第23話「聖処女サトゥルヌス、五」

 二階のフロアに上がった啓太は、自分を奮い立たせて一歩一歩進み始めた。



 この笑いの宿という施設は構造上、死角となる曲がり角が多い。そのため、自分達を追っている化け物、元聖処女と言われた老婆と鉢合わせする危険がいつでもあった。



「急に角からこんにちは、は勘弁だぞ」



 窓が少なく、差し込む日光は僅かに通路を照らすだけで、全体的に薄暗い。それどころか開いたままの窓からは、冷え込む風が吹きすさび、啓太の身体を縮こませた。



 啓太は近くの窓から他の窓を伺い、また通り過ぎる各所の部屋を覗き込む。頭に叩き込んだ地図から、ここは宿泊フロアだと思われる。一階と同じところは、第一大講堂の上に位置した第二大講堂だけだった。



 「っ!」



 慎重な足運びをしていた啓太は立ち止まる。何故なら、目前の十字路の左側からミノムシのような髪を垂らした老婆の顔が出現したからだ。



 老婆の顔は啓太のいる方向とは逆側を向いている。距離も離れているため、身を隠すのは今しかない。



 啓太は身体を翻すように扉の開いた部屋に潜り込み、老婆の視線外に避難した。



「見られてない、よな」



 上手く部屋に入れたものの、発見されていないか否かの疑心暗鬼が啓太を蝕む。



 身を潜めて息を殺し、老婆の気配を伺う限り、気づかれて走ってくる様子はない。



 啓太はひとまず安全だと、胸を撫で下ろした。



 しかし、ぺたりぺたりと裸足で地面を踏みしめる音が、こちらに近づいてくる。



 足音はすぐ部屋の前から聞こえる。啓太は咄嗟に口を覆って息を止め、完全に気配を消そうと努力した。



 部屋の扉の隙間から、山姥の長身の人影が地面に投げおろされる。今まさに、部屋の前に山姥がいる。



 ギギッ。ギ。



「――っ!」



 山姥の身体が扉に擦れ、建付けの悪い音が響く。啓太は驚いて叫び声を上げそうになるのを、口を握りつぶして耐えた。



 老婆はそのまま足を止めることなく、階段の方向に去っていく。音の遠ざかり方からして、上か下のどこかへ行ったようだ。



「……心臓潰れるかと思ったよ」



 啓太は軽いジョークで自分を和ませ、震える両脚を叩き起こし、探索を再開した。



 亜子本人と千夜子の叔父のノート探しは、地道に部屋を調べることから始めることにした。



 どの部屋も殺風景な畳の部屋で、小さなロッカーと押し入れがあるだけだ。窓はあるので探索にライトは要らず、調べるのに大した時間はかからなかった。



 二階のフロアの部屋を順に調べていくと、最後に残ったのは第二大講堂と呼ばれる大きな部屋のみとなった。



 啓太が第二大講堂に足を踏み入れると、そこは普通の宿泊部屋の四倍以上の畳があり、三方に窓があるため明るい。



 また、真正面の奥の壁には掛け軸が掛かっており、おそらく教祖の似顔絵らしき顔が満面の笑みで描かれていた。



「下品な笑いだな」



 啓太は一言感想を述べた後、同じように大講堂内を探し始める。まず所見では誰かが隠れるスペースがないことは分かっている。問題は探す価値のあるものがあるかどうかだ。



啓太は畳の上に置かれたテーブルや椅子を調べたり、座布団の間に挟まっている物がないか探ってみる。しかし見つかるのは事前に調査した際と同じ教団の資料ばかりで、目新しいものはない。残すは掛け軸の付近だけとなった。



「掛け軸の裏に秘密の部屋があったりしてな」



 啓太は掛け軸をめくって日焼けしていない壁を触る。けれども壁が動く感触はなく、それが意味のない行動だとすぐに分かった。



「収穫無しか……。うん?」



 啓太が振り返ると、先ほどまで何もなかった畳の上にノートの切れ端が落ちているのを発見した。



 これは、千夜子の叔父のノート、その一部だ。



「変だな。さっきまでなかったのに」



 啓太は不自然さを感じながらも、ノートの切れ端に目を通した。





 先ほどからノートの一部が消えている。人間の神隠しは聞くが、書物の神隠しとはこれまた珍しい。



 あるいは、誰かがこのノートを欲しがっているのかもしれない。時空の狭間とは異質な空間であると共に、人の感情に揺れ動かされやすい。



 時代の怪異のほとんどが、人の憎しみで生成されやすいように、深い悲しみや怒り、強い想いが時空の狭間と言うズレを生み出すと、私は推測している。



 そして使われている物の象徴もまた、増幅される。例えば妖刀ならば、不吉を形にする力が宿り、妖怪さえ呼び寄せたこともあった。



 物の象徴や意味、人間の想い、そして空間に刻まれる惨劇の歴史。どれもが誇張され、形を有している。



 つまりこのノートも時空の狭間の影響で伝えるべき人間に、私の情報を与えるという特異な能力に目覚めたのかもしれない。



 もしこれを拾った人間がいれば、忠告する。これは偶然ではない。



 君に意味のある重要な言伝がここに書かれているのだ。





 啓太はまるで他人に拾われることを予期していたような文章に驚く。千夜子の叔父は、ノートが誰かに言葉を伝えていることに気づいているのだ。



「じゃあ、今までのノートの切れ端も、俺達にヒントを与えるために? もしかして俺達を手伝い、千夜子の叔父が見つかるのを手助けしてくれているのか?」



 まさか、ありえない。ノートが意思を持って言葉を伝えるなど、付喪神の類だ。



 だが、思えば同じようなことがあった。



 前回、ロクロクロを倒すために、ロクロクロの元となった神父のトラウマである馬上鞭を、退治に用いたのだ。普通なら、ただの物に妖怪の類を祓う力などないはずなのに、である。



 これは千夜子の叔父が言う通り、時空の狭間の作用で、馬上鞭にロクロクロを殺す力を与えたのではないだろうか。



「まさか、な」



 啓太は口では馬鹿にしながらも、内心動揺する。考えてみれば他にも心当たりがある。



 時空の狭間によって強調されたのは、何も物だけではないのだ。



「生贄返しの力も影響を受けているとか、ないよな?」



 生贄返し、師匠から啓太に与えられた不可思議な、儀式を喰らう能力。元々は人に与えられ、今は自分に内包されている異能、それすらも時空の狭間の影響下にある。



 啓太は、恐ろしくなって身震いした。これ以上、生贄返しを強調されたら何が起きるか分からないのだ。



 もしかしたら、力が強すぎて能力を制御できない。そんなことが起きるかもしれないのだ。



「使う時と場所は選ばないとな」



 啓太はノートの切れ端を丁寧に折りたたみ、自分のポケットに入れる。



 そして、足早に第二大講堂を後にしたのだ。



「次は、千夜子を探すか」



 啓太は引き続き亜子を探すか迷ったものの、先に誰か一人でも合流すべきだと判断した。



 少なくとも、このまま一人で散策するのは危険が伴う。安全を確保するならば、一人より二人、二人より三人だ。



 啓太は階段に戻り、上と下の踊り場を伺う。



 そこに人の気配はなく、静かだ。耳を澄ましても誰かの足音や話し声は聞こえてこない。



「見えない人間の笑い声……なんてしないか」



 啓太は独りで廃墟を訪れた際のホラーを思い浮かべるが、御約束の現象は起こっていない。少し期待外れだと思いつつも、それはそれでいいかと考え直した。



 啓太は迷わず一階への階段を下りる。千夜子なら迂闊に大胆な行動は……、するかもしれない。けれども、一人なら無茶はしないだろう。



 それならば、逃げた先からあまり動かないはずだ。



 啓太が一階のフロアに入り、正面玄関前の十字路を通ろうとした時だった。



「うおっ!」



「うわっす!」



 啓太は角で誰かの身体を受け止める。



 飛び出してきた謎の人物の正体は、亜子だった。



「迂闊じゃないか。まだあの山姥がここら辺をうろついているんだぞ」



「へへへ。でも啓太さんと合流できたっす」



 亜子の安心しきった顔は、啓太の緊張の糸をぷつりと切るほどに、だらしないものだった。



「チョコ先輩も一緒にいるっすよ」



 亜子が自分の後ろを指さすと、そこには千夜子もいた。



「無事なようで良かったわ。二人とも私抜きでは本当に心配なんだから、今度から私に離れないようにしなさい」



「そう言いつつ、独りの時は心細そうにしていたじゃないっすか。出会った時は抱きついてくれたのに、ひどいっすよ!」



「……馬鹿。それは言わないの!」



 三人は合流し、まずはそれぞれの情報交換を始めることにした。



「こちらは二階の第二大講堂でノートの切れ端を見つけたんだ」



「あら、偶然ね。こちらも第一大講堂でノートの切れ端を見つけたわ。それにしても、あそこは変な掛け軸だけじゃなく、天井に届きそうなほど巨大な太鼓があったわよ。資料にあったとおりね」



 啓太は頭の中で笑いの法の情報を引き出すと、確かに笑いの宿名物の巨人太鼓と言われる赤い太鼓の写真があったことを思い出す。



 啓太は今寄る暇はないが、一度くらい巨人太鼓とやらを生で見てみたいと、思った。



 しかし、今は優先すべきことがある。



「どこか落ち着ける場所を探そう。こんな場所で山姥に見つかったら大変だ」



「ええ、そうね。でもこのフロアにいないから、階段さえ注意すれば――」



 千夜子がそう言いだそうとした時、千夜子と亜子の顔が氷のように硬直する。



 二人の目は、啓太の後方である窓の上を見たまま、固定されていた。



「おいおい、まさか外に山姥がいるなんてやめてくれよ」



 啓太が笑いながら後ろを振り向くと、そこには日を遮る巨大な影があった。



 上を見れば、今まさに巨体な何かが降ってくる最中だった。

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