6-4
登り始めたばかりの太めの月が淡い光を投げかける中、手元の灯を消して並んで歩く。時々草に足を取られたミソラが小さな声を上げるほかは草を踏む湿った音と波の音ばかりが響いている。
「みんな何か怖い顔してるし。もともと
「うん」
ミソラの訴えをフカミは言葉少なに聞いている。足元の僅かな陰影へ目を落としながら、そうだろうなとぼんやり思う。
もともとホシンは神様の遣いであり、関わってはいけないものだとなんとなく思っていた。それが白い服がなくなり、自分たちと変わらないものだと突然言われたとしてもどうして良いのかわからないのだ。とはいえ、それだけならば大して今までと変わらなかっただろう。
あっちの勉強会。フカミはぼんやり思い浮かべる。
髭のホシン――ソダの勉強会と同じく、シノの勉強会についても参加者は開催するにつれ減って来ていた。その分、農舎や漁舎の仕事が捗っているかと思えばそうでもない。ジョアンナやエリック、デニス、そしてどうやらホマレを中心に別の勉強会が開かれているらしいのだ。残念ながら、フカミは参加できたことはなかった。
数日前につけられた、けれども踏もうが抜こうがへこたれない草のために呆気なく消えようとしている轍を踏みながら、フカミは静かに口を開く。
「みんなね。ううん。みんなっていうか、ジョアンナとかホマレとかエリックとかはね」
うん? 相槌と草を踏む音が同時に聞こえてくる。
「島の返還とか移住とか、髭のおじいちゃんの言うことに反対してるみたいなんだ」
「えっ」
足音が止まった。フカミは促すように振り返る。同じ作りなのに水に映る自分の顔とは全く印象の違う顔の中、幾度もその目が瞬いている。柔らかそうな白っぽい頬は強張っているように見えた。
ミソラを視界の隅に入れながら海の方へと視線を戻す。月が照らす静かな海には横倒しになった柱のようなものがいくつも一列になって揺れている。見慣れた静かな海だ。
「反対って、島を出ないってこと?」
少し急いだ足音が、きゃっと小さな声を上げた。フカミの肩に重さがかかる。
フカミは重さの元を探して手を繋いだ。手を繋いで、追いついたミソラと二人、ゆっくり並んで歩き出す。
「島長の決めることは身勝手だ。ホシンは強引で島の人たちのことを全く考えていない。自分たちは自分たちでどうするかを決めるべきだ。掟なんてそんなものはホシンや島長の都合のいいように作り上げられたうそっぱちだ。一〇〇年がどうした。……そんな感じなんだ」
ヨットで度々島を抜け出すヨツバは神様の罰を受けていはいない。島人ではなかったはずのジョアンナ、デニス、エリックは穏やかに暮らしている。神の泉に落ちたはずのショウゴもフカミ自身も何事もない。それらが掟に反していたとしても。
「でも、おじいちゃんはちゃんと」
「もちろん、お母さんも勉強会はやってるよ」
「じゃぁ、なんで」
「それは、わかんない」
やがて道は行き止まりの広場に出る。左手には横たわる柱が穏やかに揺れる海、二人の影が前方斜め崖まで伸びて、右手には大きな扉。影を見ながら真ん中で自然と二人揃って足を止める。海へと向き直り、昇りゆく月を、穏やかな海を眺める。
「暑い季節を過ぎたら、十五になる」
うん。そうだね。ミソラの声が耳に届く。
フカミとミソラはもちろん、生まれた時は同じだ。
ミソラは頷き、同じように穏やかな海を眺めている。
フカミ一つ息を呑む。
「そうしたら、子供舎を出て、カンリシャになるんだ」
「管理者?」
ミソラが振り向いた気配がする。フカミは大きく頷いてみせた。
「そう。カンリシャ」
十五になると子供舎を出てそれぞれの舎にねぐらを移す。海の仕事をするなら漁舎に。畑の仕事をするなら漁舎に。医者の手伝いなら医療棟に。
「島長の子供がカンリシャになる決まりなの。今は島長……おばあちゃんと、お母さん」
ヨツバちゃんも。フカミは口を開きかけ、結局閉じた。
カンリシャは三人までと聞いていた。ヨツバがまだカンリシャであるのなら、フカミはなれないことになる。
「何の?」
「……なんの?」
フカミは目を瞬く。月明かりだけでもはっきりとわかるほど、ミソラは素直な疑問を浮かべてフカミを見ていた。
「管理者っていうのなら何かの管理をするんでしょ?」
「そうなのかな」
昨年辺りからフカミは子供舎の仕事を年少の子たちに引き継ぎ、いずれカンリシャとしてやることになる集会場の仕事の手伝いを始めていた。しかし、カンリシャのと言ってもまだまだ掃除やら使い走りやらが中心で、しかも近頃は農舎の手伝いが多かった。『カンリシャ』とは何なのか、フカミはまだ知らされていない。
管理者、かぁ。ミソラは、呟く。くるりと背後を振り返る。フカミも釣られるように振り返った。
視界いっぱいを占める巨大な扉が、青白く月の光を跳ね返している。ホシンの白い船が着いたときだけ開く扉だ。
「例えば、シャッターの向こうにある物を管理するとか」
「この扉の、向こう?」
フカミがこの扉――ミソラの言うシャッターの向こう側を見たのはただの一度きりだ。子供の頃、ショウゴとミソラが閉じこめられていたあのとき。二人を出すために開けたあの一瞬。もう何年前になるか。
うん。ミソラは、頷いてみせる。
「シャッターの向こうにはね、放射性廃棄物っていうのがあるんだって」
フカミは影に沈むミソラの顔をただ見返した。
「それは、なに?」
ミソラは、わずかに首を傾げる。えぇと。思い出すように間を置いたあとでようやく口を開いた。
「すごく良くないものの傍にあって、良くないものになってしまったもの、かな」
「よく、わからない」
「茄子のお味噌汁は茄子の色になっちゃうみたいな」
茄子を使った料理は茄子の色が移る。そういうこと、だろうか。
「多分」
ミソラもわかっているわけではないらしかった。付け加わった言葉に思わず笑みを漏らしながら、再び揃って扉を見上げる。
「この奥にあるの?」
「この奥の、もっと奥。もう一個大きな扉があって、きっと、その奥」
覚えている扉の奥は広く大きな空間だった。涼しい空気を覚えている。その奥に扉が。フカミには奥の暗がりの向こうにあるものなど覚えはなく。ただ扉があることを想像するほか無かった。
外側の大きな扉の上には医療棟が建っている。その向こうには子供舎が。中の扉があるとしたら、闇で見通せない位置になるはず。例えば、子供舎の下の辺りだろうか。
――そんな奥にあるとすれば。
「神様……?」
ミソラがぱっとこちらを向いた。繋いだままの腕が引かれる。
「そうかも!」
その声は、弾んで聴こえて。けれどフカミはわずかに首を傾げてみせた。
「それは、怖いもの?」
「え?」
影になったミソラからはそんな声が返ってきた。
「怒らせたら怖いもの?」
「……えぇと。怒らない、と、思う」
神様は怖いモノだ。そう、島には伝わっている。とても怖いもの。人が扱ってはいけないもの。触ってはいけない、起こしてはいけないもの。眠っているもの。未来永劫。
怒らないならばきっと違う。フカミは思う。それが何かを分かったわけではないけれど。
ミソラは黙り込んでしまった。俯いているようだった。
フカミは長く息を吐く。わからないことはわからない。わからなければ仕方ない。
もう後半年も経たずフカミはカンリシャになる。カンリシャになってどうなるか、変わるのか変わらないのか、フカミにはわからない。けれど、それを不安がってもしようがないのだ。
神様も。一年後、この島がどうなるかも。
ミソラの手が、ぎゅっとフカミの手を握ってきた。
「神様がなんでもね」
「ん?」
「私はね、この島はこのままが良いと思うの!」
それは、髭のホシンの勉強会にも、シノの開く勉強会にも反することで。
「――そろそろ戻ろうか」
フカミは応えを返せなかった。
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