第8話 始まりは地下の暗がりで(八)

 しなやかな四肢を軽く伸ばし、ネロに感想を求めた。

「どうだった、ネロ。風紀の初日は」


 ネロの口調は明らかに不機嫌で、バックミラー越しに見える切れ長な目も、少し吊り上がっていた。


「取り締まる側が犯罪者とグルになっていたら、市民は誰を信用したらいいんですか。俺は信頼に応えたいし。そうして社会を良くしたい」


 少しの間、座席の背もたれに体を深く預けていた。

 正義感や使命感を持つ人間を否定はしない。でも、正義感や使命感の持つ危うさについても知っていた。


(人は欲望から裏切りもするが、正義から生まれる裏切りもある)

 ネロにはネロの信念があるように、十条には十条の信じる道があった。


 ネロの人物を知るために、ネロの言葉を十条は待った。けれども、ネロがそれ以上は何もいわないので、十条から口を開いた。


「ベルタは世界を豊かにした。が、ベルタの発見は、いいことばかりじゃない」

「ダウアリル国の小人族の問題ですか」


 パースィマンの顔を思い出しながら、静かに歴史の講釈をした。


「小人族の住む土地は地中からベルタ物質が豊富に産出した。しかし、生産施設の適正処理量を遙かに超えて生産し続けた。結果は、有害ベルタ物質が大気と土地を汚染し、小人族は三十年前から住む場所を失った」


 月夜に吼え続ける狼のように、ネロの怒りは静かだが、治まらなかった。

「だから、不法入国者を見逃せと。それをいったら、可哀想な犯罪者で社会は溢れ返りますよ」


 ネロの発言は正論だ。犯罪を憎むのもいいだろう。だが、十条はネロの思考は少々リスクを感じた。


(世界は証券会社が売ろうとしている、金融商品のように複雑だ。わからないものに手を出さないのは賢明だし、ネロは触れず今日まで来られたのだろう。だが、今日からは違う、退場にならない限り、ゲームを続けなければならない)


 正面のバックミラーで、ネロの強張った表情を確認しながら話を進めた。

「ダウアリルの事件からだいぶ時が経った。未だに類似の被害が起きるのは、何の根本的な解決策を持たないからだ」


「だからこそ、事件には厳正に対処しないと」

 ネロがコマとして使えるか、見極めようとしていた。


(柔らかければ崩れ、堅ければ壊れる。とはいえ、中途半端は、なお使えない)

 バックミラー越しのネロの真剣な顔を見ながら、ネロという人物を探るために話しを続けた。


「小人族の国を荒廃させ、責任が追及された企業は十二社、内六社は今も存続し、利益を上げている。存続しなかった残り六社の内、一番小さい企業と、二番目の企業は和解金を払わずに破産した。だが、破産企業と取引し、巨額の利益を得ていた親会社は援助金として、その巨利の数%を差し出しただけで、痛くも痒くもない」


 ダウアリル崩壊は十条にとっても他人事ではなかった。十条も企業の工作員として現場にいた。


 十条の外見が二十代後半の理由は、ダウアリルの災害でベルタを大量に浴びたせいだった。ダウアリルで浴びたベルタは染色体のテロメアに影響した。


 十条の染色体は傷によるエラーがなくなり、老化しなくなった。分裂により減り続けるはずの染色体のテロメアも、減らなくなった。十条は不老化していた。不老化したが、不死ではない。いずれ死が訪れる、だがそれまで、戦い続ける覚悟だった。


 ダウアリルの災害は、十条から名前も奪った。十条は昔の記憶が少しだけ欠けており、名前だけが思い出せなかった。


 十条は災害にあった日から名を変えた。十条司の司とは、十条が勤めていたダミー企業の名称。十条はダミー企業の司が十条通りにあったので、十条とした。


 十条司は災害を忘れないため、己が関った事件を忘れないため、付けた名前だった。

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