第32話 あなたのそばは心が凪いで
数日後、仕事中だった私は話があると大貫さんに呼び出された。
いったい何の話だろう……そう考えた時、もしかして、と一つの可能性が思い浮かんだ。
ううん、そんなわけない。そんなはずないけれど……でも……。
はやる気持ちを抑えきれずに、私は足早に大貫さんの元へと向かった。
「失礼します!」
「ああ、悪かったね。仕事中に」
「いえ、あの話って……」
大貫さんは優しく微笑むと、ソファーに座るようにと言った。
二年前よりも随分と老け込んでしまった大貫さんは、次の村長には立候補しないんじゃないかと言われていた。おじいちゃんの一つ上だから今年71歳。確かにもう高齢だ……。
そんな大貫さんはニコニコと笑うと、嬉しそうに口を開いた。
「聞いたよ、明莉ちゃん」
「え……?」
聞いた……?
何のことか分からず聞き返した私に、大貫さんは言った。
「司と付き合ってるんだって?」
「あ……」
そのことか――。
一瞬ガッカリしそうになった私は、曖昧に微笑んだ。
付き合ってる、といっていいのだろうか。好きだと言われた。結婚しようとも言われたし、よろしくお願いしますとも伝えた。でも、付き合っているのかと言われると……。
「違うのかい?」
「あ、いえ……。えっと、はい」
多分。と、付け足しそうになるのをなんとかこらえると、そんな私に大貫さんは嬉しそうに笑った。
「そうかいそうかい。……僕はね、泰ちゃんが亡くなってから明莉ちゃんのことを本当の孫のように思っていたんだ。だから、その話を聞いて、心からよかったと思ったよ」
「大貫さん……」
そして、ゴホンと咳払いをすると……大貫さんは言いにくそうに言った。
「北斗君のことで傷付いた明莉ちゃんをずっと見てきたからね」
「っ……」
「もう、忘れてもいいんじゃないかな。忘れて、司と幸せになりなさい」
「ありがとう、ございます……」
結婚のことなんて知らないはずなのに、大貫さんは私に「幸せになりなさい」と言う。北斗のことを忘れて、幸せになりなさいと。それが、私の幸せなのだというように。
「失礼しました」と、言って大貫さんの部屋を出ると、私は小さくため息をついた。
私はいったい何を期待してここに来たのか。
忘れると、そう決めたのに――。
「よしっ」
顔を上げると、前を向いて歩き始めた。
もう過去は振り返らないと、固く心に誓って。
***
司のプロポーズを受けてから、ひと月が経った。私たちは以前にも増して一緒にいるようになっていた。
私の気持ちが置いてきぼりにならないように、司は何度も立ち止まりながらゆっくり隣を歩いてくれた。
おかげで少しずつではあるけれど、北斗のことを思い出す時間も減って、このまま――いつか思い出に変わるんじゃないかと思えるようになってきていた。
「それじゃあ、明日の昼過ぎに迎えに行くから」
夕食を食べた後、帰ろうとする司を玄関で見送っていると、突然司が言った。
明日は司の家に行く予定だ。ご飯を食べに来てねと司のお母さんが言ってくれたので、お言葉に甘えることにしたのだ。
「え、いいよ。そっちに行くだけでしょ」
「それはそうだけど」
「大丈夫だって、何百回遊びに行ったと思ってるの」
笑いながらそう言うと、司は無言になった。
そして――硬い表情で、私に言った。
「明日、さ」
「ん?」
「うちの親に言おうと思うんだ。……明莉と結婚するって」
「っ……」
不安そうに司は私を見つめる。
その表情はまるで、本当に良いんだよな? と、確認しているかのようで……。
だから、私は――できるだけ明るい声で答えた。
「わかった! ……そうしたら、手土産持って行かなくちゃだね」
「……いいのか?」
「いいよー。司のご両親何が好きかな? ケーキとか……」
「そうじゃなくて!」
私の言葉を遮ると、司は言った。
「もう引き返せなくなるけど……本当に、大丈夫か?」
まるで、私の心の中にある迷いを見透かされているようだった。
――全く迷いがないかと言われれば、正直なところ嘘になる。
でも、それ以上に司の存在に救われていた。
司と一緒にいると、まるで無風の中にいるように心穏やかにいられた。
司が私を大事にしてくれているように、私も司を大事にしたい。
与えてくれているものを返したい。
そう思うようになっていた。
「大丈夫だよ」
「明莉……」
「明日、楽しみにしてるね」
「……おう。また明日な」
司は私を抱きしめると……そのまま帰っていった。
「ごめんね、司……」
司は、私を抱きしめる以上のことを絶対にしない。
それはきっと、まだ私に心の準備ができていないことに気付いているから……。
いつまでもこのままじゃいけない。
明日、司のご両親に挨拶をしたら、そうしたら――。
「待っててね、司」
私はそう呟くと、家の中へと入った。
夜空に輝く北斗七星が、私を見下ろしていることにも気付かずに。
翌朝、準備をしていると、玄関のチャイムが何度も鳴った。
手が離せなかった私は、何度目かのチャイムでようやく玄関の扉を開けることができた。
「はいはーい」
「っ……明莉!!」
扉の向こうには、息を切らせた司が立っていた。
どうしたというのだろうか。司の家に行くのは昼前の予定だったし……。
「司……? どうしたの?」
「おち、おちついて……聞けよ」
「え……?」
肩で息をしながら、司は途切れ途切れに言った。
「北斗が、帰ってきた」
「ほく、と、が……?」
「ただ……」
言いにくそうに、司は続ける。
「一人じゃ、ないんだ」
「え……?」
「婚約者を連れて来てる」
その言葉は、まるで春の嵐のように――私の心の中に、猛烈な風を吹きつけた。
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