第25話 疑惑の海洋庁(七)

 海洋庁について、向井に会おうとすると、十条はすぐに人のあまり来ない場所にある会議室に通された。


 会議室は衝立で二つに区切られていた。片方には不要な備品が、もう片方には余った折りたたみ式の長机とパイプイス六脚置かれていた。


(何かあったな。容疑者と会うのに会議室という選択はない。秘密の取引をするにしては盗聴器を隠せそうな場所がある半物置部屋を使うとは思えない)


 十条の直感が、海洋庁で何かが起きたのを直感した。直感は部屋に橘が一人で入ってきたのを見て確信に変わった。


 橘の顔は上司と喧嘩でもしてきたように、不機嫌だった。

 橘が机を挟んで、十条とネロの向かい合うように座ると、開口一番に言った。


「向井はここにはいない。釈放した」

 ネロが海洋庁の橘に、噛み付かんばかりに大きな声を上げた。


「橘さん。向井を釈放したって、どういうことですか」

 ネロの声に動じず、橘はそれがどうしたと言わんばかりに言い放った。


「釈放したから、釈放したんだ。向井は騙されて荷物を積んでいただけだ」

 ネロの白い眉が怒りで跳ね上がり、声に怒気が篭った。


「こちらに断りもなしに、ですか」

 橘が不機嫌な顔のまま、ぞんざいに答えた。


「連絡なら風紀の一課にした」

 十条は橘の言葉を聞いて、枝言霊で一課の新見補佐の言霊に直に連絡を取った。

新見は十条から見れば上司だが、十条は構わない。


「新見か。十条だ非公式に尋ねる。海洋庁から向井を釈放するという、連絡があったか」


 枝言霊から新見の澄んだ声が聞こえてきた。

「相変わらず、耳が早いんですね。ええ、『釈放する』ではなく、『釈放した』という連絡がありました」


 新見の答えを聞くと、すぐに言霊通信を遮断した。


(パースィマンより先に向井に手を廻したか。海洋庁に手を廻すとなると、ニュイジェルマン程度の小さな企業では無理だな。ニュイジェルマンの親玉か、それとも騒動の黒幕、どちらが動いたのか)


 枝言霊をしまうと、橘に向き合った。

「確かに、釈放していいかということでなく、釈放したという連絡なら入っている」


 十条の言葉を聞いて、ネロが棘のある言い方をした。

「連絡した、とは随分ずさんな言い草ですね」


 十条も向井釈放の件を聞いた時から、不快感を覚えていた。けれども、なまじ隣の相棒が躊わずに怒りを放出するので、腹は立つが、怒る機会を失った。


 十条は強い口調で橘に尋ねた。

「それで、いつ釈放を」


「午前一時十五分だ」

 深夜の釈放。規則上、できない訳でもない。でも、普段は行われない措置だ。


(圧力が掛かったのか、なら話は早い。海洋庁の内部にいる橘なら、誰が動いたか噂ぐらい聞いているだろう。動いた人物がわかれば、どの企業が一枚噛んでいるかわかる。企業がわかれば、資本や提携先を洗えば、背後で動く敵が特定できるかもしれない)


 十条は皮肉を込めて尋ねた。

「海洋庁は随分と早起きなんですね。誰が決定を」


「海洋庁の決定だ」


 おかしい、橘は政治を嫌う男だ。借りを作るのも嫌う。橘なら理不尽な圧力の行使があれば、風紀に噂話を流すくらいの協力はするはずだ。


 十条は答えないだろうと思いつつも、名前を尋ねた。

「では、橘さんは釈放の決定を誰から聞きました」


 橘が何も答えなかったので、十条はハッキリした口調で問い詰めた。

「あんたは、向井を出すのに立ち会ったのか」


「誰が立ち会ったか、答える必要はない」

 十条は橘の答に疑問を持った。


(橘の性格なら、ここまできたら、泥をかぶるはず。なぜ、嘘でも名乗りを上げない)


 上司が権力をもって釈放したのなら、上の関与を仄めかすはず。部下や同僚を一旦庇うと決めたら、橘が責任を引き受けるはず。


(なんだ、いったい海洋庁で何が起きた。橘は何を守り、何を隠している)

 十条が不審に思っていると、ネロが橘に尋ねた。


「他の船員達は」

「彼らも午前九時に釈放した」


 橘の答えに、ネロの声が罪人を咎める声鬼のように大きくなった。

「あんたは海洋庁に勤める人間として、恥ずかしくないのか。俺たちが追っているのは犯罪なんだぞ」


 ネロの熱意の篭った罵声は、海洋庁の仕事に誇りをもって勤めていた橘には、効いたようだった。


 橘の黒い顔に、僅かだが苦悩の色が浮かぶ。だが、橘はネロの責めに甘んじて耐えるように、何も言わなかった。


 聞き出すのはもう無理だな。橘ならこのままネロに一日だって責め続けられても、黙っているだろう。


(もっと、利巧な奴なら、こういう生き方はしない)


 いったい何が起きた。さすがに海洋庁を捜査したり、職員を尋問したりはできない。脇の甘い他の海洋庁職員なら、何か噂を聞きだせるかもしれないが、裏取りが難しい。


(まあ、寵の奴なら海洋庁に知り合いぐらいいるから、何か聞いてこられるかもしれない。海洋庁の内部調査は寵に任せよう)

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