6-3

 いつもの通り島に着くと、船の中で検診車に乗り込み山の途中まで楽をする。医療棟の横で降りて集会場までは皆で歩いて五分ほど。

 検診車から降りた美空を襲ったのは、まるで夏かと思うような島のいつもと変わらぬ日射しだった。東京では、早咲き桜の便りが届き、気の早い菜の花畑がローカルニュースの一面を飾る頃。桜の便りも早すぎるようなそんな時節だというのに。

 さらりと優しい風が心地よく頬を擽る。汐と草の青さが辺り一面に満ちている。波の音が山の上にまで響き、どこかで高く海鳥が啼いた。通勤通学ラッシュの人いきれもない。クラクションも電車の音もエンジンの音もモーターの音も、人工的な音など何処にもない。見上げる先にあるのは茶と緑と青と白。それぞれの色のグラデーション。島に来たんだ。美空は深呼吸を繰り返す。息をしている、気がする。

「行くよぅ」

 一行の最後について歩き出す。食堂を出てきた人たちは目を合わせる前に目を逸らした。好奇心むき出しの子供達は洗い桶に足を突っ込んだまま一行を見送った。一行を見て明らかに背を向けるもの、視線を合わせずけれどこちらを窺うもの。目を逸らす直前に確かにこちらを睨むもの。

 ――なんだろう?

 ホシンは神様の遣い。島人とは違う存在。そう言った理解の下で、もともと腫れ物を扱うような態度ではあったのだが。

 美空はあちらこちらをよそ見しながらいくつもの視線を感じながら、坂道を登っていく。


 三日目の仕事を終えて船に戻る。防護服より遥かに楽になったとはいえ暑くて重い作業着をようやく脱いで部屋着になる。それから食堂へ向かい夕食を摂る。

 松木が作業を切り上げる時間は一定で、一緒に行動する美空もいつも同じような時刻に船に戻ってくる。暗くなると灯が乏しい島だから、設備の点検や家屋の修繕を担当する作業員たちはすでに戻っていることが多い。対して、曽田や谷村、美空の父の孝志などはその時々で戻る時間は違っていた。

 美空は文句を言いまくるお腹に急かされ食堂へと足早に向かう。食堂手前の休憩コーナーに曽田と谷村、作業員のまとめ役を務める宮尾の姿を認め首を傾げながら食堂へと入っていく。休憩所で、というのはなかなか珍しい組み合わせだった。

 いつも通りの美味しい食事にお腹はようやく文句をやめた。下膳して食堂を出る。休憩所の面子はといえば、増えていた。

 父であり医者である孝志に、省吾、そういえば食堂へ姿を表さなかった松木の姿もここにあった。

 一歩下がった場所で足を止めた美空へ、曽田はちらりと視線を投げたがそれだけだった。

「通年なら、八割ほどが済んでいるのですが、今のところ三割ってところですかね」

 発言したのは立ったままの孝志だった。美空の目の前の背中が動く。啜る音が聞こえてきたから、カップ自販機のお茶でも飲んでいるのだろう。

「間に合うか?」

「検診の時間自体は、まぁ。ただ、そもそもボイコットされてるみたいで。強制するなら別でしょうけど」

 強制はしたくないなぁ。孝志は呟くように続ける。

 曽田は孝志の方を見遣り、組んだ腕を上下させるほども深々と息を吐いた。

「ボイコット、ね。こっちと同じだな」

 こっち。美空は曽田を伺う。そういえば今日は島人を集めての対話会をやると言っていた気がしたのだが。

 対話会があるとしたら、島の人々の夕食後――今時分だっただろう。

「あまりにも暇だったんで、シガラキくんとこで雑談してたんですが。デニスさん、ですかね。噛みつかれましたよ」

「医者だったという彼かい?」

 そうです。孝志は頷いて見せる。

 医療棟の外国人。美空の脳裏に、少しばかり小柄な、気難しそうな顔が思い浮かんだ。

「定期検診だけして、島には医療設備も薬もない。データばっかり取るだけ取って、お前たちは何をしてるって」

「そりゃぁ、契約の話だからなぁ」

 契約?

 美空は曽田の様子を窺う。曽田はソファにどかりと座り、腕を組んだまま口を開け天井を見上げている。谷村に視線を移す。こちらは眼鏡の奥の細い目をどこかへ見据えひたとも動かすそぶりはない。孝志の横顔を見上げてみる。困った風ではあったものの、いつもと特に変わる様子は感じられない。松木は美空のところまで漂ってくる甘い香りに目を細める。宮尾は熱そうに茶をすすり、美空に気づき、眉だけ上げて見せてきた。

 省吾はずっと腕を組み難しい顔を続けている。

「そのデニスさんって人、腕はいいみたいですね」

 省吾は孝志を見、曽田へと視線を動かした。

「子供の数が増えてます。シノさんが言うには流産、死産、突然死が減ったとか。この人数では、気持ち、の程度ですけど」

 省吾は今日は集会場に詰めていた。正確な名簿を作る必要があるのだと、シノの記録と突き合わせる作業をするのだと言っていた。

「手術までやってみせたそうじゃないか。みっちゃん、言ってたぞ」

 みっちゃんとは、島長であるミツのことだ。手術だったのかどうかはわからなかったが、ずいぶん前にフカミも電話でそんなことを言っていたか。前回島へ来た、それより以前。夏頃のことだったか。

 曽田は美空と目を合わせる。口の端でにやりと笑んだ。そのまま孝志へ視線を移す。美空は思わず曽田を見返す。その笑みの意味はどう取ればいいというのか。

「スミという女性でしたね」

 孝志の顔が省吾の方へとちらりと動いた。省吾は小さく頷いてみせたようだった。今度は宮尾の方を向く。宮尾は天井の辺りへ視線を彷徨わせ、乱暴に頷いた。

「なら、戻ってから調べることにしましょう」

「本当なら契約違反ですな」

 谷村の声にはいつも通り感情が乗らない。低く静かに抑えた声だ。

「まぁねぇ。だけど、知らないんだと思うんだよねぇ。知ってて無視してるのかもしれないけど」

 曽田はのんびりと返し、紙コップへと手を伸ばした。

「関係者以外入島禁止が先にあって、事実今まではそれで機能してたし。みっちゃんには仕方なかったって聞いてるけど」

「外国人たち、ですよね」

 遭難し、助けを求めて上陸した。島の一員になることを承諾し、島人と共に暮らし始めた。もう三年にもなる。海の知識を持っていて、畑仕事にも精通し、十分な医療技術を身に着けていて。

 まるで、島人になりに来たかのような三人。

「こればっかりは、主張を鵜呑みにはできんなぁ」

 曽田は茶をすする。もう十分に冷めているのだろう。美味しそうには見えなかった。

「けれど、彼らは十分島に馴染んでいますよ。目的がどうあれ」

 曽田の空カップを受け取ると、孝志は自身のカップと重ねた。自販機の脇の専用ゴミ箱へと向かう。

「目的ねぇ」

「そういえば、今回もシャッターが開けられたみたいです。四回ほど。ね?」

 三年前と同じ『パターン』がログには記録されていた。そして、最近取るようにした操作ログでも。

 松木に視線を投げられ、美空は思わず目を瞬く。

 谷村の鋭い視線が飛んできた。孝志は少し驚いたように振り返る。省吾はわずかに目を見開いた。今気がついた、そんなふうに。

 美空は慌てて大きく頷いた。松木と一緒に確認した。

「もちろん、シャッターだけですが」

「シャッターって言っても、冷凍庫と廃棄物保管庫だろ?」

 曽田は宮尾へ振り返る。宮尾は当然と頷いた。

「そんなものどうするってんだ」

 これには宮尾は肩を竦めて見せただけだ。

「なんにせよ、島人は立入禁止の場所です。島長には言って……」

「そらぁ無理だ」

 谷村の静かな声を曽田は大声でかき消した。

 メガネの奥の細い目をさらに細めて見上げてきた谷村の視線を、曽田は軽々と何でもないとばかりに受ける。

「シャッターを開けてるのは外国人で、みっちゃんが言っても聞くわけがない。反島長勢で、反日本勢というわけだろうさ」

 反島長勢。美空は口の中で言葉を転がす。それは一体、どういうことなのだろう?

「反日本でも、泣いても笑っても返還が気に入らなくても何か企んでいたとしても、あと一年です」

 谷村は話は終わりとばかりに立ち上がった。カップを投げるかのように捨て、自室の方へ歩き出す。

 ぐぅと大きく腹の音を響かせて、松木はため息を零しながら食堂へと向かっていく。美空の頭に一度手を載せ、孝志が松木のあとに続いた。

「フィリピンなぁ。きな臭いねぇ」

 外国人達の母国である。

 宮尾は人差し指と中指を伸ばし口元へ近づけ離す。宮尾の仕草をみた曽田は、重そうな腰をようやく上げた。二人揃って廊下の角を曲がっていく。美空は迷って付いていくのはやめておいた。喫煙者同士の会話に入っていくのは環境的にためらわれた。

「フィリピン」

 残ったのは省吾と美空の二人だった。美空は少し考えカップ自販機でお茶を選び、省吾のためにコーヒーのボタンを押した。

「この前、大きな事件あったよね」

 美空はテレビで見た特集を思い出す。冬休みが明けたあたりだったから、二ヶ月ほども前になるか。

 あの事件の関連なのか新戸が長期で出張なのだと、柳瀬はつまらなそうに言っていた。

「テロ事件だね。原発が乗っ取られかけた。結局、軍部の特殊部隊の活躍で原発は解放されたようだけど」

 美空の持ってきたコーヒーを省吾は小さく礼を言いつつ口元へと運んでいく。

 美空は特集を見て以来、なんとなくニュースも気にしていた。犯行声明を出したのは少数民族に基盤を置くテロ組織。目的として、原子力発電所――エネルギーの奪取と、北部の独立を掲げていた。軍の特殊部隊の活躍で原発を追われ、本拠とされる町を包囲され、散り散りになり実質消滅したと解説委員を名乗る男性は言っていた。とはいえそれも、一月ほども前の話だ。

 ここ最近は関連するらしいニュースは流れてこない。

「まだ逃げてる人いるんだったよね」

「そうだね。首謀者は捕まってないって」

「関係あるのかな」

 省吾はふいと美空を見る。美空の頭を乱暴になでた。

「関係あるとしたら相当年季が入ってる。偶然だよ、きっと」

 撫でられながら美空は思う。三年という時間は長いのか、短いのか。――美空には判断できない。

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