66カオス 知ることの憂鬱

 新型コロナウイルスによる感染症が世界中に蔓延しています。今年はじめの段階で「中国で新しいウイルスによる感染症が発症しているらしい」というニュースを聞いたときは「またか。……衛生状態の悪そうな中国なら無理もないだろう」程度にしか思っていませんでしたが、その後三ヶ月あまりで感染症は世界中に広がり、感染者は100万人、死者も5万人を超えたとか。


 このひと月ほどの間に、感染者は爆発的に増加していて、この後も事態はまだまだ拡大し、死者も増加していきそうです。政府は非常事態宣言をするとかしないとか、都市封鎖なのか自粛要請なのか、テレビ、新聞、インターネットからママ友同士のグループLINEまで、世間は“コロナパニック”のさなかにあるといっていいでしょう。


 このパニックに、私はテレビやスマホ越しに接しているのですが、「知ることは、必ずしも人を幸福するものではない」とつくづく思います。


 この国総理大臣やWHOの事務局長がインターネットで袋叩きにあったり、逆に北海道や大阪の知事が持ち上げらたりしていますが、これは、いずれも彼らの発言が、ネットを介して瞬時に私たちの知るところとなることに原因があるように感じます。


 すぐ、知ってしまうから。


 首相の安倍さんや、WHOのテドロスさんのやり方が良いのか、悪いのか、それはこのパニックが収まった後でないと、実際のところは分からない。

 市民感情に合致していないので叩かれているだけで、医学、衛生学、社会学的には正しいのかもしれない。すべては手探りの状態なのです。


 いまのネットメディアは、そうした政府や国際機関が手探りで格闘している状況まで、リアルタイムであからさまにしてしまう。それって、人々の不安な気持ちを煽る結果にしかならないんじゃないでしょうか。大衆が、国の指導者や責任ある人たちの右往左往する様子を知るってそういうことです。


 スマホとSNSが一般化したこの時代には、これまで私たちが知りようもなかった事柄が次々と(望まないのに、勝手に)携帯端末に入ってきます。新しいニュースは、怒りや不安が添付されて拡散され、それを別の人が引用して、不安を込めたメッセージとともにまた拡散する。キリがありません。


 以前なら、外国で何万人人が亡くなろうが、こんなに切実に不安や恐怖を感じることはありませんでした。それは、よくも悪くも、私たちがです。私たちが知りさえしなければ、いま世界中を覆っているコロナパニックなどというものは、起こりようがなかったと思いませんか。いま起こっていることは人知を超えた出来事で、なんでも知ることができるというのは、ある意味、神の領域に属することなのではないでしょうか。


 私たちのテクノロジーは、私たちの情報収集能力を神の領域にまで引き上げてくれましたが、私たちの情報処理能力はまだ神さまのようには発達していないのだと思います。


 ツイッターのアカウントを持っていますか? 私は持っているのですが、SNS上のコロナパニックの惨状はひどいものです。政府に、中国に、外国人に、感染者に、他府県の人に……際限なく、至る所に、誰彼構わず、悪意が投げつけられていて、げんなりします。


 知ってしまうことの憂鬱が、いまほどひどい時代はこれまでなかった。


そして、もういい。これきりにしてほしい。

 

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