第21話「聖処女サトゥルヌス、三」
啓太にとって悪夢のような一夜が過ぎ、三人は笑いの法の施設に向かっていた。
笑いの法の施設、名前を笑いの宿というそれはX市の北の外れにある。それでも人の住む市街に位置しており、近隣では色々と噂が絶えないそうだ。
施設から奇妙な念仏が聞こえる。たまに悲鳴に似た声が響く。実は施設で内々に人殺しが行われている。侵入した者は二度と帰ってこない。などなど、正誤の判別がつかない話は山ほどあった。
「元々秘密主義なせいで、余計に周囲の人々の妄想が膨らんでいるのでしょうね。ただ火のない所に煙は立たない。どれかは本当かもしれないわ」
昨夜暴れまわった千夜子は、特に尾を引いている様子もなく、飄々としている。
一方、啓太はと言うと。
「……昨日のことは夢か幻だ。あんなの、あんなの俺じゃない」
「何をぐだぐだ言ってるの。夜は夜で十分楽しんだじゃない。それとも、漏らしたことを悔やんでいるのかしら?」
「漏らしてない! 未遂だ。未遂。第一、千夜子もやりすぎたと思わないのか? 女性が自分の素肌を男性に見られるなんて、恥ずかしいことじゃないのか!?」
「あら、啓太に似合わず奥ゆかしいこと言うわね。残念。私はそういう趣ある形式的な伝統は嫌いなの。それに仲の良い相手なら、少しぐらい肌を晒したって大丈夫よ。啓太が家の中では家族にトランクス姿を見せているようなものよ」
「見せてない! 俺はそこまで節操ない男じゃないぞ! それに亜子だって千夜子が常識はずれな人間だと思うだろう?」
話を振られた亜子は、少しギョッとする。返答を考えていなかったらしい。
「わ、私はチョコ先輩の自由奔放な姿を尊重するっす。啓太さんもどうせ、心の中ではラッキースケベだと思ってるんじゃないっすか? ハレンチっす」
「おいおい、どうして二人の中の俺は評価点が低いんだ……。俺は無実だって言ってるだろ!」
ギャーギャーと言い合っている内に、いつのまにか三人は笑いの宿の正面にたどり着いていた。
笑いの宿は飾り気のない白い壁をした五階建ての建物だった。
ただ日月を経たシリコン壁は灰色の汚れが付着し、みすぼらしい。所々壁のひび割れも発生していて、しばらく誰も管理していないことを示していた。
「中に入るわよ」
今更不法侵入で怯えることもなく、三人は錠前の付いていない外門の扉を開けて入る。
近くで見る笑いの宿は風通しのいい窓ばかりで、中も風雨に晒されていることが伺える。一階の窓から覗ける室内は剥げてしまったフローリングや破けて綿の露出したソファーなど、廃墟感満載な装飾ばかりだ。
建物の正面玄関は、これまた鍵が掛かっておらず。三人は易々と笑いの宿に侵入した。
「あら? 結構来客が多いわね」
千夜子が身を低くして見る床には、ほこりの積雪を踏みしめた誰かしらの足跡が付いている。どうやらロックがないのは、ずぼらな管理のせいだけではないらしい。
「ここを根城にしているヤクザと鉢合わせ、ってことだけは勘弁しろよ」
「大丈夫よ。こちらには武器がある。向こうだって怪我までして人さらいなんてしないでしょう」
千夜子は啓太のバックからクロスボウを取り出し、組み立て始める。同じように亜子も、肩に斜め掛けしたカバンからパチンコと鉄球を取り出す。
啓太もバットをケースから出し、三人は戦闘準備を完了した。
玄関を上がり、廊下に進むと、そこは逆T字の分かれ道になっていた。
「どうやら一階は<中>の字のような構造のようね。真正面の奥は大講堂らしいわ」
千夜子は近くの壁にあった館内地図を見て、そう言った。
「じゃあ、どうする。一人で探索するわけにはいかないし。三人で総当たりするか?」
「ここ、地下一階もあるそうね。でも仕方ないわ。順々に探していくわよ」
千夜子は最初に大講堂に向かおうと、通路を真っすぐに進む。両側に広がる中庭は草が伸び放題だ。かつて彩を与えていた花壇は雑草が生え放題。憩いのベンチも雨で腐り、崩れ落ちてしまっている。
そんな興隆を感じさせる中庭を横に進んでいくと、床の上に最近の落とし物を見つけた。
「これは、ノートの切れ端かしら」
千夜子が拾い上げると、それは罫線の引かれた一枚の紙だった。破けた箇所から、千夜子が言う通りノートの切れ端で間違いなさそうだ。
罫線の上にはミミズのような文字が書かれており、最初は文字ではなく何かしらのシンボルかと思った。
「この特徴的な筆跡……、叔父のものよ!」
「千夜子の叔父さんのか。どうやら当たりを引いたようだな。やったな」
「待って待って、期待するのは早いわ。解読、早く解読しましょう」
千夜子は一年も前から待っていた叔父の手掛かりに舞い上がり、不思議な震えに襲われている。よほど待ち望んでいたのだろう。その両目は星空のように輝き、紙に穴が開かんばかりの注視を送っている。
「叔父の文字は癖が強すぎるのよね。ええっと、読むわよ」
千夜子は覚悟を決めたように、叔父の言葉を読み上げていった。
私が今のところ調べた施設の資料から、聖処女と赤ん坊について幾つか分かった。
ここの教祖の娘である聖処女は、子を身ごもって一ヶ月もしない内に出産を果たし。その結果、母体は急激な胎児の成長に耐えられず、出産の際に亡くなってしまったらしい。
また、医療の知識の無い教団員達のみで出産の看護をしたのも原因だろう。
結局、教祖は施設に警察の手が入ることを恐れ、施設内で死体を処分。市役所に死亡届を出すこともなく、教団員の口止めも行った。
ただ聖処女の赤ん坊は無事に産まれ、成長し。わずか十日で三歳児ほどになり。教祖は赤ん坊が紛れもなく救世主であることを確信した。
三十三日目には釈迦や仏に備わるという六神通を用い、自在に身を現す神速通、遠くの音を聞く天耳通、聖処女と同じ心を読めるという他心通を発揮する。
ただし残りの三つ、自分の前世を知る宿命通、全ての人の前世を知る天眼通、煩悩を失くす漏尽通。この三つが表れる気配はなかった。
それでも教祖は笑いの法の宣伝には十分と思い、数日にはお披露目を行うつもりだったそうだ。
だが、外の資料にもある通り。それは実現しなかった。
教団員の日記によれば、生まれ変わりの釈迦は、お披露目の日までに三人の教団員を殺害していたらしい。
殺害の理由は、瞑想中に話しかける。瞑想中に食事を運ぶ。瞑想中に大きな音を立てる。どれも瞑想中の出来事であった。
そもそも、生まれ変わりの釈迦は一日二十時間の瞑想。酷ければ三日続けて瞑想を続けていることもあったらしい。
そして怒らせたら最後、生まれ変わりの釈迦は非常に気が荒くなり、原因となった教団員が肉ダルマになるまで暴行を繰り返した、と書かれている。
私の推測では、この生まれ変わりは本当の意味で釈迦にはなっていない。所謂、釈迦の能力を一部有しただけの釈迦未満の男。偽物の釈迦だと考えている。
だから、本当は悟りを開いて心穏やかであるはずの自分を制御できず。瞑想を行って悟りの境地に至ろうと苦心し、悟りを開いていないからこそ調和を保てず激怒してしまうのだ、
何のことはない。この釈迦はまだ、超能力を持った凡人なのだ。
けれども釈迦の生まれ変わりが消えて三十年、もし生きていれば本当の釈迦になっているかもしれない。そう考えれば、私の、妻の復活も可能かもしれない。
何故ならば、新たな境地に至った生まれ変わりは、新たなる能力、それこそ復活の力に目覚めているかもしれない。何せ、自分が生まれ変わったのだ。それくらい、容易いことのはずだ。
心配なことと言えば、釈迦には子供を亡くした親に対して、一度も死人を出していない家からケシの実を持ってくるように言い、無理難題で親を諭したという逸話がある。
この生まれ変わりも同じことを話したら、どうするべきだろうか。
だったら何だ。今回も失敗したならば、また新しい時代の怪異を見つけて挑戦すればいい。
妻を生き返らせるなら、このくらいの困難、幾たびも乗り越えてみせる。
「千夜子の叔父さんは、まだ自分の妻の事が心残りのようだな」
「……そのようね」
千夜子から少し悲しそうな、落ち込んだような表情が垣間見える。それはきっと、叔父の心がまだ死んだ妻に向いているからだろう。
「それにしたってよ。どうしてノートの切れ端が落ちているんだ?」
啓太は話題を変えるように、一つの疑問を口にした。
「叔父は元々フィールドワークの内容を文字に起こしていたわ。ただ、切れ端だけが落ちているなんて変ね。書置きなのかしら」
「誰に宛てての書置きだ? 書置きにしたって考察だけだし。誰かに伝える内容には見えないぞ。どちらかと言えば、叔父さんに何かあったようにしか――」
啓太の不用意な発言に、千夜子のいつも垂れている眼が吊り上がった。
「馬鹿言わないでよ! 叔父が不覚を取るなんてあるわけないじゃない! これには意味があるはずよ。啓太の浅い見識で結論なんて出さないで!」
「お、おう。すまない。俺はただ心配しただけだよ。そこまで怒るなよ」
啓太が謝罪しても、千夜子は頬を膨らませて怒ったままだ。よほど気を悪くしたらしい。
代わりに、亜子が一つの仮説を提示した。
「私が思うに、これはお菓子の家のやり方っす」
「お菓子の家……、つまりヘンゼルとグレーテル?」
「そうっす。チョコ先輩の叔父さんはもしものために自分がいた証拠を残して、追ってきた人を誘導しているっす」
「物語では帰り道が分かるように色々と落としていったわね。案外、その可能性もありそうね」
千夜子は亜子の予想に頷いた。
「他にもノートの切れ端があるかもしれないわ。探し――」
千夜子がそこまで言おうとした時、その視線が正面に縫い付けられる。
啓太も亜子も、千夜子の異変に気付き、視線を追って同じ方向を見た。
視線が向かった先には、とぼとぼとこちらへ歩いてくる男性の姿が確認できた。
「……叔父さん?」
千夜子が期待を込めるように、そう話しかけた。
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