第40話 あなたと交わした約束

「僕は子どもの頃からどちらかというと大人しい方で、何をするにも幼馴染の二人に引っ張られていました。一人は、明莉さんも知っている楓香。もう一人は僕と同い年の男の子です。どんくさい僕を嫌がることなく二人は、色々なところに連れて行ってくれました」


 北斗とはずいぶん違う印象に驚きを隠せない。でも、そっか。碧生さんはそういう子どもだったんだ。


「そんな僕なので、子どもの頃からずっと一緒だった楓香と結婚するのも自然なことでした。婚約が決まった時、もう一人の幼馴染も喜んでくれて、特に変化のない日常でしたが、これが幸せなんだと思っていました。……あの日までは」

「何が、あったんですか?」

「……浮気していたんです。楓香が、幼馴染と」

「っ……酷い」


 思わず口走った私に、碧生さんは寂しそうに微笑むと首を振った。


「酷いのは、僕の方なんです。その姿を見ても、僕はショックひとつ受けませんでした」

「え……?」

「ね、酷いでしょう? 結局、僕は彼女のことを愛してなんてなかったんです。ただ望まれるままに付き合ってして、惰性で一緒にいて、そして婚約をした。ただそれだけ……。だから、彼女が浮気したって僕には責める権利なんてないんです。むしろ僕さえいなくなれば、二人は何の障害もなく一緒になれるんじゃあ……そんなことを考えて――気が付くと、船に乗っていました」


 船に……。そうか、その船に乗って碧生さんは私たちの島に――。尋ねた私に碧生さんは小さく頷いた。


「船の外でボーっと海を見続けていました。このまま知らない土地へ行けたら、と。そんなことを思っていたから罰が当たったんでしょうね。船が大きく揺れた拍子に、海に投げ出されていたんです」

「そんな……!」

「でもね、抗おうと思えば抗えた。助けを呼ぼうと思えば呼べたんです。なのに、僕はそれをしなかった。そして……誰にも気付かれないまま、海に落ちました。その後のことは、僕より明莉さんの方がご存知ですね」


 小さく頷いた私に、碧生さんは微笑んだ。

 そして星空を見上げると、目を閉じた。


「夢を見るんです」

「夢……?」

「はい。夢の中の僕は、楓香じゃない誰かの隣にいて。僕じゃなくて、俺なんて言ってて。ぶっきらぼうで。優しくしたいのにできなくて。でも、隣にいるその人のことが、好きで好きでしょうがなくて。ああ、こんなふうに誰かを愛せたら幸せだろうなって目が覚めるたびにずっとそう思っていました」


 涙が、止まらない。

 だって、それは。その夢は――。


「でも、ようやくわかりました。あれは夢なんかじゃなくて……僕が失った、北斗としての記憶なんですね」

「っ……」

「だって、夢の中の僕の隣で微笑んでいるのは、他でもない。明莉さん、あなたなんだから」


 次から次へと涙が頬を伝って流れ落ちていく。

 碧生さんが、北斗に気付いた。

 私が好きになったあの人は、彼の中に生きていた……!

 生きていたのだ……。

 でも……だからといって、どうすることもできない。

 だって、今も碧生さんは楓香さんと――。


「――楓香とは、別れようと思っています」


 まるで私の心の声が聞こえたかのように、碧生さんはそう言った。


「僕がこちらに戻ってきてから、楓香は以前のように接してくれます。でも、ふとした拍子に、あの日楓香が幼馴染の彼と一緒に歩いていた姿を思い出してしまうんです。僕の隣にいるよりも、幸せそうな彼女の姿を。僕が戻ってこなかったら、二人はいずれ付き合って結婚して……幸せになっていただろうなって」

「っ……」


 碧生さんは、楓香さんのことを愛してなんてなかったとそう言ったけれど、でもそれは違うと思う。だって、楓香さんの幸せをこんなにも願っているのだから。ただ、愛の形が少し違っただけで、きっとそこにはきちんと愛情が存在していたのだと、私は思う。

 そう言った私に「ありがとうございます」と微笑むと、碧生さんは真剣な表情で私を見つめた。


「待っていて、なんて言う権利は僕にはないのかもしれません。でももしもあなたが……明莉が許してくれるのなら、全てを終わらせてお前の元に帰るから――それまで、待っていてくれないか?」

「……碧生さん、その言い方……」


 まるで北斗みたい、という私に碧生さんは恥ずかしそうに笑った。


「夢の中での話し方を真似てみたんですが……変ですか?」

「変です」

「う……」

「だから――無理して、北斗にならないでください」


 私の言葉に項垂れていた碧生さんは、驚いたように顔を上げた。

 そんな碧生さんに私は微笑みかける。


「私も待ちます。いつかあなたが北斗の記憶を思い出して、帰ってくる日を。その日まで、ずっとずっと待っています。だから――必ず、帰ってきて」


 碧生さんは頷くと、私に手を伸ばそうとして――やめた。

 でも、それでいい。

 私たちはまだ触れあっちゃいけない。

 ――今は、まだ。


「さよならは、言いません」

「私もです」


 いつの間にか、辺りは明るくなり始めていた。

 日が、のぼる。

 北斗七星も北極星も、気付けば白んだ空に消えていった。

 でも、必ずまた二人であの星空を見ることができる日が来るから。

 その日まで待っていよう。


 あなたと過ごした、あの島で。



***



 船が島につくと、早朝だというのに船着き場には待ってくれている司の姿があった。

 碧生さんが楓香さんとのことをきちんとしなければいけないのと同じように、私にもつけなければいけないけじめがある。

 大切なあの人に、別れを告げなければいけない。


「おかえり」

「ただいま」


 船から降りた私を出迎えてくれた司は、私の顔を見てそして優しく微笑んだ。


「会えたみたいだな」

「え?」

「北斗に」

「……うん」


「よかったな」と言って司は歩いて行こうとする。

 その背中を慌てて追いかけると、司は言った。


「俺の役目は、これで終わりかな」

「っ……司!」

「謝んなよな」


 謝ろうとした私の言葉を遮ると、振り返って司は言った。


「謝られたら、俺がフラれたみたいじゃないか」

「司……」

「俺のこと、傷付けたとか思ってんだろ? バカだな」

「だって……」


 司は私の頭を優しく撫でると「バカだな」ともう一度言った。

 その声があまりにも優しくて、思わず泣きそうになる。


「いいんだよ。俺にとってはお前のことも大切だけど……同じぐらい北斗のことも大事なんだ。お前らは俺の、妹と弟みたいなもんだからな」

「つか……さ……」

「出来の悪い妹と弟を持ったもんだ」

「ごめ、なさ……」

「だから、謝るなって。……俺はさ、俺でちゃんと幸せになるから。お前らも幸せになれよ」

「う……んっ……」

「泣くなって。あいつが帰ってくるまでの間、お前が泣いてても俺はもう知らないからな」

「う、ん……っ」


 嗚咽が止まらない私に司は「しょうがないな……」と言って……ギュッと、抱きしめた。


「今日だけだからな」

「っ……つ、かさ……」

「幸せになれよ」

「ありがとう……」


 溢れ出た涙が、司の真っ白なシャツを濡らしていく。慌てて離れようとした私の頭を、司が押さえつけた。


「――今、顔上げんな」

「司……」


 その声が、かすかに震えていることに、気付いた。

「ごめんね」と……もう二度と伝えることのない「大好きだよ」を込めて、私は司の背中に両手を回すと、そっと抱きしめた。

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