7-5-3

 そして更に五日が経った。


 収穫物を山にした手押し車を後ろから押していく。集会場を過ぎると道はわずかに下り始め、後ろから押す必要はほぼなくなる。荷台の山を崩さないよう手を添えながら、フカミは背を伸ばし海を眺める。港を見下ろし、首を傾げ、食堂の屋根を通過して視線を医療棟へと回していった。ここでもフカミは首を傾げる。

 港には船がいなかった。けれど船が出ていったわけでもなさそうだった。漁舎の男から船の男に交代した医療棟の見張りは顕在で、ミツとシノとシガラキのたった三人の『反島長』派を相変わらず閉じ込めている。

 そしてもう一つ。フカミは海を見晴るかす。ほんのり緑がかった綺麗な青い見慣れた水面に、見慣れない色が漂っている。黒っぽく見える柱のようなおそらく赤く連なるもの。

 手押し車が食堂で停まる。はっと視線を戻したフカミは、手分けして籠やら箱やらを食堂へと運び込んだ。色の変わりかけたゴーヤー、良い形で山成すオクラ、成り始めの青いピーマン、毎度おなじみ野菜パパイヤ。からし菜は籠から溢れんばかりだ。

 すっかり納めて空になった手押し車を今度はフカミが引いていく。立ち去り際に眺めた海は、赤黒く見える柱など幻であったかのように、何事もなく静かに波を湛えている。

 船がいなくなった理由は農場に戻ると程なく知れた。船は医療棟のすぐ南、扉の前に移動したのだとどこからともなく聞こえてきた。噂は文句と愚痴の尾ひれを添えられ、あっと言う間に農舎を回った。

 扉へ続く海辺の道には船の男が立っている。相変わらず扉にも船にも島人は近寄ることすら出来やしない。ミツ婆さんが怪我をした。どうやら扉を開けるのに反対したと。結果怪我して、エリックに担がれ医療棟へ戻された、と。

 十人前、言われたとおりに増やした野菜がまだ足りないと文句を言われた。作付けを増やすか。畝を増やすか。漁の方も同じらしいぞ。やれやれ人も足りないのに。聞いたか、賄いのチウネがぼやいてる。このままじゃ米がなくなるってよ。

 食堂で見かけるホマレはジョアンナやら船の男たちやら取り巻きに囲まれている。堂々とした態度のまま、談笑などして見せている。農舎の漁舎の食堂の声は聞こえないのか、心労などみじんも感じられない。むしろ、ジョアンナやエリックの方が参っているとフカミは思う。疲れている、焦っている? 言葉としては聞こえないが、時折目をすがめ片頬を歪ませ、苛立ったような顔を見せた。

「冷蔵庫、壊れたって?」

「冷えないんだと。絞りすぎるなって言われたわ」

 手押し車を倉庫へ戻す。山羊担当が瓶を抱えて通り過ぎる。

「絞り過ぎるも何も、絞らないと病気になるじゃないか」

「いっそ余ったら飲んじまうか」

「最近、ちょっと少ないよねぇ」

 何気なく耳をそばだてたフカミの足は手押し車と共に止まっていた。

「フカミ!」

「あ、はい!」

 苛ついた声に慌てて再び足を動かす。離れてしまえばもうその話題は聞こえなかった。


 更に三日、表面上は何事もなく経過した。


 一方で、食堂は少しばかり混乱していた。冷蔵庫の中身が腐ってしまったらしかった。おかげで朝食は魚の品を欠いていた。漁舎は嘆き、農舎は品数に残念がるも、だからといってどうにかなるようなことでもなかった。文句を言いつつ、仕方がないと皆諦めた。

 ホマレもジョアンナもエリックもその日の朝は見かけなかった。

 医療棟の見張りは不機嫌そうに明後日を睨み続けている。子供たちも漁舎の者たちも避けるように坂を下った。

 フカミは農舎の一団の最後尾を少し離れて歩きながら、振り返った海に目を留めた。医療棟の屋根の向こう、陽光を反射し白く輝く波の合間に、赤黒い線が伸びていた。一方だけを固定された紐のように波に揺られて漂っている。柱だとフカミは思う。大きな扉を囲うように漂うはずの赤い柱が流されている。それは、三日前に見た黒っぽいものと同じだった。


 カタセが珍しく農場を訪れたのは、昼休憩に入る直前だった。


「フカミー!」

 大きく呼ばれて顔を上げた、フカミを呼ぶのに振られた手と、どこを見ているのかわからないカタセを目に留め腰を上げた。

「カタセの相手、してあげて!」

 フカミを呼んだ女性はカタセの左手をガッチリ掴み続けている。放して畑の中に突撃されたりしたら敵わない。顔にはそう書いてあった。

 フカミは一緒に作業をしていた女性に視線を向ける。女性は面倒そうに頷いてみせた。フカミはようやく踵を返す。

「どうしたの」

 土にまみれた手をシャツで拭き取り、女性に代わりカタセの細い腕をとった。木陰へ向けて歩いて行く。カタセは腕を引かれるままに付いて来た。

「シノせんせ、渡してって」

 カタセは右手をフカミへ突き出してくる。手に余る程度の大きさの、風呂敷に包まれた薄い板状の何かだった。

 その大きさに、フカミは確かに覚えがあった。

 カタセを木陰へ引っ張りこむ。農場の外れ、島の外周を囲う林に入った辺り。厳しい日差しを遮るにはちょうどよく、休憩によく使われる。――日向からは、何をしているのかよく見えない。

「お母さんが?」

「しんでん。あいた。せんせーに。言えって」

 念のためにと農場に背を向ける。震える手で風呂敷を剥ぐ。触ろうとしてもう一度、上着で手のひらの埃を拭った。

 黒い板。集会場へ取りに行くことが叶わなかった。ミソラとの、本土との連絡手段。

「わたした」

 カタセは離された左手をフラフラさせて、農場へと戻っていく。畑へと突っ込むことなく、けれど危なっかしい足取りで、道をたどって戻っていく。

 フカミは、カタセの背を見送って、黒い板に視線を落とした。画面を突いて反応が無いと、側面の僅かな突起を教えられたように押す。やがて見覚えのある画が黒い表面に現れた。

 フカミは深く呼吸する。震える指でそっと突く。

 いつも会話は大抵ミソラから始めていた。フカミから始めるのは教えられて以来初めてだった。何度か突くと『内山美空』と文字が出た。ウチヤマミソラ。そう読むのだと教えられた。

『内山美空』の文字を突く。それで、始まるはずだった。

 トゥートゥートゥー。知らない音ばかりが聞こえ続ける。

 これでいい? いや、違う気がする。なんでずっと始まらない?

 両端に重しの付いたひしゃげた三日月のような絵を眺める。斜めになった三日月は、赤い色をし続けている。――これは緑だった気がするのだけど。

 いつもと一体、何が違う?

 ――なんでお母さんは、わたしに渡した?

 持ち出したのは、島長交代のあの時だろう。ミソラとマツキと大きなショウゴとフカミ自身と。四人だけの秘密だったのだか。

 気づかれていたとして。知っていて持ち出された物だとして。何故シノは自分で使わなかったのか。

「フカミ、手伝ってー!」

 呼ばれて思わず背筋を伸ばした。反射的に風呂敷に包み、農場へ降り。声の掛かった坂の上へと視線を巡らす。

 ――集会場。

 木立の向こうからのっぺりとした集会場の二階部分の壁が見える。

 集会場。一つの可能性を思いつく。――マツキの部屋も、図書室も、屋上だって、すべて集会場の中だった。

「ごめんなさい、ちょっと抜ける!」

「え、ちょ、何!?」

 フカミは坂を駆け上がる。焦ったような声を振り切り、道を逸れて木立へ分け入る。下生えをかき分け、あるかなしかの踏み分け道を這うようにして進んでいく。集会所の裏へとたどり着く。壁に据え付けられた、屋上へ続くハシゴへ取り付く。荒い息のまま登っていく。

『H』という画が大きく描かれたそこで心臓を跳ねさせながら、黒い板を記憶を頼りに突いていく。

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