80カオス 価値観の違う読者

 気持ちのいい季節になりました。陽の光は力強く、木々の緑は鮮やかで空気もおいしい――ような気がします。が、休み明けの通勤バスに乗り合わせた人は皆マスクしてるんですよね。バスの外の新緑の季節の清々しさと、バスの中のどんよりした雰囲気のギャップが異様な朝でした。いつまでこんなことさせるねんコロナさんよ。


 我が家では、奥さんがコロナ騒動に神経を尖らせているます。主婦で家から出ない奥さんと、小学校が休みになっている息子、それから私の三人家族ですが、出勤のために私だけが外出します。私が仕事をしている間、奥さんは自宅でニュースやワイドショー(死語か?)を通してコロナ関連の情報を浴びるように摂取しているらしく、帰宅するとやれ手を洗えだ、服を脱げだ、部屋に入る前に風呂に入れだ人をバイキン扱いします。


 ――アホか。おれはバイキンやないぞ。


 私は日中仕事をしていることもあって、コロナ情報には比較的うとく、正直、我が身のこととしてのコロナには危機感があまりありません。逆に毎日、コロナ情報を全身に浴びている奥さんはその点に関して敏感で、切実ともいえるくらい危機感を持っているようなのです。


 こういうところからくる、夫婦間の気持ちのすれ違いというものが全国いたるところの家庭で頻発していることと思いますが、今回書こうと思ってることから脱線してしまったなあ……。


 私が書きたいのは夫婦のすれ違いではない。


 小説の嗜好のすれ違いについてです。友人同士の間でおもしろく読めた本の貸し借りをして、後日「どうだった」と聞いたら友人がどうも微妙な表情で「まあね」と言った――おもしろくなかったんだ! なんて体験は本好きなら必ず一度や二度あったはずですよね。


 たとえば、うちの奥さんは、私の読む本はたいがいおもしろくないといいます。私と奥さんの本の嗜好は違うようなのです。どういうことがというと、小説でも、映画でも彼女は「この先こう展開するんじゃないか」と推理しながら鑑賞し、自分の推理どおりなら「おもしろくない」、予想外の結末が待っていれば「おもしろかった」と判断するのです。物語展開の新奇性に重きを置く読み方ですね。


 私は同じようなテーマや同じような構造をもった物語も、その書き手によって小説のおもしろさは変わってくると信じているので、意外性とか新奇性にはあまりこだわらない読み方をします。だいたいSFやファンタジー、時代小説なんていうのは、よくも悪くもテンプレありきのジャンル小説ですから、「似たようなのは読んだ」「先が読める」ということで小説を否定してしまえば、ジャンルそのものが壊滅しかねません。


 ただ自分と価値観の違う読み手の感想っていうのは大事にしないといけないなと思ってます。読み手同士としてなら「わかってないやつだな」と心の中で軽蔑してもなんら問題ありませんが、いったん書き手の立場となったときには、そう切り捨てるわけにはいかないでしょう。


 なんせ、より広い読者層に訴える小説を書くには自分の読書傾向とか書くものの癖を把握しておいた方がいいですからね。自分の読み方が絶対――と思うのは書き手の勝手ですが、読者が作者の嗜好に合わせなければならない義理はないですから。


 案の定というべきか、奥さんに私が書いた小説を見せても反応はいまひとつ(いまふたつ?)。よくわからないらしいです。といいますから、私もまずうちの奥さんから籠絡すべくがんばってみようかな……。

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