S君の恋

安路 海途

S君の恋


 S君は悪魔である。いや、正確に言うなら、悪魔の生まれ変わりである。といって、S君の尾骶骨から豚のようにくるくる巻いたしっぽが生えているわけでも、頭頂部にねじくれた山羊のような角が生えているわけでもない。彼はごく普通の(というより平均的なラインより少し下の)、一般的な男子高校生にすぎない。目が悪くて、背丈が少し低い。時々、意味もなく頭を前後に揺らす癖がある。しかし外観的に悪魔と似ているということはない。そもそも、彼は自分が悪魔の生まれ変わりだなどということは知らない。考えたこともない。これまで、ごく普通の人間として暮らしてきた。目下のところ、S君の関心は自分が悪魔かどうかということではなく、同じクラスのKさんに向けられている。

 何故なら、彼は彼女に恋をしていたからである。



 Kさんは格別の美人というわけではなく、さりとてひどい不器量というわけでもない。ぱっと見にはこれといった特徴はなく、街ですれ違った人間はみんな素通りしてしまう、というタイプの人間である。教室でもひっそりとしていて、友達としゃべるときでさえ大声は出さない。S君は学年が始まってしばらくのあいだは、彼女の声を聞いたこともなかったし、彼女が同じクラスにいることさえ気がつかなかった。

 そんな彼女の存在に気づいた――あまつさえ、恋をした――のは、ちょっとした偶然、神様のいたずらとでも言うべきものであった。

 S君はある昼休み、校舎の外を気まぐれに散歩していた。彼には友達が少なかったので、時々手持ち無沙汰になると、そんなふうに意味もなく徘徊する癖があった。そうして彼が校舎と塀のあいだにある、木が植えられただけの狭い空間にやって来たときのことである。校舎の角を曲がったS君は、はたと足をとめた。人の気配があったからである。こういう時、人は思わずぎくりとして身を隠してしまうものである。それと同じ反応を、この時のS君もしたのである。

 校舎の陰からそっとうかがい見るに、そこには一人の女子生徒の姿があった。それがKさんであるということは、さすがのS君もすぐに気づいた。それはちょっと異様な光景で、Kさんはすっかり濃緑となった葉桜のそばで、何か決然とした感じにたたずんでいた。彼女はその場にまったく自分ひとりだけのつもりで、心の奥底を正直に曝していた。

 と、Kさんは不意に、涙を零した。あたかも、誰もいない部屋にたった一つだけ置かれたコップが、窓からの弱められた陽光を少しずつ貯めていって、とうとうそれがあふれだしてしまった――という感じだった。それは電解質を含んだ液体というよりは、何か透明な光の塊であるように見えた。

 S君はその光景に、一瞬呼吸をするのも忘れるほど見とれてしまった。彼女がどうして泣いているのか、何のために泣いているのか、ということはS君にはわからなかった。それは瑣末だった。その涙はただただ尊かった。S君は彼女に気づかれないよう、そっとその場を離れた。

 ――そのようにして、S君はKさんに恋をした。



 ところで、ここに一つの問題がある。とても大きな問題である。それはこういうことである。もしも悪魔の生まれ変わりであるS君が誰かに恋をすると、世界は途端に消滅してしまうのである。もちろん、ついさっき言ったとおり、S君は恋をしている。ただしそれだけでは必要条件となっても十分条件とはならない。彼はその恋を告白せねばならないのである。その時こそ、この世界は滅びる。

 何故かというと、それが神様と悪魔で交わした約束だからである。悪魔というのはつまり、S君の生まれ変わる前のそれである。そういう約束を交わしたうえで、悪魔はS君に生まれ変わったのである。

 しかるに、高校生になるS君は、これまで恋をしたことがなかったのであろうか? それは〝応〟である〝Yes〟である。

 彼は生まれてこのかた、今までに恋というものをしたことがなかった。つまりこれが、S君にとっての初恋だったのである。



 ところ変わって、ここは天上である。あるいは、我々がとして認識できる空間である。

 そこでは今しもまさしく、神様が下界をのぞきこんでいるところだった。彼は(といって、神様にはたして性別があるのかどうかは不明である)ちょっと変な顔をしていた。何かまずいものを飲みこんでしまったのだが、それが何なのか、飲みこんでしまったあとではよくわからない……そんな顔だった。端的にいって、彼は少々困っていたのである。

 神様は使いのものに言いつけて、天使を一人(一匹? 一体? 一羽? 残念ながら、筆者は天使の数えかたに審らかでない)、自分の下に呼びよせてもらった。天使はその小さな羽根をぱたぱたやって、すぐに参上した。それはちょうど西洋古典画によくあるような姿の天使だった。例のいたずら好きの、いわゆるクピドのような子供の姿の天使である。

「お呼びでしょうか、神様」

 と、彼は(もう一度言わせてもらって悪いが、天使に性別があるかどうかは不明である)子供のようなその外観にはいささかそぐわない、しかめつらしい顔つきで言った。

「うむ、お前にはこれから、ある重大な役目をはたしてもらいたいのだ」

 神様は大きく響くような、そのくせ小さく囁くような声で言った。神様の声は、普通とは違うのである。きっと咽頭の構造が違うのだ。

「役目とおっしゃるのは、どういうものでございましょう?」

 天使は慇懃に訊ねた。

「それがの、わしは昔、悪魔のやつとある約束を交わしたことがあっての」と、神様は言った。「それはの、こういうことなのじゃ。ある時、悪魔のやつがわしに向かって言ったのだ。〝愛だの恋だのなんてのはくだらない。第一が下劣ですよ。己の不純な欲求をそんなふうに美化してみせるなんていうのが。そんなものは、一種のじゃありませんか〟もっといろいろしゃべったのじゃが、要はそんなところじゃ。あやつは地上におけるわしのもっとも高貴にして偉大な贈り物であるところの愛をくさしおったわけじゃ。そこでわしは言ってやった。〝はたして人間に生まれ変わって恋をしたとしても、お前はそんなことを言っていられるかな?〟悪魔のやつはまったく強気だった。そんなことはありえない。例え世界が滅びるにしろ、それはありえない話だ、とこう抗弁するのだ。わしはそれを聞いて頭にきてしまった。何しろ、わしの最大の傑作であるところの愛を、悪魔のやつはせせら笑っているわけだからの。そこでわしは、こう言ってしまったのじゃ。〝よろしい、そうまで言うなら試してみようではないか。お前が人間に生まれ変わったとして、はたして人を愛さずにいられるかどうか。だがお前が人を愛したその時には、確かに世界は滅びるのだぞ!〟とな。悪魔のやつは自信たっぷりに放言しおった。〝ええ、もちろんそれでけっこうですとも。しかしもし、私が死ぬまで恋のの字も知らなかったとしたら、神様、あなたは私を地獄の王にしてくださいますか?〟そう言われて、わしはすぐさま承知してやった。やつが人間に生まれ変わっても愛を知らずにいるなど、ありえぬ話だったからの。……そしてあやつは今、確かに人を好きになった。わしの思ったとおりに。ところがここで少々、困ったことになったのじゃ。あやつはそうして愛の威力を知ったわけじゃが、先の約束に従うと、そのためには世界が滅ぼされねばならん。これはわしも困ったところじゃ。しかし、約束を違えるわけにはいかん。それを取り消すことは、いかな全能の神といえども不可能なことじゃ」

 天使は神様のこの長い話を聞いて、いささか呆れる思いだった。どうしてまた、そんな約束をしたのだろう。そもそも、その約束そのものがおかしいではないか。話の流れからすると、世界が滅びるのは決まっていたようなものだ。それなのに、今頃になって困ったなどと……だが天使はもちろん、一言どころかおくびにもそんなことは出さなかった。相手が大臣だろうが王様だろうが神様だろうが、権威というのはそういうものである。権威というのはおくび一つで壊れるほど脆いのである。

「それで、どうしてわたしをお呼びになられたのですか、神様?」

 内心はともかくとして、天使はかしこまった様子で訊ねた。

「今言ったように、交わした約束を破棄することはできん」と、神様は言った。「そこで、お前にはこれから悪魔のところに行って――今はSという名前の高校生だが――やつを説得してもらいたいのじゃ。このままでは世界が滅びてしまうから、どうせなら地獄の王になるのを選んではどうか、とな」

 天使はじと目で、思いきり神様をにらんでいた。



 それがどんなものであれ、神様の命令は絶対である。洪水を起こすから大きな船を作れとか、我が子を供物に捧げよとか、気の進まない人間に対して民衆を率いて砂漠へ向かえとか、命令されたからにはそれを伝えに行かなくてはならない。天使はさっそく、地上へとやって来た。

 S君を見つけるのは簡単だった。電話帳で住所を調べればすんだのである。彼は家にいた。恋する者の常として、彼は自分の部屋でぼうっとしていた。その目は熱に浮かされたように焦点がなかった。こうした遊離状態には多くの人に覚えがあるだろう。ない場合は知らない。それは筆者の責任ではない。

 はじめ、天使が部屋にやって来ても、S君はそのことに気づかなかった。彼はなおも、机に頬杖をついたままぼんやりしているばかりだった。天使は仕方なく、軽い咳払いのようなものをした。これを見ると、天使にも心遣いというものはあるらしい。

 背後で突如としてそんな音がしたため、S君はびっくり仰天した。人間の生理的、心理的現象として、当然である。彼はバネ仕掛けのように飛びあがり、机に太腿のを強かに打ちつけ、派手に転がってイスに頭をぶっつけた。騒々しいばかりだった。

「はじめまして、わたしは天使です」

 床でのたうつS君に向かって、天使は遅まきの自己紹介を行った。

 S君はきょとんとした。それはそうだろう。いきなり天使だなんてことを言われても、普通の人間はなかなか信じたりはしない。ただ、この場合は状況もあり、天使の格好もわかりやすくあったので、S君はすんなりとそれを信じてしまった。その心理機構を弁別するのはこの稿の目的ではないため、ここではこれ以上立ちいらないこととする。

 ともかく、目の前の小さな羽根を生やした子供が天使であるとして、S君は当然な疑問を持った。

「一体、その天使がぼくに何の用なんです?」

 そう言われて、天使はちょっと困った。事情を説明するのは冷汗ものだった。だが正直に話す以外、ここでは手がなかった。天使は、「神様と悪魔が……」ということを一から話しはじめた。「世界が滅んでしまう……」ということも残さず話した。

 S君はその話を一度聞いただけでは納得しなかった。天使もそれは無理がないと思った。S君はいくつか質問をした。天使はできるかぎりその質問に答えた。それでもS君は納得しなかった。無理もないと思いつつ、天使は次第に面倒になってきた。こんな話は土台無茶なのだと、自棄になった。

「とにかく、君が恋の告白をした時点でこの世界は滅んでしまうのです。ですから、そうした行為はご遠慮願いたいのです」

「遠慮して、それでぼくはどうなりますか?」

「地獄の王になれます」

 と天使は渋々、そう言った。

「そんなものにはなりたくありません」

 S君は頭を振った。悪魔の生まれ変わりであることと関係があるのか、S君はなかなか頑固だった。

 天使ははたと困ってしまったが、神様に説得してこいと言われた以上は、説得するほかなかった。「世界が滅びるから……」とか何とか、天使はもごもごと繰り返した。

「そんなことはぼくの知ったことじゃありません」

 とS君は強硬に出た。

「しかし、もし君が彼女に好きだと言っても、その時点で世界は滅んでしまうんですから、そんなことはしたって意味がないじゃありませんか」

「意味はあります」

 S君は断言した。

 天使はほとほと困りはてた。昔、これと同じようなことがあった。ある男に、不徳の町に滅びの預言をしてこいと神様の命令を伝えたことがあった。男は使命を厭い、逃げ、船から落とされ、大魚に呑まれ、ようやく問題の町へと向かった。住民は預言を聞いて悔い改めた。ところが、男は町が滅びるまでは一歩も動かない、と宣言した。男は結局は説得されたが、S君の頑固はそれに似ていた。

「愛とは、相手の幸せを心より願う気持ちのことです」天使は冷汗をかきながら説諭した。「君が本当にKさんのことを好きなら、むしろ彼女を遠くから温かく見守ってやるのが筋というものじゃありませんか」

「そんな筋のことは知りません」

 S君はますます頑固だった。

「世界が滅んでしまったら、彼女だって死んでしまうんですよ」

「それは神様と悪魔で交わした約束であって、ぼくには関係がありません」

「いや、そういうわけにはいかないのです。一度なされた約束というのは、どうやっても取り消しがきかないのです」

「だとしても、それはぼくの問題じゃありません」

 天使は本当に困ってしまった。進退窮まった。まったく、S君は頑固だった。金剛石など比ではなかった。ちょっと考えれば、どちらのほうが得か、などということはわかりそうなものではないか。世界が滅んで、それで一体何の意味があるというのだろう。船が沈むというときに、積まれた財宝を後生大事に抱えていたとして、それが何になるというのか。

 だが、S君はきっぱりと言い切るのだった。

「それは、それが世界と引き換えにするだけの価値があるものだからです」



 天使は神様の下へと戻ると、逐一を余さずに報告した。S君は頑固だった。説得は奏功しなかった。彼は世界が滅びるほうを選んだ。

「――そうか」

 と、神様は一言いったきりだった。不首尾を責めることもなかった。再度の説得を厳命することもなかった。天使はすごすごと退散した。

 さて、神様はそこであらためて地上を見下ろした。それは実に美しいところだった。醜いところも、正しくないところも多々あったが、それでも美しいところではあった。

 神様はため息をついた。約束は約束だった。つまるところ、愛は世界を滅ぼすほどに強力だったのである。神様は苦い満足を味わった。ちょうど、苦心のすえに完成した作品に対して、小説家が一抹の寂しさを覚えるように。そうして、さっと腕を一振りすると、この世界は消えてなくなってしまった。


 と、ここまで来て、神様はもう一度腕を一振りして、前のとそっくり同じ世界を作った。そこではS君は悪魔の生まれ変わりなどではなく、従って何にはばかることなく恋をすることができた――と、筆者はそう書こうかと思っていた。だが、それはあまりに都合がよすぎる気がした。そのため、前のところで擱筆することとした。

 ――これはたんに、「擱筆」という言葉を使いたいがために書いた話である。

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