第22話「聖処女サトゥルヌス、四」



 目の前に現れた男の顔が、窓から照らされた日光によってその姿を現した。



 年齢は二十代くらいだろうか、その男は身体中に擦り傷があり、力ない格好は疲労していることを表していた。



「この人がチョコ先輩の叔父さんっすか?」



「いや、どう見ても違うだろ」



 千夜子の年齢から考えれば叔父、つまり父親か母親の兄弟なのだから、年齢は親に近いはずだ。ならば、その歳は四十代くらいと想定される。



 なのに目の前の男は明らかに千夜子と年齢が近い。それに千夜子本人も男の顔を見て、明らかに残念そうにしている。



 啓太達が勝手に期待外れと落胆していると、見知らぬ男の方から話しかけてきた。



「ひ、人か? 助かった。救助が来たんだな」



「救助? なんのことだか分からないのだけど」



 千夜子がそう素っ気なく返答すると、見知らぬ男は肩をがくりと落とした。



「救助じゃないのか……。じゃあ、ここでの惨劇は外に伝わっていないのか?」



「惨劇? 一体、あなたは何を言っているの?」



「聞いてくれ、ここには化け物がいる。俺達五人組もそいつに殺されて、もう俺一人だけだ。救助を呼びに行った奴もいるけど、そいつもたぶん死んでる。早く、ここをでないと」



「ん? 出口ならすぐそこじゃない」



「出られないんだ! 少なくとも正面入り口からは見えない壁みたいなのが邪魔をして。信じてもらえないかもしれないけど、出る方法がないんだ!」



 啓太達三人は背筋が寒くなるのを感じた。出られない不思議な空間、普通の方法では逃れられない。そんな特異な環境を、啓太達は知っているのだ。



「時空の狭間ってのは、物理的に逃げられないのか?」



「ええ。時空の狭間は基本的にクローズドサークル。時代の怪異が発生した地域、空間に固定されていて、物理的に距離はおけないわ。特に、こんな広くない場所でわね」



「もう入っているのかよ。今回は場所も時間も変わらないから全く分からなかったな。こんなシームレスに時空の狭間に入ることもあるのかよ」



「きっと、叔父のノートの切れ端がキッカケよ。叔父もここで時空の狭間に巻き込まれた。だから、私達も巻き込まれた人物の持ち物で時空の狭間に引きずり込まれた。そういうワケよ」



 啓太と千夜子の会話の内容を理解できない見知らぬ男は、当然のように困惑していた。



「な、何だよ。時空の狭間って」



「あー……。説明を省くけど、時空の狭間ってのはあなたがここから出られない原因よ。出るには時空のおっさんって言う特殊なおじさんに会うか、もしくは時代の怪異という特殊な現象や存在を――」



 千夜子がそこまで言って、言葉を止める。そして目線がぐんぐんと遥か頭上に上がり、それを見た。



「う、後ろ」



「はっ? 後ろって」



 見知らぬ男が後ろを振り向く。



 そこには見上げるほどの老婆がいた。巨大としか表現できない、老木のように背の高い存在だった。



 老婆は柳のように垂れた白い髪に、床にまで届きそうな枯れ枝の腕を持ち。胸は薄く、妖怪の餓鬼のように腹が膨らんでいた。



「あっ」



 見知らぬ男が叫びを上げる間もなく、蜘蛛の節足のように細長い指が、見知らぬ男の身体を束縛した。



「い、嫌だ。化け物になんか喰われたくな」



 見知らぬ男がそう言い終わる前に、老婆の下顎が外れて暗い洞窟の穴のような口が開く。



 口は見知らぬ男の頭をすっぽりと覆い、見知らぬ男から空気を奪って、悲痛な言葉を遮った。



 老婆はどこからその膂力が出るのか、見知らぬ男の身体を軽々と持ち上げ。一升瓶を一気飲みするように、見知らぬ男の身体が老婆の口から喉へ、喉から腹へと飲み込まれていく。



 そんな人間の踊り食いを見て、啓太達三人は老婆ほどでないにしろ、口をぽっかりと開けて呆然としていた。



 老婆が見知らぬ男の頭から足先まで飲み込み終え、うっとりとした満足感を感じた顔をしている。そして老婆は、次の獲物である啓太達三人を見下ろした。



 そんな怪しい顔を見て、啓太達三人は自分達の危険をやっと察知したのだ。



「に、逃げろ!」



 啓太達三人は、同時に来た道を遡る。三人の逃げる速度は、以前のロクロクロの時の比ではない。全力疾走。その言葉が似あうほどの疾走だ。



「やばいって。やばいって! 人間を丸呑みとか、今までの時代の怪異よりも抜群に危険度マックスだろ!」



「私だって人間を呑み込む奴なんて見たことないわよ。少なくとも、あんな死に方、私は嫌よ!」



 啓太と千夜子はまだ気をしっかり持っているが、亜子など半狂乱だ。



「怖い怖い怖い怖いっす! 顔が怖い、見た目が怖い、捕食も怖いっす! 助けてくれっす!」



「落ち着け、亜子! ちゃんと前を見ろ」



 啓太達は一目散に逃げ、玄関手前の十字路に差し掛かった。



 啓太は当然のように真っすぐ、施設の入り口を目指して一直線に進んだ。



 だが、他の二人は行き先が異なった。



「こっちよ!」



「あああああ! 怖いっす!」



 千夜子は右へ、亜子は左へと曲がる。



 そちらに入り口はない。



「ばっ、逃げる先が違うだろ!」



 啓太はそれでも足を緩めず、正面玄関から出て、開きっぱなしの外門の間を駆け抜けようとした。



「――がっ」



 しかしその瞬間、啓太は柔らかいゴムのような感触に襲われて、後ろに転倒する。



「く、くそっ。何だよこれは。見えない壁か!?」



 啓太は起き上がり、街路に続く場所へ手を差し伸べ、壁のようなものに阻まれて進むことができないのを確認した。



 これでは、外に逃げ出すことができない。



「い、行き止まりかよ」



 啓太は逃げ場所がないのを覚悟して、おそるおそる後ろを振り返った。後ろには当然、自分を追いかけてくる老婆がいる。そう思っての行動だった。



 けれども、そこには誰もいない。千夜子や亜子もいないし、老婆もいない。



 啓太は安堵すると共に、自分が孤立していることに気付き、身震いをした。





 啓太が正面玄関の中に戻ると、そこには誰もいなかった。



 時空の狭間に入ったせいか、足元にほこりはなく、千夜子と亜子がどのルートを選択したかが分からない。



「ともかく左右別れたのは間違いない。問題はどちらから探すか、か」



 啓太は考える。千夜子の方は熟練の時空の狭間探索者なので安心だろう。問題は経験不足の亜子の方だ。それに亜子は、今も恐慌状態に陥っているかもしれない。



 啓太は考えを纏めると、亜子を追うべく同じ方向に曲がった。



 曲がった先には、すぐ階段があった。



「上に行ったか、下に行ったか。いや、これは」



 啓太が地下に続く階下を見下ろすと、そこは光の行き届かない黒いシミが溢れている。



 この闇は、どうも懐中電灯がなければ歩くこともままならない。したがって、亜子が下の階に行った可能性はゼロだ。



 啓太が上の階に進むと、階段の脇に何かを発見した。



「これは、千夜子の叔父のノートか」



 正確には、ノートの切れ端の紙。それが階段の隅にひっそりと置かれていた。



 啓太はひょいっと紙を拾い上げると、中身に目を通した。



「……生まれ変わりを産んだ聖処女についてか。何々、あの聖処女はある未練から時代の怪異になった、だと!?」



 千夜子の叔父のノートには最初、そう書かれていた。



 詳しく読み解くと、その理由があらわとなる。あの老婆は聖処女、つまり死んだ教祖の娘であるという指摘だ。



 あの老婆は奇妙な外観をしていた。特にその中でも目立つのは、腹の膨らみ具合だ。



「あの腹はおそらく、妊娠の結果だと思われる。ただし老婆が聖処女だとするなら、未練は死亡の際に発生したと思われる。ただ、そうなると矛盾が生じる。


 聖処女は出産して亡くなった、つまり時代の怪異として出現する場合、既に妊娠の身体ではないはずだ。では、何故腹が膨れているのか」



 千夜子の叔父によれば老婆の身体は想像妊娠にあると、仮説している。



 想像妊娠、つまり実際は妊娠していないのに妊娠と同じ症状の出る状態のことを表す。想像妊娠自体は通常の女性にもあり得る話で、原因としては強い妊娠願望か妊娠に対するひどい恐怖心のどちらかである。



 千夜子の叔父は、老婆のケースでは前者の欲求が原因としている。



 理由は老婆の行動にある。老婆は時空の狭間に入った行方不明者たちを捕食しようとしている。これは飢餓が動機ではなく、産みなおしの願望が働いていると思われる。



 産みなおし、言うなれば胎内回帰願望の受け手側である受胎回帰願望だ。老婆である聖処女は、自分の子供を正しく産めなかったと誤解しており。そのため、食人によって我が子を胎に戻し、産みなおしを行おうとしている。



 他人の目から見れば変な理屈だが、老婆は自分の子供と別の誰かを判別できていない。だからこそ、誰であろうと構わずに胎に戻そうとしているのだ。



 この時代の怪異である、老婆は成仏させる方法はある。それは――。



「それは、何だよ」



 啓太が次のページをめくろうとするものの、それはない。紙の裏は白紙で、文章が途中で切れているのだ。



「か、肝心なところを。わざとやってるのと違うのか……」



 啓太は気を落としながらも、次の目標が決まった。亜子を探して合流し、同時に千夜子の叔父のノートも見つけて、老婆を倒す方法を知ることだ。



 啓太はそうと決まったら行動が早い。気を取り直し、まずは亜子の捜索をするために、上のフロアを目指すのであった。

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