6-5-2

「移転て、本当の本当に、絶対なの?」

 カタンコトンと電車は音を立て続け、美空は紛れそうな声で問いかける。

 新戸は大荷物を抱えて出張なんだと、別のホームへ向かっていった。省吾とは同じ方面で、たまたま空いた電車の椅子に二人並んで腰掛けている。

 連休中日の夕方にさしかかる時間の電車はほどほどに混んでいて。美空は目の前に立つ男性の足下ばかりをじっと見ている。

 返還する。移転する。島を明け渡す。初めて聞いたときの衝撃が現実味を帯びて蘇った。夢でも幻でも遠い将来の曖昧な約束でもなく、目の前に置かれた事実として。

 その事実を美空は、見ないようにと願っていたのに。

「絶対だよ。島の人が移動したら、自衛隊の基地になるのももう決まっているんだって」

 省吾の声は静かだ。車輪が立て続けるノイズの合間から降るように聞こえてくる。

 美空は、精一杯に言葉を返す。

「島の人が嫌だって言っても?」

「嫌だって言っても」

「残るって隠れても?」

「探し出して説得するかな。自衛隊が来る前に」

 省吾の声はやっぱり静かで。静かに言葉を重ねていく。

「島の人たちにはね。戸籍がないんだ。日本にあって日本でない場所。完全な自治が成立していた。戸籍が無いから、憲法で定められた義務も権利も適用されない。島の人たちなんて、お役人にとっては存在しないも同じなんだよ」

 お役人。美空は口の中だけで転がした。それは谷村を陰で言うときのあだ名でもある。

 谷村の笑ったところを美空は思い出すことが出来ない。

「さすがにこんな国だから、殺されたりはないけどね。小さな山奥の施設に押し込まれて、閉じ込められたまま残りの生涯を過ごす、なんてことは十分あり得た」

 例えば、病気の人ばかりを押し込め閉じ込めた小さな小さな集落のように。例えば、犯罪者を留め置くための狭苦しい施設のように。海も山もそこにはなく。行動の自由は制限され、会いに行くこともままならず。倦厭され孤立し、交わることも難しく。

 美空は俯いたまま顔をしかめる。

「嫌だ」

「俺も嫌だったんだ」

 そこで言葉は途切れた。

 美空も返す言葉を思いつかない。電車の音ばかりが耳に残る。

「俺が船から下りたとき、高熱を出していてね。先生に抱えられていたかな。怜香さんが手伝っていた」

 先生とは孝志のことだ。怜香は省吾の養母である。

「集会場のような灰色の建物ばかりで、地面まで灰色で、死んでしまったんだと思った。お堂の扉の向こう側はこんな風になっているんだ。そんなことを思ったよ。幸い死んではいなくて、次に覚えてるのは病院だったんだけどね」

 美空は小学校に入学し考志と暮らすようになるまで祖父母と一緒に暮らしていた。祖父母の家はベッドタウンの端にあり、少し高い建物でさえ駅前に行かなければ見ることはなかった。

 東京の、今暮らす街の、立ち並ぶビルを初めて見たとき、抱き上げてくれていた孝志のシャツをぎゅっと掴んでいたように思う。そこは正真正銘、知らない街で場所だった。美空でさえ。

「見たこともないような服を着た子供たちがたくさんいる中に連れて行かれたり、そのうち勉強に行けと言われたり。夢中だった。いや、必死だった。この世界で生きなくてはいけないんだと必死になった。『日本人』になろうとしたんだ。そのうち、島がなんなのかを知った。帰りたくて、無理を言って船に乗せてもらった。そして、もう戻れないとも思った。それでもね」

 言葉を切る。盗み見た省吾の視線は、ほんのわずか遠くなる。

「島の人と監視員たちの橋渡しをする、島の人たちを守るのは、俺の役目だと思ったんだ」

 守る。美空は音にならない呟きを漏らした。

 フカミの笑顔が浮かんでくる。ショウゴのはち切れそうな笑顔が浮かぶ。シノの優しそうな顔が。島長の厳しそうな横顔が。島の医者、真っ白い笑顔の医者の手伝いの青年、姦しい女性たち、精悍な男たち。島の人々。ヨツバという女性の睨むような視線。

 省吾が守りたいと願うのは、『人』だ。

 そして、外国人たちの顔が浮かんだ。

「守ってほしいって思わない人がいても?」

 そうだ、と、直感めいて、浮かんだ。

 島長に、保守監視員に反対している。自分たちでやっていくつもりでいる。それは、差し伸べようとしている手を叩いて拒絶することだ。

 叩いて拒絶して背を向けて――どうする?

「美空ちゃん?」

 省吾の声が潜められたままではあっても、こちらを向いた。

「日本なんかいらないって言っても? 船が島に入れてもらえなくなっても? 例えば他の国の人になるって言い出しても?」

 見上げた先の省吾は、厳しく苦々しく、どこか辛そうな顔をしている。

「美空ちゃん。あの島は日本の領土で、住んでいる人がどこの国の人でも、それは変わらない。それに、保守監視員おれたちが入島できないと困るのは島の人たちだ」

「それは食糧とか服とかのこと? それを例えば、他から『もらう』ようにしたら? みんながそれを望んでいて、くれる人がいたら?」

「無償援助って言ってる? 見返りのない援助は続かないし、打ち切られたらそこで終わりだ。リスクが大きすぎる」

「でも、今までずっと」

「美空ちゃんの知らないところで、島はされているんだ。ずっとずっと昔、島に死刑囚を収容することが決まったときに、同時に国から補助金を出してもらうことが決まった。刑務所は国が管理するものだからね。けれどそれでは食糧、日用品、渡航の費用、東京側のスタッフの給料、それらを全部賄うには足りないんだ」

「足りない……?」

「足りないからって削れない。削れないなら、どうにかして調達してくる必要がある」

「調達……?」

 省吾はそこで大きく一つ息を吐いた。省吾の視線は手元で転がすスーツケースのあたりに向いた。ハンドルの辺り、何でもない場所を見ている。

「一〇〇年。約束の期間が終われば、補助金がなくなる。補助金が無くなったら、今の暮らしは続けられない。調達できる資金だけでは足りないんだ。だからあの島で、あの生活を続けることは、できないんだ」

 ――国が違えど日本の、文明の生活がどんなもんかを知らないわけじゃない。

 島から出たことのない、島の人たちであるならまだしも。外国人たちが『お金がかかる』事実に気づかないとは、思えない。

 島。美空は思う。

 拘るのは。未来永劫あの島で暮らしていくこと、などではなく。

 島――神様。

 だとしたら。

 ――神様を、どうするの。

 電車は音を立てて走り続ける。島からは遠ざかる方に向かっていく。


 *


 連休明けの月曜日。

 大手新聞の全国版で特集記事の連載が始まった。

 タイトルは『原子力行政、終焉から一〇〇年』一面左側を占め、ウェブ版でもトップに位置づけられるほど、力の入れようを思わせる記事だった。

 序章に当たる第一回。添えられたカラー写真は、小高い丘と丘の上の建物を下から見上げる構図だった。鮮やかな青と緑と南国らしい濃い陰影が印象に残るその写真は、美空が写したものだった。

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