7-6-1

 発信専門と化していたから震えにしばらく気づかなかった。前の席のクラスメイトがチラチラとこちらを見てきて、美空はそれでようやく僅かな音に気がついた。

 朗々と教科書を読み上げ続ける国語の教師は変わらず教科書を見つつ教室全体を見渡している。気づかれた様子は見られない。

 父か、省吾か、もしや祖父母か。教師が後ろを向いた隙に鞄から慎重に取り出して。クラスメイトの何気なさの中にも好奇心を隠せない視線を確かに感じながら、画面を見て凍り付いた。

『フカミ』と呼び出し元は確かに表示されている。

「先生! 気分が悪いので保健室に行っても良いですか」

 元気いっぱいに美空は手を上げ、そう告げた。


「内山さん、気分悪そうじゃ全くないよね?」

「ごめんなさい。ものすごく大事な用なの」

 小声で交わし、保健委員を引き連れたまま、美空は足早に廊下を進む。降りるべき階段を上り、屋上へ続く踊場まで来て立ち止まった。何か言いたそうに見上げてくる保健委員に目だけで謝りスマートフォンを操作する。

 フカミからの連絡など、今まで一度も来たことはない。指定の時間は夜の八時で、午前十一時と見間違うような文字ではなかった。しかも、先月以来、美空は連絡していない。――それでもフカミは、連絡してきた。

「保健室、行かないの?」

「ちょっとだけ待って」

 耳元でコールが聞こえる。踊り場の小さな窓からは、秋の高い空が見える。この空の遙か向こうまで届くようにと心の中で祈り続ける。

 お願い、出て。

『ミソラ!』

「フカミちゃん! どうしたの、こんな――」

『髭のおじいちゃんと船医者先生に伝えて。ジョアンナ達の国の船が来たの。神殿が開いた』

「え、ちょっと待って、どういうこと」

『島長――ミツばあちゃんとお母さんは閉じ込められてる。ショウゴは、ジョアンナたちの国に行くんだって信じてる。ホシンは信じられないって、わたしは、』

 がしゃりと悲鳴のような音を聞いた。通話はそこで唐突に切れた。

 美空は画面をタップする。一端通話を終了し、焦る指で再び通話を試みる。変なところを叩いて別の画面を呼び出し、起動画面からやり直す。

『おかけになった電話番号は電源が入っていないか、電波の届かないところに……』

 三度操作を繰り返して、同じメッセージを三度聞いた。

「内山さーん」

 急かされて画面を消した。階段へと足をかける。

 昼休みを告げるチャイムが鳴った。


 保健委員を教室へ帰した。美空はそのまま階段を上る。屋上へ出て階段の裏へ。視界に入りにくい陰を探し、埃も気にせず座り込む。フカミの言葉を、思い出す。

 髭のおじいちゃんとは曽田のことだ。船医者先生は父親の孝志。フカミが知る『本土の人』のその代表と言い換えても良い。

 美空はスマートフォンを操作する。

 ざわつき始めた昼休みの空気を感じながら、『お父さん』の文字をしばらく見つめる。そもそも曽田の連絡先など入っていない。あとは、省吾と松木と。逡巡の末、省吾の番号を選択した。フカミとの電話のやりとりは孝志には内緒で、松木は相談する相手という気がしない。ワンコール、ツーコール。……二〇まで数えて諦めた。

 メールアプリの画面を開く。省吾のアドレスを選択する。少しばかり考えながら本文を打ち込んでいく。

 ――フカミちゃんから電話が来ました。ジョアンナさんの国の船がやってきて、神殿が開いたそうです。電話は切れて、繋がりません。

 送信ボタンをタップする。アイコンがくるくる回り『送信しました』のメッセージが表示される。

 大きく大きく息を吐く。スマートフォンを握り込む。早く気づいてと願いながら、膝をきつく腕で抱く。

 もう一度。スマートフォンを操作する。耳をつけずとも僅かなアナウンスが漏れ聞こえる。『おかけになった電話番号は』

 画面表示を手癖で切る。腕の間に顔を埋める。フカミの言葉が過ぎっていく。

 ジョアンナたちの国の船とは、率直に外国の船だろう。日本の船であったとしても『掟』が禁じているはずだ。日本の法律的に言えば、私有地への不法侵入になるのだという。他国の船なら不法入国ということになる。しかも、もしかしたら。それは、テロリストのものかも知れない。

 神殿とは。――保管庫以外の何がある。

 その二つの情報が組み合わさってしまったなら。

「見つけた!」

 スマートフォンを落としかけた。

 座り込み、スマートフォンへ手を添えてきたのは柳瀬だった。大きな目を瞬かせて、ほぅと大きく息を吐く。

「驚かせちゃった? 良かった、スマホ、落ちなくて」

「う、うん」

 柳瀬は弁当袋を持っていた。袋は軽そうで、昼食を済ませた後なのだろう。

「アイちゃんに内山さんが授業中に出ていったって聞いたんだ。保健室にはいなかったし、どうしたのかなって。内山さんのことだから、この辺にいるかなって」

『アイちゃん』とは、美空のクラスの少女だった。柳瀬と親しいグループの一人だったと思い出す。柳瀬は異なるクラスの友人たちと一緒に昼食を取っている。そのときに話題に出たのだろう。

「何かあったのかなって」

 美空はスマートフォンの画面を見やる。表面の消えた黒い画面に反応はない。省吾からの返信も。

「写真の子」

 呟くように声に出せば、続きを待つような気配がある。

 画面を弄る。不安そうに見下ろしている自分自身の、フカミによく似た顔が映った。

「私にそっくりなあの子、双子なの。普段は連絡なんかしてこないのに、電話があったの」

「電話?」

 美空は大きく一つ頷いた。衛星携帯電話。言葉を添えた。

「わかんないの。外国の船が来て、神殿が開いたって。それでだけで切れて繋がらない」

 柳瀬に言うような話ではないかもしれない。けれど。――柳瀬だったら、聞いてくれそうな気がした。

「え、外国のって、神殿って、それ」

 柳瀬は可愛らしい顔を、目一杯顰めている。同じことを想像しているのだろうと知れた。それでも美空は曖昧に頷くことしか出来なかった。情報はたったそれだけなのだ。

 予鈴が響く。柳瀬は慌てて埃を払って立ち上がった。あーあと悔しそうな声が聞こえる。

 美空はそれをスマートフォンの画面越しにぼんやり眺める。

「内山さん?」

「サボる」

 とても授業など聞いていられる気がしなかった。

 わかった。柳瀬は言って踵を返し、ふと、止まった。

「新戸さんにも伝えるね」

 パタパタと軽い音が響いていく。重い扉の音が聞こえ、やがて本鈴が響き渡った。


 省吾からの連絡は三〇分ほど後にあった。少ない事実を繰り返して話してしまえば、もう美空にできることなど何もなかった。曽田に連絡するにしろ、適切な手段を講じるにしろ、省吾がやってくれるだろう。

 だからといって、授業を大人しく受けていられる気はしなかった。

 国語の教師に無事を伝え、担任に早退を告げた。訝しがられはしたものの、成績優秀、優等生の肩書が効いたのだろう。深く詮索はされなかった。

 寄り道もせず帰宅する。自室のベッドでクッションを抱え無音のままで転がった。スマートフォンを手に取って、島の写真をじっと眺める。

 抜けるほども青い空、濃い陰影の緑の木々。危険なものを抱えているなど想像もできない美しい島。

 日々、漁に勤しみ作物を育て、生きることに真っ直ぐな素朴な人々。当たり前も常識も生活に根付いたものでしかなく、それを理由に排斥するなどということもない。たとえその祖が死刑を言い渡された犯罪者だったとしても、どこよりも眩しい日差しの下で胸を張って生きる人々。――本土の、東京の人たちとはきっと違う。

 船の甲板から手を振れば、同じ面差しの少女が力一杯手を振り返す。少女の隣にはいたずらが好きそうな少年が。後ろには優しそうな母の笑顔が。いつもは厳しい祖母も頬を綻ばせ、さらに後には島の人々が笑顔でいる。

 皆、美空を歓迎している。接岸を待たずに桟橋へと駆け寄って来る――。

 電子音で目を開けた。聞き覚えのある、けれど思い出せないメロディだ。

 眠っていたのか。幸せな夢を見ていた気がする。

 ぼんやりしたまま音の出どころを探した美空は、スマートフォンの『新戸』の文字に首を傾げる。――新戸が一体、何の用で?

 通話ボタンを押した瞬間、新戸は飄々としたいつもの声で告げてきた。

『行くかい? 沖ノ鳥島に』

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