42カオス 年頭訓示に考えてしまう

 職場の朝礼で上司が訓示を垂れる――なんてことは、いまでも多くの職場で行われていることなのでしょうか。


 小学校の朝礼で、校長先生が全校児童を前にありがたいのかねむたいのか、その評価がわかれるお話をしてくれるのは、昔も今も変わらなそうですが。


 私の職場では、いまだに上司が訓示めいた話をします。私は、令和の時代に、昭和か――と時代遅れに感じてますけど。多くの場合は、「我が部署の方針」であるとか、「仕事を通じて思ったこと」「自身の体験談」などを取り上げて、部下に対してああした方がよいとか、こうしてはいけないとか。なかには「『◯◯』という本に、こうしたことが書かれている」みなさんもそうしたらいい――というような、古今の知識人の言葉を借りて自説を補強することもあったり……。


 彼ら上司が取り上げる本に小説はありませんね。少なくとも、うちの職場で小説をネタに訓示をぶった上司に会ったことはありません。小説読みの私はそれが不満でならなかったのですが、なんとなくその理由がわかってきたような気がします。


 もちろん小説は作り話なので、内容を本当のこととして話してしまっては、間違いになってしまいます。小説の内容をそのまま訓示として朝礼で話してしまっては、都合が悪くなってしまいます。小説がネタとなりにくいひとつの理由でしょう。


 もうひとつ、さらに難しい問題は、小説の文章をそのまま人に話して聞かせたところで、話し手が期待するとおりに聞き手が聞き取ってくれるか、はなはだ頼りないということが挙げられると思います。


 たとえば、太宰治の『人間失格』をみてみましょう。太宰ファンは多い(らしい)。『火花』で芥川賞をとった芸人、又吉直樹は、『人間失格』を読んで「おれのことが書いてある!」と太宰にのめり込んだとか。私はこの小説を読んでも、露悪的な小説だなあと、いやな気持ちになるだけでした。


『人間失格』は、このをどう捉えるかが肝になる小説で、捉え方次第で、傑作にもなり、駄作にもなる小説です、実は。


 これが傑作だというためには、「なぜなら、◯◯だから」という解説が必要になってきます。◯◯の部分はひとそれぞれに受け止めかたが違うので、これを説明するだけで、ひと仕事です(笑)


『人間失格』のような心の内面をさらけ出した小説を解説するには、話し手も自分の内面を同時にさらけ出していかなければ、取ってつけたようなシラけた訓示となってしまうでしょう。


 小説、エッセイどちらもそうですが、人間が一番興味を持っていることは何かといって、「この人(登場人物)はどういう人なんだろう」ということだと思うんです。スピーチもそう。この話をしてくれている人はどういう人なんだろう、もっと知りたい、ということに主な興味があるのです。つきつめると、その人とひき比べて自分はどうなのかと思い巡らせている。その人(作家、登場人物、話し手)と向き合いながら、自分自身と向き合っている。


 うちの上司は、仕事を一所懸命にやってきた人であって、小説を一所懸命に読み込んできた人ではない。訓示も仕事に関することを精一杯話せばよいのであって、ことさら小説を取り上げる必要はない。


 ――小説を取り上げないのかなあ。


 などと考えている私は、むしろ一所懸命には仕事をしていない部下なのかもしれない――と思ったりした、仕事始めでした。


 今年も頑張るぞー

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