7-5-2
夕影の中に大きな船をみとめてフカミは思わず立ち止まった。食堂脇から見下ろすだけで近寄らなくとも、見たことのない大きさだとわかる。年に二回、ホシンの船が停まるだけの桟橋から船は大きくはみ出して、湾の入り口を埋めるかと思えるほどだ。
「フカミ」
棘のある声で名を呼ばれ、フカミは渋々視線を移した。医療棟の前に立つ漁舎の男の厳しい視線を感じながら、食堂の入り口を農舎の人々に混じって潜る。
食堂の中は混んでいた。ちょうど漁舎の集団ともぶつかって、気楽な話し声が堂内を埋めている。農舎の同僚たちも、配膳口に並ぶ間、トレイを手に取りテーブルへと移動する間、箸を取ってもおしゃべりは尽きない。
あの船でしょ。大きいね。昼間見たのよ。男ばっかりだったわ。
ホマレが島の代表、島長となり、掟は掟ではなくなった。島からの出入りは自由。泉に降りるのも自由。もちろん、水を飲んでも構わない。病気も怪我もデニスが治療すると請け負った。神の扉は閉ざされたままだったが、こちらは単に鍵がかかっているからだった。
出入り自由と言っても出ることのできる船もなく、坂の下、崖に近い泉からわざわざ水を汲み上げたいと思うことがあるはずもなく。島人の生活がいきなり変わるわけではなかったが、十日ばかり経った今日、掟がなくなった証拠とばかりに船がついにやってきた。
ジョアンナの国の人たちでしょう? しばらく居るって聞いたけど。しばらくって、どれくらい? 知らないわ。でも収穫を増やせって言われたわね。え、つまり?
フカミは会話には入らなかった。農舎の集団の端っこで、黙々と手を動かしながら、ただ耳だけが周囲の会話を拾っていた。
なんか態度がデケェんだよな。聞いたか。魚増やせってよ、十人分。十人分!? 海岸にも肥溜め作れって言ってるらしいぞ。あるじゃんか。溢れるってよ。
農舎の同僚たちも漁舎の人々もフカミへ会話を振るでもなく、気を使うことなどなく、特に何を言うでもなかった。フカミ! ショウゴの声には気づいたが、直後に沸いた笑い声に無視することに決め込んだ。ショウゴは向こうのテーブルで箸を振り、ご飯をかきこみ、実に楽しげで面白くない。
甘く炊けているはずのごはんも、少し塩辛いはずの味噌汁もそれらしい味を感じる間もなく機械的に流し込んだ。皮が香ばしい焼き魚も、青臭さと歯ごたえが美味しいはずのサラダも、味わう楽しみを感じないまま平らげた。目の前のトレイがすっかり綺麗になったとしても、一人で席を立つこともしなかった。
――一人で行動しないで頂戴。
十日前、身一つで農舎にねぐらを移した際にそう言われた。仕事は今までと何も変わらなかったが、一人でこなしていた仕事に誰かが必ず付くようになった。医療棟には行くなと言われ、行っても見張りに追い返された。集会場は閉ざされて、愛用の掛布を取りに行くことすら出来なかった。二階の本棚の奥、隠すように置いていた黒い板がどうなったのかもわからない。
農舎の人々は姦しくおしゃべりに花を咲かせている。漁舎の人々は豪快に会話を続けている。カンリシャの肩書を持つフカミだけが、この場で一人、置物であるかのように扱われている。
ふと、目の前にトレイが置かた。乱雑に置かれた際に味噌汁がトレイの上に大きくこぼれた。こぼした本人は気にすることなく、椅子の背に手をかけている。
「やっだ、カタセ、こぼれてるじゃないの!」
「こぼした」
隣の文句など聞いてはいないだろう。言葉を鸚鵡返しして、カタセは音を立てて椅子に座った。不器用に箸を取る。
カタセの『いつもの』場所だったか。
人と目を合わせようとしない青年をフカミはぼんやり無遠慮に眺める。カタセは隣もフカミも気にすることなく自分のペースで食事を始めた。
カタセは『いつもと同じ』であることに固執した。食事の時間、食事の場所。少しでも変わると騒ぎを起こす。だから、嫌なら、嫌だと思うほうが避けるしかない。
「もう。ごちそうさま」
カタセの隣席の同僚が立ち上がる。つられて農舎の女性たちは次々とトレイを取り上げた。フカミはじっとカタセを見ていた。味噌汁をびちゃびちゃこぼしながら、ご飯をポロポロこぼしながら、魚もぱらぱら散らかしながら、それでも箸を動かし続けている。
「フカミ!」
下膳口から呼ばれて仕方なく立ち上がった。
「カタセ、じゃぁね」
カタセはいつもの通り、振り返ることもなかった。
船が島にやってきてからさらに五日が経過した。
ときたま現れ、物珍しそうに覗いていく男たちの視線にも慣れた。掟が無くなったとはいえ、習慣的に近寄ることもない泉の方から連れ立って歩いてくるのも見慣れてきた。手の中のいい色に染まったオレンジを見て、何とも言えない気分になるのは癖だとか習慣だとかそういう類いのものだろう。
ヤギのお乳を下さいな。お遣いのナナに乞われて雌の羊の脇に座る。横から後ろから覗き込む男たちを無視して手早く絞り、瓶に移す。オレンジを抱えた無遠慮な男たちは、そのうち呼ばれて去っていった。
「フカミちゃん、ありがとー!」
「持てる?」
絞ったばかりの乳を満たした瓶は五歳が持つにはかなり重い。小柄なナナは抱え込むように瓶を抱く。歩き出そうとはするものの、手を添えているうちからふらつきかけた。とてもじゃないが任せられない。
「いいよ、行ってきな」
フカミに付いていたヤギ係は仕方ないねと頷いた。すぐに戻って来るんだよと、付け足しのように言葉を添えた。自分は汚れたヤギの寝藁の山に熊手をつっこみ掃除を始めたところだった。はい、とフカミは短く返す。
「ナナ、もつー!」
「落とさないでね」
せがむナナに瓶を渡す。ドヤ顔でナナが抱える瓶の上辺へ手をつなぐ代わりに手を添えた。
「ママはあかちゃんでたいへんなの。ナナ、いっぱいおしごとするの!」
ナナの生母は二人目を先日出産した。今子供舎に舎母は三人いるが、人数がいるから楽できる、というわけではもちろんない。新しい小さな仲間を迎え、掛かりっきりの母親を見て、まだまだ大きいとは言えないナナも奮起したというわけだろう。
「ナナ、偉いねぇ」
「えらいの!」
フカミもそんな『姉』や『兄』を見て育った。フカミ自身もやってきた。そう、本来、やるべきは。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんはいなかったの?」
「んっとね、おふねにのせてもらうんだって」
おふね。――お船?
「ミツロにいちゃんと、シンにいちゃんと、ショウゴおにいちゃん」
ナナの歩調にあわせても、子供舎までそう遠いわけではない。集会場を回り込む北の坂をのんびり上がる。坂の上に出れば東の湾が見渡せる。
大きな船が目に入る。
「おねえちゃんは、しょくどうのおてつだいで、ママたちもいそがしそうだったの」
えっへん。ナナは胸を張る。
ナナは偉いね。言葉をかけつつ、フカミは心の中でため息を吐く。
集会場の前にかかる。子供舎が見え始めたころ、何やら喧しい集団が遠く医療舎の前の辺りに現れた。海岸から坂を登ってきたのだろう。
「にいちゃんたち!」
「ナナ、瓶持って走ったら危ないよ、だめだよ」
集団とはちょうど子供舎の前で合流した。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ!」
「見るだけだってばー! ねぇ!」
「エリックの国に連れてってくれるって言ったじゃんか!」
エリックの太い腕に首根っこを掴まれたまま引きづられるように歩かされているのは筆頭のショウゴだ。船で来たと思しき男の右手にミツロウが、左手にはシンジががっちり拘束されている。悪ガキ三人は抵抗も出来ず山の上へ強制送還されたわけだ。
「もう半月も待ったんだ。連れてってよ」
「マダ半月。マダ僕たチ帰ラないし、連れテイケないヨ」
「嘘つき!」
「嘘じゃナイよ。でも、マダだよ」
「……ナナ、落として割ったりしないうちに、お乳ママに渡そうか」
立ち止まったナナの背をそっと押し出す。巻き込まれないよう回り込む。騒ぎに気づいたナナの生母が子供舎から顔を出す。ナナが瓶ごと届いたのを見て思わず大きく息を吐いた。
「フカミ!」
「フカミサン!」
気づかれたのはその時だった。
「フカミ! なんとか言ってよ。ホマレは約束したんだ!」
「フカミサン。僕ハ約束、守りマス。今ハやることガあります。ナントカしてください」
「フカミねーちゃん!」
「船に乗ってみたいだけなの!」
なんとかってなんだとか、やることなんて知らないとか、約束なんてフカミは聞いていないだとか、昔からこの悪ガキ共――特に筆頭のショウゴなど――は、ホシンの船やら、大きな神の扉やら、神の泉やら、行ってはいけないと言われるところにばかり行きたがって、閉じ込められるわ、落ちるわ、怪我するわなのに一向に懲りる気配はなく。
「大きな扉、開いたんだよ!」
「見てみたいよな!」
ミツロウは自由な右手で空に大きく弧を描く。大きい扉、と身振りを交えて言いたいらしい。
シンジは目を実に楽しげにキラキラ輝かせている。昔から悪ガキに付き物の目だとフカミは思う。
「僕たちはダイジなオ仕事してる。終わったら船にも乗せてあげるカラ」
人のいいエリックはほとほと困ったと目も口も肩も背中まで使って表しているようで。
「ダイジな仕事ってなんだよ! 船の連中と集会場にこもって、大きな扉の向こうを陣取って、真夜中にシノ先生連れ出したりして、漁もしないでさ! ホマレはなんて言ってんだよ、ホマレは全部良いって言ってんのか」
エリックの肩が更に落ちた。ショウゴはようやくエリックの手から抜け出した。
シノ。名前にフカミはショウゴを見て、エリックを見た。エリックは否定することもなく、困ったなと素直に顔で言っている。フカミの視線に気づいた様子は全くない。
シノ――お母さんが、真夜中に集会場に?
あの、大きな扉が開いた?
ジョアンナとホマレをしばらく農舎で見ていない。集会場に籠もっているとみんなもっぱら噂している。エリックも漁に出ていない。今ショウゴが言った通りだ。船の男たちは、、気晴らしのようにフラフラしているのを見るばかりだ。船と大きな扉と集会場と、普段はその辺りにいるのだろう。
彼らは一体、何をしているのか。
「自由に島を出られるっていうから、ホマレが島長になるのに賛成したんだ。話が違うじゃんか」
「嘘ナイよ。終わったラ、キット」
「フカミ、なんとか言ってよ!」
「フカミサン、しんじて下さい」
「……知らない」
子供舎から赤ちゃんの盛大な泣き声が聞こえてきた。舎母の怒鳴り声が聞こえ、ミツロウとシンジは震え上がる。
踵を返したフカミへ、ショウゴの情けない声が追ってくる。無視して進めば集会場からジョアンナが顔を出した。
ジョアンナは何も言わない。ただ通り過ぎるフカミへと鋭い視線を向けてくる。フカミもまた何も言わない。言うべき言葉が浮かばない。
集会場を通り過ぎる。エリックの言い訳のような声を最後に騒ぎは終わったようだった。
頭上高くで風が巻く。木々がざわりざわりと枝葉を揺らす。足元を掬うように風が抜け、フカミは立ち止まり視線を落とす。
足の下には踏み固められた土がある。土は深く掘っても土のままだ。けれど掘り抜けないほど下まで行けば、そこには神様が眠っている。神殿がある。
あと半年。
眠らせておくのが管理者の役目なのだとシノは言った。
――眠らせておく。
フカミは両手のひらを広げてみる。見慣れた手は思うよりも小さくて。
――眠らせておけなかったら。
握って開いて。その手には何があるわけでもなく。
「ミソラは、どう思う?」
同じはずの、けれどどこか少しばかり高い声が聞こえてくることはなく。
フカミの声は風に浚われ、青い空に溶けて消えた。
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