156カオス 混沌のメタファー

 最近、小説の書き方についてかけていないので、今回は小説の書き方について気づいたことを書きますね。個人的な思い込みから書きますので、少しピントがずれているかもしれませんが、そこはご容赦。


 何度も書いていますが、わたし、自分の書く小説のことがとても気に入っています。おもしろい! と親バカな目線で自作を読むヘンな人です。


 でも、不満がないわけではありません。むしろ、不満だらけといってもいい。


 大きな不満のひとつは、比喩表現が稚拙なこと。比喩については、以前書いたと思うのですがもう一度(笑)


 乱暴にいうと、比喩表現には、「直喩」と「暗喩」の二種類の表現方法があります。


 直喩というのは、「◯◯のような⬜︎⬜︎」という形を持った表現で、たとえば「大理石のような肌」というようなやつ。

 これは「肌」を「大理石」にたとえることで、その白くて滑らかな様子を表現した修辞技法です。ごく一般的に使われていて、比喩としては単純な部類ですね。


 それに対して「暗喩」(「隠喩」「メタファー」)は、直喩が用いる「ような(ように)」という言葉を使わない比喩表現です。

 先の「肌」でやってみると、「玉の肌」というような表現。「玉(たま)」は、中国で珍重される石・玉(ぎょく)のことで、磨くと滑らかな光沢発する非常に美しい宝石です。玉と美しい肌をかけた表現ですが、「ような」は使われないですね。


 ただ、これは暗喩としては入り口。暗喩の深いところは、「肌」の美しさを表現するのに、「肌」という言葉を取り去って、別の言葉にそれを置き換えるって荒技を使いはじめるところにあります。

 あるときは肌を、美しい布として描いたり、またあるときは、甘いお菓子として描いたり、はたまた、優しく吹く風として描いたり……。描き方は千差万別で、書き手の想像力と感性によってどうにでもなります。でも、これが難しい。


 よく、メタファーという言葉を聞くことがありますが、それが指しているのはさいごの難しい暗喩のことだといって、だいたい間違いないです。


 なんで、暗喩(メタファー)について、こんなに書くのかって? それは暗喩が利いている文章は、カッコいいんですワ(笑)文学的にみえる(それについては一言も二言も文句がありますけど)。


 言ってしまうと、一部の文学ってメタファーのショーなのです。書き手と、読み手が小説にちりばめられたメタファーをお互いに読み解きあうゲームをしてる。それが文学するってことの、大きな意味のひとつです。


 分からない文学っていうのは、おおむねメタファーで描かれてるから分からない。対象を直接描いていないから、行間を読むとか、裏読みするとか、凝った読み方をしないと作者の意図を掴むことができないんですね。小説を読み慣れていない人には、苦痛でしかない作業なんですよ、これ。


 なんでそんなめんどくさいことするのか?


 それは、ずばりメタファーを読み解けたときってものすごい快感があるんです。ゲームをクリアしたときの達成感に似てるかもしれない(ゲームしない人ごめんなさい)。


 ――やった! みつけた!


 満足感、達成感、優越感……。ほかに理解できる人のないだろう、この文章の意味をおれだけが本当に理解している! なんなら作者よりもむしろおれが! などという全部込みの快感です。


 結局は、オタク的心性の小説版みたいなものなんですが、そういった癖のある人が純文学というジャンル小説を支えている――ようにわたしにはみえるんですね〜。


 あ、メタファーだけで、書きすぎた……。わたし難しすぎてメタファー書けないんですよ(笑)それが言いたかっただけなんですけど、書きすぎた。続きはまた今度。では。

 

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