7-5-1

 何やら落ち着かない農舎の面々を早目に勉強会へと送り出した結果、フカミは久しぶりに食堂へと駆け込んだ。

 フカミちゃん、待ってたよ――賄い担当の声が威勢よく聞こえてくるはずだった。

「フカミ! お疲れさん!」

「何やってるの」

 配膳口からすぐの台で俯いて何やら手を動かすのはショウゴだった。覗いてみれば、何本もの包丁が砥石のそばに置かれている。砥石の上にもう一本。

「包丁研いでんの」

「何で」

「父ちゃんに教えてもらったんだ。面白い!」

 嬉しそうにショウゴは笑う。

「フカミの分はそこだって。食器だけ始末しとけばいいっておばちゃん言ってた」

「ありがと」

 フカミは用意されていたトレイを手にテーブルへと移動する。その間もさりさりと包丁を研ぐ音が聞こえてきた。

 フカミはほんのり熱の残るお茶碗を取り上げる。少しばかり急ぎ気味で箸を深く突っ込んだ。大口を開ける。

 そーいえばさぁ。ショウゴは、手元を見たまま口を開いた。

「ミソラ、いなかったね」

 そうね。フカミは心の中で返す。口は埋まっていてとてもじゃないが返せない。

 来てないし、あれから話せてもいない。フカミは心の中で続ける。忙しいのか、話したくないのかはフカミにはわからない。

「ミソラが住んでるところってさ、とうきょう、だっけ。どんなところか知ってる?」

 何を言ってるのか。

 味噌汁の力を借りてやっとの思いで口の中のものを飲み込んだ。

「知ってるわけないでしょ」

「エリックたちの国と同じかなぁ」

 再び箸を茶碗に突っ込み、それを再び大口を開けて放り込む。

 エリックの国などもっと知らない。

「ずっととうきょうに行ってみたいって思ってたけどさ、エリックたちの国でも良いかなって思うんだ」

 砥石のカスにまみれた包丁を明かりにかざし、よくできたとばかりにショウゴは笑む。ようやく気が済んだのか、包丁と砥石をすすぎ始めた。

「山より高い石の建物がギュウギュウに立ってるんだって。真水が流れてる場所があって、川って言うんだって。明かりは全部集会場みたいな揺れない光で、ケンシン車みたいなのがそこら中を走ってるんだ。すごくね?」

 ショウゴのはしゃぐ声をフカミはご飯を咀嚼しながら聞き流すでもなく聞き続ける。とうきょうについて、ミソラもそんなことを言っていた気がしなくもない。

「病気になっても怪我をしても医者が治してくれるんだって。行こうと思えばとうきょうにだって行けるし、もっと知らないところにも行ける。知ってるか? 食堂の冷蔵庫より寒いところがあるんだって!」

 焼き魚をザクザク箸で切り分けて、こちらも大きい切り身を口へと運ぶ。取りそこねた小骨を口の中で選り分ける。

 ショウゴの声ばかりが食堂中に響き渡る。

「とうきょうも行ってみたいけど、やっぱり、エリックたちと一緒に居られる方がいいしさ」

 選り分け損ねた小骨が、喉に引っかかった気がする。

 三度茶碗に箸を突っ込む。

「何の話」

 んー。包丁をしまい、砥石をしまい、ショウゴは辺りを拭きながら、頷くでもなく生返事する。

「エリックたちがさ。一緒にいられなくなるんじゃないかって言うんだ」

 味噌汁でご飯の塊を流し込む。小骨は、まだ取れない。

「羊も連れていけないだろうし、きっと漁もできなくなるって。ひげのじーさんは大丈夫とか言うけど信用できないって」

 信用。フカミは頭の中で繰り返す。切り身を運び、漬物へと箸を伸ばす。

 少し塩辛い漬物は、カリコリと歯ごたえも良い。いつも通りの味がする。

「シンダンでおれらの情報をサクシュしてるし、白い服を脱いだのもここ何回かだし、ムツミを死なせて何事もなかったみたいにしたし、治せる病気も治さないし、あいつら、オレたちのため、島人のためとか言ってるけど、今までそんなことしたことなかったし」

 それは、ホシンというよりむしろ。

「掟に触れるでしょ」

 魚の切り身の最後の一欠片を口の中へと放り込む。お行儀が悪いとシノがいたら叱るだろう。口の中にものを入れたまま。

「出ちゃだめ、入っちゃだめ、治してもだめ」

「だから、掟ってのはそもそも何なんだって。あの、『てんかのなんとか』っても掟破りじゃんか」

 掟は――掟だ。

 味噌汁で切り身を流し込む。漬物を食べきり、それでトレイの上はきれいになった。

 フカミはトレイを持って立ち上がる。厨房へ入り、流しへ向かう。ショウゴと並ぶ位置に立った。

 食器を灰汁で浸していく。

「掟には掟の理由がある」

 罪を冒して島に来た最初の島人たち。

 神様を見守ることが課せられた初代のカンリシャ。

 罪を負っているから島から出てはいけない。神様をそっとしておくために立ち入りを拒んだ。掟には相応の理由がある。

『てんかのなんとか』は、ミソラから聞いた範囲では本土で罰を受けたらしい。しかしそれは掟の範疇ではない。

 フカミは言葉を選びつつ、布巾を浸し、口を開く。

「別にホシンが押し付けたものでもないし、管理者が島人を抑え込むために作ったわけじゃない」

「理由って」

 神様のことは、言えない。

「例えば、最初の島人は罪人だった。いけないことをしたら納戸に閉じ込めたりするみたいに、島から出てはいけないって約束した」

 シノの昔話にもでてくる。島の始まりだ。罪人は、死罪の代わりに島に渡った。

「閉じ込めたのは誰さ。罪人だったって言っても一〇〇年も前、初代たちだろ。何でオレたちが従わなきゃいけないの」

 あぁ。フカミは思う。フカミだってすべてを理解しているわけじゃない。わからないことだらけだ。ただ、それがホシンたちを含む本土との約束で。――だからきっと『掟』なのだ。

 食器を取る。汚れを拭い取っていく。

「島長はずっと昔からホシンと話をしてる。信用するもしないも、するしかない。島長も、ホシンも良くなるように考えてくれている」

 見返したショウゴは眉根を寄せて、閉じた口を曲げていた。表情豊かなショウゴの困ったとも、泣きそうとも取れる顔だ。

「わたしは島長を信じてるし、船医者先生も、ミソラも信じてる。他のホシンも子供舎を直してくれたりもしたし」

 マツキはいろいろなことを見守っている。大きなショウゴはきっと誰より。ムツミの時の池に落ちたホシンはあれから島には来ていない……多分。

「だからわたしは、従おうと思う」

 もう集会は終わってしまっただろうか。フカミは食器を干し、洗い桶を流して立てかける。付近をすすいで絞れば、後片付けはそれで終わりだ。

「お母さんはそういうことも勉強会で話してる。あんたも、たまにはちゃんと話を聞いたら」

 歩き出そうとして、手首を掴まれた。

 見返せば、もっと泣きそうになった顔が待っていた。

「何」

「みんなホシンを信じてない。ホシンと親しい島長もシノ先生も、グルだって思ってる。もう、島長にはついていけないって」

「何言って……」

 足音だった。食堂の外だ。一人二人ではなく、集団の。

 外が何やら騒がしくなっていた。大勢の衣擦れに、顰められた意味のとれない声の塊。

 集会場の方からやってきて、医療棟の方へと向かう。その間、手首は掴まれたままだ。

 フカミは振り払おうと幾度も手を振る。しかし、ガッチリ握られたショウゴの手はビクともしない。

 いつの間に、こんなに――男の手に。顔を上げたフカミをショウゴは泣きそうになったまま、同じ高さに並んだ目で見返してきた。

「今日の勉強会で、返還には反対で、島長は……ミツばあちゃんは島の代表としてふさわしくないって言おうって決まった。ミツばあちゃんの後の島の代表はホマレになる。ミツばあちゃんとシノ先生はしばらく医療舎にいてもらうって。フカミは」

 何を言っているのか。正面から見つめるとショウゴは苦しそうに目を逸らした。

「これから人手も足りなくなるし、農舎を手伝って欲しいって。ミツばあちゃんにもシノ先生にもしばらく会えなくなるけど、しばらくだからって」

 農舎、ミツばあちゃん、会えない、しばらく。

 言葉が頭を空回りする。

「手」

「ホシンじゃなくて、エリックたちの国の世話になるんだ。落ち着いたら、全部今まで通りで、だけど、外に出たり外から来たりもできるようになる。掟なんかなくなるんだ」

 表を通っていった。それはいったいどういうことか。――確かめたい、のに。

「手、離して!」

「離したら、フカミも医療棟に行くだろ!? 閉じ込められたいの!?」

「離して!」

 ショウゴの手は、びくともしない。

「病気になってもケガをしても死ななくていいんだ。とうきょうにはすぐには行かれないけど、エリックたちの国には行ける。オレたちは自由になるんだ」

 ――自由。

 それはミソラにフカミ自身が言った言葉と同じもの。掟からの、ホシンからの、神様からの……何からの?

 フカミが力を抜くと食堂の扉が叩かれた。

「迎えだ」

 自由になった手首には、手の跡が残っていた。

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