも。

 少ししてようやく乱れた呼吸が整い、ぽつぽつとていりはその時自分の身に起きたことを話してくれた。

 いきなりだったらしい。前触れも兆候もなく、まるで別人格に乗っ取られたように、自分自身のコントロールが利かなくなり、ていりはていりが思ってることと真反対のことを言い出した。

 つまり、言い間違えたのだ。発作みたいなものだった。

「せいくん。わたし、せいくんにひどいこと……」

 ていりはまだ尾を引いていた。

 大事なものを失くしたような切なげに目を揺らしていた。

 ゾンビの見間違え、淫語の聞き間違え、これまでていりに異常事態が起きても、それは俺とのコミュニケーションを断つものではなかった。

 ていりにとって俺は正常なる世界で、正常なる感情の共有ができた。

 だが、今回は事情が異なる。

 一時的とはいえ、ついに俺とのコミュニケーションもできなくなった。

 新たな間違え現象。思ってもないことを言ってしまう……。

 いや、本当か? 本当に一ミリも思ってないことなのか?

 俺みたいな下手くそに髪を切られること、心の奥底では嫌がって……。

 ぶんぶん、と俺は不安を振り払うように頭を振った。口角を無理やり持ち上げて「いや、ていりの不良口調、迫力ねえよ、ぜんぜん。てか、可愛らしかったしな。はは」そう笑みを作ってごまかした。

 その後、ていりが再び喧嘩口調に言い間違えることはなかった。

 しかしカットする雰囲気ではなく、また今度と流れた。

 しかし次いつカットするのか、そういう予定も決められなかった。

 またなにか言い間違え現象が引き起こされるのではないかと感じた不安は互いに隠しきれなかった。

 ていりの髪を切れなくなってしまったと、ひとり帰路に着いたとき悶々とそんなことを考えていた。

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