6-2

 農具をすっかりしまい終えるとお腹が大きくぐぅと啼いた。フカミは大きく息を吐き西の斜面を見遥かす。枝を揃えられた果樹、眠りに付きそうな葉物野菜、明日にははちきれるぞと言わんばかりの野菜たちがそよ風に揺れてる。

 ホシンが訪れる時期の合間、明け方には寒いと思うこともあるくらいには涼しく、空が少しばかり穏やかなこの時期は日暮れも少しばかり早かった。もたもたしていると日が落ちてしまう。真っ暗になってしまえば戸外の仕事などできるはずもなく、つまり、少しばかり作業を急がなくてはならない時期であるとも言えた。

 それなのに。

 農舎の他の面々はすでに作業を切り上げていた。フカミが残ったのはやり切れなかった後始末のためだった。一人でも事足りるが、逆を言えば、もう一人、二人いれば一人で残ることもなかった。

 再び抗議の声を上げた腹をさすりながらようやくフカミは歩き出す。シノの勉強会が開かれているはずの集会場も気になるが、まずは食堂へと向かっていく。

 シノの勉強会は『日本』とは、『本土』とはどんなところで、一〇〇年が過ぎたあと、どうしていくのか、どうなっていくのかを知るためのものだった。曽田に一〇〇年後のその先のことを問われてから、五日に一日程度、開会されている。日本とはどのようなところか。日本と初代との関係。子供に聞かせる物語よりもう少し細かく、自分たちが入っていく社会について、シノは語り聞かせるように授業する。

 参加するかどうかは自由だった。忙しかったり、興味が無ければ出席せずとも構わない。ただ、今のところは参加する人が多いようだった。――少なくとも、農舎では。

 フカミも聞きたいとは思っていた。しかし、多分、聞いても仕方がないともまた思っていた。ミソラとの会話の中で聞こえてくる『日本』。マツキと会ったあの部屋、ケンシン車に白い船、声が聞こえる黒い板――聞いたとして、教えられたとして、想像しきれないものばかりだということもまた、知っていた。だから一人、後片付けを引き受けた。

 集会場のすぐ裏の西向きの斜面を大きく回る。北側の頂上へ続く道に出る。程なく集会場の入り口の扉が見えてきて、横目で見つつ、食堂へと降りていく。

 わずかに漏れる灯りにホッとしながら食堂のドアを引き開けた。

「フカミちゃん、仕事終わった? お疲れ様」

「遅くなっちゃってごめんなさい! まだある?」

「もちろん。取ってあるよ」

 賄い担当は一人分のトレイを差し出し、ホコリ避けの布巾を取った。トレイを受け取りフカミは手近なテーブルに着く。

「これだけ洗えばいい? ほかにすることある?」

「ないよ。使ったものだけ洗ってくれればいいから」

 よろしくね。言いおいて賄い担当は慌てて食堂を出ていった。少し遅れたが勉強会に行くのだろう。

 玄米ご飯、青魚の塩焼き、青バナナの炒め物、葉物野菜のおひたし、タマネギの味噌汁。フカミが来ていないことに気づいてくれて取っておいてもらった夕飯はいつも通りに美味しかった。多人数が同時に食事出来る狭くはない食堂の中、フカミの使う箸の音だけが響き渡る。冷えた一人分のご飯を掬う。冷たくなったお味噌汁をすする。ほんの少しだけ心も一緒に冷えていく。

 片付けを終えて食堂を出る。あたりはすっかり夕日の色に染まっていた。子供舎の陰、集会場の陰は闇に沈み、夜の気配を濃く漂わせている。

 フカミは自身の影を目で追いながら東の空へと目を向けた。青から藍に染まり始めた空には早くもミソラが大好きだといった星々が輝き主張を始めている。正面から吹き付ける風は涼やかで、星々を隠し赤く染まるような雲もない。明日も晴れそうで、つまり作業も沢山できる。フカミは気分を変えるようにと大きく一つ伸びをした。

 子供舎へと足を向ける。みんなも程なく戻るだろう。立て付けの悪い風よけにしかならない扉を引き開けて、魚油ランプに手を伸ばす。そこで油の残りに気がついた。

 影に沈む室内はよく知ったとおり散らかっている。取り込んだまま放置された洗濯物が山を作り、子供の布団が避けただけの体で丸まっている。今は授乳年齢の子供が多い。舎母も多いが、それで手が足りるわけではない。大人の目の届きにくい上階の、一人寝のできる子供のねぐらがもっとひどいのは、毎朝毎夕見ている通りである。

 ショウゴでもとっ捕まえて子供達の首根っこをひっ捕まえて掃除やら何やらしたいところだが、フカミの方にするだけの余裕がなかった。

「油、取ってくるか」

 漁舎には灯があった。先ほど見た景色の中でぽつりと光が灯っていた。人がいるなら貰えるだろう。帰る時分にはすっかり暗くなっているだろうと思いはしたが、夜中に灯が切れるよりマシだ。

 油入れとランタンだけ持ち、フカミは漁舎へ向かい坂を下る。


 聞こえてきた声に気づいて手を止めた。なんでと思い、思っても仕方がないと扉の取っ手へ手をかけ直す。

 扉を引く。慌てたように振り返ってくる姿は十ほどもあった。エリックとヨツバ、漁舎の男が二人。デニス、ジョアンナ、そして、ホマレをはじめ農舎の顔が四。全員もれなく驚いた顔を見せた。

「フカミ、なんで」

 ホマレは目を丸くして、瞬きながら口を開く。

 それはこっちが言いたい。口を開きかけて慌てて閉じた。日が傾いたあたりから畑の何処にも見えないと思っていたが、それを言っても仕方がない。少しばかり硬いかもしれなかったが、フカミはいつもの笑みを作ってみせる。

「子供舎の油が無くなりそうだったから」

 油入れを掲げて見せれば、漁舎の一人が曖昧なため息を吐きつつ受け取った。面倒だとでもいいたいのか、それとも別の意味でもあったか。フカミには計れなかった。

「勉強会には行かないの、次期管理者さん?」

 ヨツバは、冷たい声で見下げるような視線を投げてきた。視界の片隅、ホマレは明らかに嫌そうな顔をしている。デニスは無関心とばかりに視線を逸らし、エリックは油を入れるのを手伝っている。ジョアンナは成り行きを見守るようにこちらを見ている。

 フカミは知らず息を吐いた。

「農舎の作業小屋、片付けるの遅くなっちゃったの。途中で入るのも半端になりそうだったし」

 子供を産み、子供舎へ居を移している者もいる。途中で抜けられ思っていたより時間が掛かったというのもある。人が少ないから片付けも時間がかかったのだとは、流石に言葉にはしなかった。

 ホマレはうろたえた顔をした。視線をあちらこちらにさまよわせ、フカミと視線を合わせない。農舎の他の三人はなんだか気まずそうに顔を合わせている。そしてジョアンナは肩を竦めていつもの調子で口を開いた。

「抜けテ、ごめんなさイ。明日、やる」

 特別すまなかったとも、逆になんとも思ってないとも思わせない。ただ事実を認めただけの言葉だと思った。うん。フカミもただ頷く。サボったとか仕事をしないとか、何故ここに居るのだとか、そのためにいろいろ遅くなったのだとか、今言っても仕方が無い。

「油、足りるか」

「ありがとう。大丈夫だと思う」

 男から容器を受け取ると、少しだけランタンに移し火を灯す。

 十人の目がフカミの一挙手一投足を見つめているようで。ほかに言葉もなく居心地も悪くて、フカミは早々に漁舎を出る。

 僅かな時間で、空はずいぶん闇色を濃くしていた。集会場の辺りはすっかり暗くなり、僅かに白い光がチラリチラリと見えて、消えた。それでもまだ、周囲を見ることくらいはできたが、すぐに闇に沈むだろう。フカミはランタンを足元に掲げて歩き出す。砂浜から土の地面へ。坂を中ほどまで登って振り返る。漁舎の明かりは相変わらずで、寝る頃には農舎へ戻るのだろうジョアンナやホマレが出てくる気配はなさそうだった。

 視線を戻そうとしてふと、水平線に目を向ける。何やら小さな光が見えた。十分遠いが、星の明かりとは少し違う。

「船?」

 しかし、ホシンの船が来る時期ではない。

 何だろう? 思うが誰が答えてくれるわけでもない。

 ミソラならわかるだろうか。思いながら、フカミは道へと視線を戻す。勉強会を終えそれぞれのねぐらへ戻る人々とすれ違いつつ、坂を上る。


 *


 翌日から、ホマレもジョアンナも仕事の途中で消えることは少なくなった。

 フカミも参加出来るようになる頃、勉強会の参加人数は目に見えて減り始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る