密偵アデリナ
リーフマンの件があってから、クルトたちは町長に案内されて今日の宿に向かっているところだった。
湖の近くを離れて、ビアンカの菓子店などがあった一帯を移動している。
クルトは普段通りの様子を見せていたが、その心中では滅多に見られないはずの魔物が出てきたことへの警戒感が強まっていた。
アーラキメラでさえ大騒ぎする出来事なのに、短期間にリーフマンという奇怪な魔物まで現れてしまった。
クルトは己の預かり知らぬところで、何か好ましくないことが起きているのではという考えが浮かんでいた。当然ながらその根拠はなく、あくまで感覚的なものにすぎなかった。
そんな彼の内面に誰も気づくことはなく、町長は一軒の建物の前で立ち止まった。
ベージュの外壁に白い窓枠が印象に残る外観だった。
「今日は比較的どこの宿も空いていますが、私としてはこちらがおすすめです」
町長は自信があるような口調でいった。
クルトは少し上の空のまま説明を聞いている。
「先ほどの件で被害者が出ていたら、静養地としての評判に傷がつくところでした。このご恩をお返ししたいので宿代はいりません」
町長の話に理解が追いついたところで、クルトは己の耳を疑った。
立派な宿に無料で泊まれるとは信じがたかった。
「さすがにこれは……もっと質素な宿でかまいません」
「周辺の宿の数は多くないので、遠慮なさらずにどうぞ」
「……それでは、こちらに泊まらせてもらいます」
クルトは厚意を無駄にするのも失礼だと考えて、申し出を受けることにした。
これで三泊連続で宿代が浮いたことになる。
「宿屋の主人には私から話をしておきます」
「ええ、それではお願いします」
それからしばらくして、泊まれることが確定した。
夕方になったばかりで眠るにはまだ早く、クルトたちは散策にでかけた。
静養に訪れた客のために色んな店が出ているとはいえ、もともとは小規模な町。
一通り見て回るには、大した時間はかからなかった。
彼らが町の食堂で夕食を済ませた頃には日が暮れていた。
都市部のように魔力灯はなく、等間隔に篝火が置かれている。
「いやー、お腹いっぱいです」
「僕が注文前に支払いをすると聞いて、君は遠慮なく食べていたな」
「長旅で空腹だったんですよ」
クルトとシモンは歩きながら会話をしていた。
ヘレナはスイーツに未練があるのか、街角の菓子店に視線を向けている。
カルマンのことで張りつめる日々が続いていたが、クルトはこうしていると束の間の安らぎを得られると感じていた。
普段は硬い表情をしていることが多いものの、今は肩の力が抜けている。
「――んっ、鳥の羽音か?」
ふいにクルトの耳に聞き慣れた音が届いた。
それは密偵が彼に向けて飛ばす鳥の羽音とよく似ていた。
「……まさか、こんな時間に」
密偵が鳥を飛ばすのは日中がほとんどだった。
これはカルマンの情報を得るための方法であり、フォンス国内で誰かに見られることを警戒する必要がなかったことが関係している。
もっとも、クルトの頭の中では内通者がいるのなら方法を改めた方がいいかもしれないという意識が片隅にあった。
「クルト、ここにいたんだ!」
「えっ、アデリナ、君がどうしてここに……」
クルトは意外な人物が意外な場所へ現れたことに驚きを隠せなかった。
シモンとヘレナは何も言わずに見守っている。
声の主はクルトがカルマンでの諜報活動に送り出していた密偵だった。
潜入するための服装なのか、フォンスでは見慣れない格好をしている。
肩まで伸びた亜麻色の髪。細くすらりとした手足。
カルマンからここまでの距離は遠いため、少し疲れているように見える。
アデリナは思いつめたような顔でクルトを見つめていた。
「カルマンは準備が整わないまま、進軍を始めるみたい」
「何だって!?」
クルトはその言葉を聞いて、思わずシモンの顔を見た。
さすがの彼も真剣な表情に変わっていた。
「まずいですね。この人数じゃ足止めできれば大成功ってところです。それに情報が少なすぎる」
「クルト、この人は?」
「彼はシモン。フォンスに敵なしの腕前を持つ戦士だ」
それを聞いたアデリナはまじまじとシモンを見つめた。
彼女の目には、本当にそんなに強いのかという疑念の色が浮かんでいた。
「それから、彼女はヘレナ。エルフの魔術師だ」
「はじめまして、シモン、ヘレナ。私はアデリナ。クルトに雇われてカルマンの調査をしていたわ。進軍が始まって危険を感じたのと、伝書で誰かに知られるわけにはいかない内容があって、急いでフォンスに引き返してきたところよ」
アデリナは少し慌て気味で早口に説明をした。
クルトはその内容を聞き漏らさないように集中して聞いていた。
「アデリナ、知られてはまずいってどんな内容なんだ」
「大臣の部下がカルマンにいたわ……悪い意味でね」
「そんな、まさか……」
クルトはそうあってほしくないと思っていたが、彼女の情報で疑わざるを得ないことが明確になった。
諜報活動が目的ならいざ知らず、それ以外の用件でカルマンに行くことは、フォンスの民ならば絶対にありえないことだった。
短時間で重要すぎる情報を聞かされて、クルトは少し混乱していた。
何から行動すべきか優先順位をつけるのがむずかしくなっている。
「とりあえず、この町の人に知らせた方がいいのか……」
「単騎ならともかく、部隊で動いているからここまでは何日かの猶予があるわ」
「そうか、足止めに行きたいところだが、レギナに戻って応援を頼まなければ」
クルトが整理のつかない状態でいると、シモンが声をかけた。
「まずはこの町の人を助けましょう」
「……シモン、町長たちは信じてくれるだろうか」
「信じますって、おれたちは命の恩人みたいなものだし」
シモンは優しげな笑顔をクルトに向けた。
それは相手を勇気づけるような眩しいものだった。
「そうだな、何とか理解してもらえるようにしよう」
「部隊で動くなら抜け道は使えないし、ここを確実に通るはずよ。そうなった時にこの場にいたらカルマン兵に殺されてしまうわ」
アデリナの話を聞いて、クルトの意思が固まった。
彼はまず町長のもとへ行くことにした。
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