121カオス ファンタジーとはなにか

 上橋菜穂子さんの『鹿の王』を読んでいます。まだ半分も読んでいないので、感想は書きませんが、読みやすいですねー。するするとお話が頭に入ってきます。やはり、小説はエンタメがいい。


『鹿の王』は何年も前から読んでみようか、やっぱりやめようかと悩み続けてきた小説でしたが、やっと踏ん切りがついて読みはじめたというところです。なかなかおもしろいですね。


 さて、上橋菜穂子さんは『精霊の守り人』で日本のファンタジー小説の世界にひとつのエポックを記した人ですが、このファンタジーという小説のジャンル、40年前には影も形もなかったものが、『鹿の王』で本屋大賞を受賞するまでに読書好きのあいだに浸透しました。

 

 なぜ、こんなにファンタジーが読まれるようになったのでしょうか。ちょっと考えてました。


 コンピュータゲーム『ドラゴンクエスト』のせいです。もっといえば、ドラクエの元ネタである『ウィザードリィ』や『ウルティマ』、はたまたそれらの元ネタとなったRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のせいです。


 とにかく80年代後半、爆発的に流行した(わたしも夢中で遊びまくった)コンピュータRPGが、その舞台を中世ヨーロッパに似たファンタジー世界に選んだことが決定的でした。この時期に、小説の出版社が「ファンタジーは売れるのではないか?」と考えはじめ、ライトノベル(当時はそういう言葉はありませんでしたが)レーベルで、ファンタジー小説を出版しはじめました。『ロードス島戦記』や『フォーチュンクエスト』といった小説です。


 あ、ゲームとは別の流れからくるファンタジー小説もあります。『宇宙の皇子』、『アルスラーン戦記』、『吸血鬼ハンターD』といった小説が80年代にヒットしました。


 鍵は80年代です。

 なぜファンタジーブームが、80年代に押し寄せてきたのか? そのさなかに十代の多感な時期を過ごしたわたしにいわせるなら、それは「現実世界に対する失望」があったからですよ(苦笑)


 ローマクラブによる『成長の限界』が発表されたのは、1972年で、わたしたちはなんとなくそういう空気――文明の発展には限界がある。石油文明はいずれ行き詰まる――の中で成長しました。

 一方、政治や経済といったものが、一般大衆であるわたしたちからどんどん離れていって、手の届かないものになっていく認識も育っていきます。


 60年代から70年代には盛んだった社会運動が、経済至上主義の前に下火になっていった(経済的豊かさと引き換えに、大衆が国家との戦いを放棄した)ことも、「わたしたちが、なにかを変えることなんてできないんだ」という諦観を助長したこともあるでしょう。


 そうしたときに、現実世界を舞台にした小説というのは、精神的敗者である人たちにとっては眩しすぎた、正視して読めなかったということです。だから、まったく架空の世界とそこの住人に感情移入して読めるファンタジーに飛びついた、それが80年代のファンタジーブームであり、そういう意味でいうとファンタジー小説は逃避の文学なのです。


 わたしもめっちゃ逃避してきました(笑) 浮世の憂さを晴らすために、いくつファンタジーを読んだか数がしれません。


 逃避の文学って、負け犬の文学みたいでいやですが、わたしとしては妙にしっくりくるんですよ。逃げていても好きです。「いわゆるファンタジー」が芥川賞や直木賞からまるで相手にされないのも、「いわゆる文壇」がその負け犬根性を嫌っているところにあるのかもしれない――と考えるのは、考えすぎなのでしょうか?

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