7-4

 手を上げた柳瀬に美空は笑顔も作れないまま頷き返した。店員の案内を目線で断り、今となっては機動性を求めたただ無駄なだけの大きなボストンバッグを抱え直す。

 混んでいると言っても十分に広さの確保されたファミレスの通路を進む。手を下ろしかけたまま目を丸くした柳瀬の対面の椅子に手をかけ、バッグを荷物かごに下ろす。バッグは入り切らずにはみ出したまま落ち着いた。

「どうしたの、そのカバン。会おうっていうのも新戸さん経由だったし」

「置いていかれた」

「え?」

「船に乗せてもらえなかった」

「えぇと?」

「船に乗せてもらえなくて、柳瀬さんを待たせてるだろって、追い返された」

「わたし?」

 仕組んだのは曽田だと睨んでいた。曽田が省吾に可能性を言ったに違いない。あり得ると判断した省吾は新戸へ連絡し、さらに柳瀬を巻き込んだ。

 椅子に深く腰掛けると大きく大きくため息が出た。置かれた水にドリンクバーだけ注文するが、取りに行く気にもなれなかった。

 写真の件の『処分』として、渡航のメンバーから外されていたとはいえ、乗ってしまえばこっちのものだと踏んでいた。『密航』なら子供の頃の経験がある。協力してもらったり荷物に紛れたりは成長し難しくはなってはいたが、どうにでもなると思っていた。

 休校届もこっそり出した。気づかれないように支度を進め、孝志を見送ったフリして荷物を掴んで家を出た。同じ電車の違う車両に乗り込んで、港へ続く道にも十分気をつけて、見つからないうちに乗り込んでしまうはずだったのに。

 曽田に背後から首根っこを掴まれて、省吾に美空が了解の返信を送っていない待ち合わせを示された。居残り職員に引き渡されて監視され、船が港から出ていくところを見送らざるを得なかった。それが、一時間半ほど前のことだ。

 待ち合わせの予定は、一時間も前だったが。

「それはお疲れ様だねぇ」

 柳瀬は怒るでもなく文句を言うでもなく、取ってくるねと席を立つ。柳瀬の手元にはグラスが二つ乾いて置かれたままで、開かれたノートの上には数学の問題集が乗っていた。何気なく問題集へ手を伸ばす。開かれたページには随分と書き込みがある。ただし、いくつかの図に描かれた補助線は一見しただけで意味が無いとわかるもので。数学は苦手なんだと言っていたことを思い出した。

「アイスティーで良かった?」

「え、うん、ありがとう」

 美空の前にはアイスティーのグラスが置かれる。柳瀬は空いたグラスに並べて自分のメロンソーダのグラスを置いた。早くもついた水滴を、丁寧に手拭きでぬぐい取った。

「勉強してたんだ」

 えへへ。愛想笑いのような笑みを浮かべ、柳瀬はノートを閉じて避けた。

「遅れるかもって聞いてたし、勉強してようかなって」

「……ごめん」

 密航が成功していたら、そもそもここには来なかったはずで。返事をしていなくとも、待たせていたことには変わりない。

 柳瀬は小動物を思わせる動きで首を振った。だって内山さん来てくれたし。

「模試の結果もあんまり良くなかったから、どっちみち勉強しないといけないし」

 夏期講習とか一斉模試とか。夏になって一気に増えた。クラスでも『宿題やった?』に並んで『模試どうだった?』が飛び交う会話の多数を占めていたように思う。もちろん、美空を素通りして。

「どこ志望だっけ」

「市立、にしてる。でも本当は県立に行きたいんだ」

 内緒だけどね。柳瀬は添える。

 市立は中堅どころである。美空たちの通う中学校からも近く、そのまま進学する生徒も少なくない。県立は公立高校ながら名門大学への進学者も毎年出している。学区内最難関だ。

「大変じゃない?」

 美空は柳瀬の成績を中の上と記憶している。市立なら問題ないだろう。しかし、県立となれば。

 そうなんだよねぇ。柳瀬はストローでソーダの氷をぐるぐる回した。ノートをチラリと見やり、ため息を吐く。

「先生には相談してるけど、第一志望にはさせてもらえなくて。ただね、県立には弁論部があるの。全国大会常連の」

 内申点は問題ないが推薦を取るには少々成績が足らないらしい。飛び抜けて低い数学がどうにかなれば、中間テストの成績次第で考えてやると担任には言われている。塾には通っているもののテキストについていくのがやっとの有様。模試で様子を伺えば、頑張ってもC判定だ。せめて少しでも判定が上がればと問題集を進めている――。

 美空は取ってきてもらったグラスをいじる。ストローを挿し、氷と馴染ませるように緩く回す。優しい香りがふわりと広がる。

 柳瀬は恥ずかしいことを告白するように視線を机の何処かに向けている。とつとつと現状を語る。

 大変だな。美空は思う。やりたいことに足りないということは。

「内山さんは?」

「え?」

 柳瀬はキラキラした目で美空を見上げた。ずずっとメロンソーダが一気に減った。

「志望校」

「私の?」

『志望校』ならば三年に進級した際に孝志や省吾とも相談していた。夏休みの間もそれに合わせた夏期講習は一応一通り受講はしていた。模試ももちろん受けさせられた。とりあえずA判定――合格圏内と出たから、このまま進むつもりではある。

 ただし、柳瀬の理由と比べるとかなり消極的で――つまりある意味、どうでも良かった。

 島に行きたい。自由に行くことの出来る年齢になったなら。職業とか夢とかどうでもいい。いや、『島に行きたい』が夢になるのか。

 孝志と省吾、二人に示されたのは、医療、社会福祉、工業、法関係、教育など。医療以外、美空にはどんなものなのかさっぱり見当もつかなかったが、志望先としての絞り込みは出来た。

 四月、提出した用紙に担任は当然とばかり頷いた。さすが内山。この成績なら問題ない。――言われても特に感慨はなかった。

「県立。今のところA判定」

 有名大学進学率の高さは学部を問わずまんべんなく良い。二年に進学する際に、大学受験に合わせた選択授業が始まるが、逆を言えばそのときまでに志望を絞ればいいのだと省吾には提案された。高校生という言葉に実感はなかったが、反対されることはなさそうだから頷いた。

「さっすがぁ!」

 いいなぁ、すごいなぁ。柳瀬はストローを弄びながら称賛する。弁論部かっこいいんだよ。たとえば内山さんが演題に立ったりしたらさ。柳瀬は早口でまくし立て。憧れとか妄想とかそんなふうにも言われる眼差し――あの、小型犬が飼い主をじっと見上げるような目で、美空を見つめる。

 美空は視線をアイスティーのグラスへ落とす。志望校は示されたルートのちょうどよい通過点にあったに過ぎず、適切で適当に済ますのにちょうどよかった。つまり、美空にさほど興味はないのだ。むしろ。

「行きたいって言えるの、良いね」

 日常生活の延長で、将来につながるルートとして。胸を張って夢と言える。

「言うだけならね。あ、でも、みんなの前ではちょっとまだ言えないかな」

 学校の柳瀬の周囲にいる少女たちの成績は柳瀬と似たりよったりなのだという。志望も相応で『一緒に市立に行こうね』などと話しているらしい。柳瀬だけ県立高校だとすれば、一人だけ『飛び抜けての高望み』となることになる。

 ――人付き合いという面倒臭さを美空はすべて捨ててしまった。

 思わず浮かんだ苦笑いを、柳瀬はきょとんと見返してくる。

 人付き合いのその結果、一人で苦手な数学に四苦八苦しているわけで。不器用だなとやっぱり苦笑いしか浮かばない。

「数学ねぇ」

「数学? 何?」

 手を伸ばし問題集を勝手に開く。柳瀬はきょとんと美空を見ている。メロンソーダのストローがずずっと大きく音を立てた。

 どうせ今週はここにはいないつもりだった。美空自身に特別な習い事などもなく、引退だなんだで騒がしくなる部活動にも縁がない。受験のための進学塾も応用を確認するためだけに限定的に通うことを考えていた。時間はあるのだ。

 無意味な補助線。やみくもに展開されていた方程式。美空はそれらを、何度も何度も暇に飽かせて教科書で追った。

 美空はストローが立てる音を聞いて、ストローから口を離した。問題集から柳瀬へと視線を移す。

「見てあげようか」

 柳瀬の大きな目が更に見開かれるのを、何を思うでもなく美空は眺める。

「数学。一通りわかると思うし」

 柳瀬のかわいらしい顔の全面に華やかな笑みが広がった。

「うん!」


 美空は誰に気を使うこともなく、自室ではなく居間のソファでスマートフォンを取り上げた。テレビは代わり映えしない秋の新番組を華やかに流し始めていて、孝志の予約に従ってレコーダーが音を立てた。孝志は今頃、島の満天の星空の下だ。この時間に誰が訪れることもない。

 慣れた手付きで登録してある番号を呼び出した。果たして船がいる今、出てくれるだろうかと危ぶみつつ、美空は通話ボタンを押す。

 ツーコールで通話は始まった。

『ミソラ?』

「フカミちゃん!」

 電話では頻繁に聞いているいつも通りの声だった。本当ならば、間近で直接聞いているはずだったのに。

『来てないからどうしたのかと思っちゃった』

「うん、ちょっと、ね。置いていかれちゃった」

 美空はスピーカーに切り替える。電波を経由し少しばかり変質してしまったフカミの声が部屋中に響き渡る。

「そっちはどう?」

『あんまり前と変わらない』

 風音が聞こえる。フカミは今どこにいるのだろう。思いながら美空はソファの上で膝を抱える。

 フカミは呟くように言葉を続けている。いつも二人で星空を見上げながら並んで話をするように。

 シンダンを受ける必要はないのだとホマレはみんなに言っている。それにあわせて、漁舎も農舎もみんな受けないと言っているようだ。大きな扉が開いて閉じた。扉の前、海の柱にも小さな舟がいつも通りに近寄っていた――。

 美空は目を閉じ想像する。青い空、エメラルドに輝く珊瑚と岩礁の島の海。足元の影は短く、濃い緑が落とす陰影もまた濃く深い。日焼けた島の人々は皆笑顔で、子供たち、美空と同じ面差しの少女もまた、日射しの中で笑顔を振りまく。

『ひげのおじいちゃんは島長とずっと話してる。もう、次だからって』

 すっと美空は目を開けた。思い描いた島は消えさり、音を絞ったテレビから、ベテラン芸人の耳障りな声が聞こえた。

『船が二つ一緒に来て、えぇと、ひきつぎをしてみんな片方に乗るんだとか、持っていくものがあるなら、いっしょにだとか、引っ越し先に何が必要だとか』

 返還の話だと美空は思う。自衛隊の基地になるのならば、船はODK沖ノ鳥島死刑囚収監施設維持団のものと自衛隊のものの二隻になるということだろうか。

 引っ越し先――小笠原に決まったのか。

『勉強会もやる予定なんだけど、集まらないかなぁ』

「みんな、出て行きたくないんだよ」

『え?』

 美空はテレビのスイッチを切った。スマートフォンから流れ出すフカミの声と風のノイズばかりが響く。

「フカミちゃんは返還に賛成なの」

 返還は、決まっていることで、掟の期限で、嫌だからとどうにかなるものでもなく。

 反対しているわけがない。島長の孫の立場でできるわけがない。頭ではそう、わかってはいた。

 コツン。スマートフォンが硬い音を伝えてきた。あのね。少しだけ聞こえ方が変わった声が部屋中に響いている。

『神様を見たよ』

 言葉が出なかった。

 かみさま。

 音のない声が美空の口をついて出る。

『すごく寒い場所に並んでいる柱だった。たくさんあった。ほんのすこし温かくて、だけどそれだけの、モノだった』

「はしら」

 巨大な円柱が脳裏に浮かんだ。正確には、直系二メートル、高さ十数メートルほどの円柱状の容器の絵だ。新戸の示した可能性から、調べた中にそれはあった。

 十分に冷えた原発燃料はエネルギーを消費せず自然対流により、安置という形で保管することが可能となる。その保管容器をドライキャスクという。円柱状の容器の中央に燃料を置く。燃料である放射性物質の自然崩壊により暖まった空気は上方へ抜け、下方から冷えた空気が流れ込む。保管に必要なのは倉庫と、対流を促すための送風設備のみ。

 ――新戸の読みはおそらく当たっている。

 フカミは静かに言葉を続ける。

『わたしたちは祟り神を眠らせておくため島に来た。掟の期限で見張る必要もなくなるなら、島を出ていく。それも良いと思うんだ』

 フカミの声が遠く聞こえる。

 島人達が出て行ったなら、島はどうなるというのか。自衛隊が駐屯する場所は、美空が行きたいと願う場所では、ない。

「全然知らないところに行くんだよ?」

 美空の声は震えていた。自分の声を自分で聞き、震えているとようやく気づいた。

『うん』

 そして、フカミの返事は落ち着いていた。

「生活も全部変わっちゃうかもしれない」

『そうかもね』

「島が嫌いなの? 島になんていたくないの? 出て行ったらもう」

 音のない声で美空は呟く――どこに還ればいいというのか。

『ミソラ』

 また少し、声が変わって部屋に響いた。

『嫌いじゃない。嫌いなわけがない。でもね。わたしも島のみんなも、島以外知らない。引っ越ししてどうなるかなんてわからない。マツキのいた部屋もこの黒い板も、カンリシツも知らない場所だ。いきなり周りがあんなになったらどうしていいかわかんないよ。ただ、わからないことを言い訳にして、髭のおじいちゃんや島長……おばあちゃんを困らせるのも違うと思う』

 言葉を返せなかった。フカミの言葉は正論で。けれど、美空は――嫌なのだ。

 神様が何であっても。そこがどんな場所であっても。

 視界一杯に広がる青い空、宝石のような色の海。刺すほども強い日差し。影は足元に凝るだけ。父がいて母がいて、同じ笑顔の少女がいる。そこには美空を迎える笑顔しかない――楽園。

『あと半年でカンリシャの役目は終わる』

 フカミの声は凛として部屋に響いた。

『古い掟も意味がなくなる。わたしたちは自由になる』

 じゆう。美空は呟く。

『わたしは神様よりも、みんなのほうが大事だ』

 ――自由、とは。

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