12カオス 孤独とわたし

 孤独だって感じることはありますか。

 どんなときにそれを感じますか。


 一緒に遊ぶ友達がいないときですか。

 家に帰っても家族が待っていないときですか。

 携帯電話にだれからの連絡も入ってこないときでしょうか。


 私の場合、私のやっていることを理解してくれる人はいないんだと自覚するときに、「ぼくは孤独だ」と感じます。たとえば、丹精こめて書き上げた小説をカクヨムにアップしたにもかかわらず、ひとつのPVもつかないようなときです(苦笑)。


『100分de名著 坂口安吾 堕落論』のテキストを読みました。おもしろかった。

 坂口安吾の名前は知っていますが、もし100分de名著のテキストに「堕落論」がなければ、一生、彼の書いたものに触れることはなかったと思います。それほどまで作家、坂口安吾は私からすると遠い存在なのです。そういう意味でも、この作家と私を結びつけた「100分de名著」という番組はすごいなと思います。


 テキストを読んでいくと、坂口安吾の「堕落論」は、いままさに孤独な戦いを強いられていると感じている人に力を与えてくれる評論だと感じました。


「堕落論」は、これが発表された1946年の世相を抜きに語ることはできません。


 戦争に敗れたその日から、この国の指導者のいうことは180度変わりました。学校では生徒が自ら教科書に墨を塗り、教師は一億玉砕を語っていたその口で、民主主義を教え始めていました。そんな世相に人々はこう思ったに違いありません。


 ――戦争中の「あれ」はなんだったのだ?


 坂口安吾は、そんな「あれ」――戦争中この国が、この国の国民が奉じてきた「健全なる道義」――に疑問を呈します。結局、そうした健全なる道義というものがこの国を誤った方向へと導き、ついにはこの国を滅ぼしたのではないかと。


 だからこそ、人として正しい姿を取り戻すために、健全なる道義からと主張するのです。だからこの評論は「堕落論」というのでしょう。


 ここにいう健全なる道義というのは、いわゆる「常識」とか、「道徳」とか、「世間では当たり前と考えられていること」とかに置き換えて、そう間違いではないと思います。


 堕落とは、「かくあるべきこと」からの逸脱なのです。


「堕落論」は、堕落せよ、人の本性のままに生きよ。堕ちて、堕ちて、堕ちきった、そこからはじめて人は己の、己だけの真の道徳を打ち立てることができると主張します。


 ただ、自分だけの道徳にすがって生きていくことは孤独なことだと言い切りもします。自分の内にある道徳は、自身ひとりのもの、肉親とはいえ共有することはできないのだから、理解してもらえない――孤独であるのは堕落の必然なのです。


 私は、この自己の道徳を打ち立てた者はすなわち孤独であるのという考え方に、非常な共感を覚えます。

 世の中で言われているような当たり前や、常識と違い、さまざまな体験を経て、自分が正しいことだと信じるようになった考えは、なかなか他人に理解してもらえるものではありません。他人は、家族であっても私と同じ体験をしていないのですから当然です。

 あなたの考えはおかしいと言われても、それが正しいことだと信じる私は孤独です。


 こんな私を「堕落論」は、坂口安吾は肯定してくれます。いや、きっと安吾も同じように孤独を感じていたに違いありません。

 NHKテキストの著者は、太宰治のことは「太宰」なのに、坂口安吾のことは「安吾」と表記しています。安吾の名を記すのは、彼に親近感を抱いている証拠ではないでしょうか。

 安吾、安吾、安吾。

 きっと、これまでもおおぜいの人が、私やテキストの著者のように坂口安吾に対して、兄や友人に抱くような親近感を抱いてきたのでしょう。同じ孤独を感じている仲間として。そして、これからも――。


 安吾とその著作がある限り、私たちは孤独ではないのです。


 

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