5-5

 写真を収めたメモリカードを受け取ると、新戸は自身のタブレットに読み込ませる。細い目をさらに細めた後で少しばかり頬が緩む。横から覗き込んだ柳瀬はさっそく小さく歓声を上げた。

「これが沖ノ鳥島?」

 集会場から東の湾を見下ろし撮った。フカミに教えられて登った屋上から、西の畑をメモリに収めた。南の医療棟を、北に広がる大海原を。

「この子、内山さんそっくり!」

 フカミは興味津々で覗き込んで来たところを撮った。食堂へ入っていくのは漁舎や農舎の人々だ。

 松木や父親、曽田や省吾。船の人々には気づかれないように気をつけた。慌ててしまったり隠したりもないわけではなかったが、概ねぶれたりせずには撮れたと思う。

「キレイ……!」

 夜にはカメラを上に向けた。美空が島で特に好きなもの……満天の星空だ。こちらはブレずに撮ることに少しばかり苦労した。

「さすが南国だね」

 タブレットの画面を示してくる。水平線に近いあたりにひし形に並ぶ星がある。

「これ?」

 新戸は柳瀬の問いと美空の疑問顔に頷いた。指が星を繋いで十字に動く。南十字。

「南半球の星座で、船乗りたちが方位を知るのに使ったというね。南に行かないと見えない。日本で見える場所は沖縄だけ。しかも小高い場所や開けた場所である必要がある」

 南。美空は呟く。

 東京から二昼夜かかる。三月でも九月でも真夏のようで、冬を感じることもない。

 沖ノ鳥島――日本最南端の島。絶海の孤島。

 美空は思わず腕を抱く。一瞬鳥肌がたち、やがて静かに抜けていく。

 今までそこは、やたらと時間がかかる遠いだけの場所だった。

 実感が知識と結びついた。

「いいデータをありがとう」

 新戸はタブレットを手元に引き寄せる。メモリカードを返してきた。

「コピーさせてもらった。こっちは返すよ。美空ちゃんにとっても大切な思い出でしょ?」

 そして。さて、と、姿勢を正した。こちらの番だね。

「俺が調べてわかることは、全部省吾や美空ちゃんのお父さんなら知ってることだと思っていい」

 休日の午後のファミレスの喧騒の中でも、張り上げずとも新戸の声は十分に通る。

 美空は頷く。新戸の目を見て、先を待つ。

「俺にできることは、事実や物事に対してどう考えるかのコツと、省吾なんかにゃ当たり前すぎて聞きづらいようなことを教えてあげること。まぁ、昔の新聞記事漁りなんかも仕事柄得意だけどね」

 美空は、頷く。

 新戸も頷いて返した。

「じゃあ、結芽ちゃんもいるし、最初から行こうか」

「最初から」

 新戸は口元だけでにまりと笑んだ。

「沖ノ鳥島の歴史から、さ」

 新戸は少しだけ身を乗り出した。自身の端末を操作して、二人が見えるようにと向きを変える。

 数字と出来事が並んでいる。美空は柳瀬と目を合わせ、新戸を見上げる。新戸はおもむろに口を開いた。

「沖ノ鳥島の発見は一五四三年とされているね。発見したのはスペインの船。その後何度か外国の船に発見されている。とはいえ、島というより、礁――サンゴ礁といえばわかりやすいかな――そんなものだとみなされていた。

 正式に測量して、島として扱ったのは一九二二年。大正十一年だな。日本の海軍だった。その後で沖ノ鳥島と命名され、日本の海図に記載される。

 太平洋戦争後のアメリカ統治、小笠原の返還に伴い沖ノ鳥島も返還されている。世界的に、日本の領土と認められていた、といえる」

 新戸の指が動く。画面が変わる。見慣れた世界地図の中の小さな日本の遥か南。何もない一点を指した。ここらへんだ、と。

「雲行きが変わったのは一九七七年の領海法。日本は海洋資源のためこの孤島を手放すことができなくなったと言ってもいい。そして二〇〇四年、中国が岩であると主張を始めた。

 実際岩か島かは『高潮時でも海面上にあるもの』『自然形成されたもの』『人間の居住ができること』こんな感じの定義で定められている。そして当時の沖ノ鳥島は、侵食を防ぐための防壁が作られただけの岩にしか見えなかった。

 しかし、日本としては岩であると言う主張に頷くわけにはいかなかった」

「りょうかいほう?」

 呟いたのは柳瀬だ。新戸は柳瀬に視線を向け頷いて見せる。

「国と国とが取り決めた法律の一つだよ。領土の海岸線から二〇〇海里、三七〇キロメートルくらい沖までは、排他的経済水域っていって、漁業だとか、海底資源だとかを独占していいって取り決めたんだ」

「それって、ポツンって島があったら」

「そう。島の周り全部、丸ごと占有していいってことだね。で、沖ノ鳥島から二〇〇海里というとね。ほぼ円を描けるんだ」

 新戸は端末画面で円を描く。南大東島、硫黄島。近いといえるはずのどちらも遥かに遠く、二〇〇海里の線どうしがようやくわずかに触れるだけだ。

「沖ノ鳥島が島でなくなると、この、ほぼ円を描く排他的経済水域がごっそりなくなってしまう。そこで、灯台をたて、桟橋を作り、『人間の暮らす文化圏にある』と主張した」

 新戸は、一度言葉を切る。コーヒーカップへ手を伸ばし、下目使いでありゃと呟く。すかさず柳瀬が立ち上がった。

「取ってくるね」

 悪いねと、小さな声が美空に届いた。

 美空は新戸が広げたタブレットの画面に見入っていた。切り替えた次の画面を幾度も見返す。青く美しい海に浮かぶ丸く広いコンクリートの皿、その中心には何かがあるように見える。

 この画は知っている。遠くからの撮像を無理矢理拡大した粗い画像を。衛星からの写真を。新戸の用意した写真は、そのどれよりも美しい青を従えていた。

「沖ノ鳥島」

 新戸は画面を拡大する。海洋部分が画面の外に追いやられる。灰色のお皿が全面を占め、中央に突き出た岩のようなものがあると、ようやくわかるようになる。

 美空は、頷く。

「これを島だって言われても俺も疑問だけどね。国としては島である必要があった。波に削られないように護岸を作って、自然物のまま残そうと努力した」

 柳瀬がトレイを持って戻ってくる。新戸は礼を言いつつまだ熱いコーヒーをゆっくり一口、口に含む。

「美味いね。さて、続けようか」

 柳瀬が落ち着くのを待って、新戸は端末画面を切り替えた。南シナ海、と画面にある。

「そして、島の命運を決める出来事が二つ起きた。

 まず、中国が南シナ海の他国との境にあった岩礁を埋め立てた。軍隊の基地ではなく、民間人を住まわせた。この島は中国の領土であり、侵略ではなく、移住しただけ。そう主張した。これはその後の紛争の引き金となったのだけど、それは省略するね。大事なのは、埋め立てて島にするという方法を他国が取ったということだ。そして、原発の事故が起きた」

 美空は頷く。柳瀬ももちろんと頷いた。

「事故そのものは島には直接関係ない。関係があるのは、原発の周辺の土地を人が住めるものにするために大量の土を取り除く必要があったこと、その取り除いた土の始末に困ったことだ」

「土」

 去年、省吾と図書館を訪れた後で、美空は原発の事故の映像をいくつか見ていた。事故をまとめた特別番組や、ドキュメンタリー映画など。アーカイブがあるものに限られたうえ、正直美空には難しかったが。

 それでも、結び付くものはあった。作業員やマスコミや、帰郷する人々。画面に映る人々が着ている――防護服。

「誰が言い出したかの記録は残ってない。ただ役所のお偉いさんは始末しなくてはならない土で、汚染影響が最小になるような場所に人が住める島を作ろうと考えた。

 事故から十年。人々の注目が集まらないうちに岩礁は埋め立てられた。大量の土を盛り、土地を作った。丘ができた。見た目には文句の出ない島になった」

 美空はゆっくり、頷いた。

 船の泊まる湾から集会場までは結構な急坂が続く。島の西、集会場の向こうには畑が海まで広がっている。湾と山で構成された小さな島。そこに六〇を超える人々が暮らしている。

 船が近づくと水平線に島影が見えてくる。影をじっと見ていれば徐々に大きくなっていく。遠くからでもわかる、立派な島だ。

「土地はできた。次は『住む人』だ」

 新戸は続ける。次の画面には、地図があり。『一七〇〇キロメートル』と書き込みがあった。

「人が住むために取り除いた土でできた島だ。住みたい人なんかいやしない。もとより南海の孤島。滑走路が作れるほど広くないから飛行機は飛ばせない。ヘリコプターでは遠すぎる。船なら二日近くかかる。硫黄島のように基地を作ることも考えた。けれど基地では外聞が悪い。もっと胸を張れる理由が欲しい……と思ったかどうかは知らないけどね」

 新戸は言葉を切った。コーヒーで口を湿らせる。

「ところで」

 美空を見、柳瀬を見る。

「死刑執行を決めるのは誰か知っているかい?」

「え?」

 美空は思わず目を瞬く。

「裁判所?」

 柳瀬は首を傾げて見せた。

 まだ早いかなぁ。新戸は呟く。

「死刑だと決めるのは裁判所。死刑に決まった人が実際に執行されるかどうかを決めるのは、法務大臣なんだ」

 ほうむだいじん。美空は呟く。ニュースで見たような気がしなくもないが、ピンとくるものではなかった。

「凄く偉い人よね?」

「偉いかどうかはなんとも言えないけど、日本という国をどうするかを決めるような人だね」

 柳瀬へ返し、美空を見る。美空はそういう人もいるのだと曖昧に頷いた。正直なところ、よく知らない。内閣総理大臣なら、何人も何人もテストのために覚えさせられた気もしないでもないが。

「死刑が決まっても、大臣が決めないと実際に執行はされない。死刑執行をしない大臣もいるくらいだ。結果、執行まで何年もかかる人もいる。死んでしまっては取り返しがつかないから、疑わしい人で執行されずに獄中死、なんて例もある」

 美空は惰性のように相槌を打つ。それが一体、何に関係するというのか。

「これも明確な記録はないが、言い出したのは時の法務大臣だった、なんて説もあるんだ」

 新戸は言葉を切る。もったいをつけるようにコーヒーをすする。

「死刑囚の収容施設を作っちまえばいいんじゃないかってさ」

「あ」

 曽田は確かに言っていた。死刑囚収監施設維持団。

「収容施設?」

「死刑が決まった人には、いわゆる『お勤め』はない。けれど、自由にしていいわけじゃない。刑が執行されるまでいてもらう。そのための施設さ」

 新戸の視線は疑問を発した柳瀬に止まり、ほんの少しの笑みに変わった。一拍おいて美空に移ると、口の端だけで笑んでみせた。

「執行をせずともいずれ死ぬ。死んでも病気でも保障は要らない。人が生活していれば生活圏と胸を張れる。コストも大して変わらない。脱走の心配もない。なんせ半径三〇〇キロ以上人の住む島はないんだからね」

 美空は紅茶を黙って啜る。冷え切った安い紅茶はただただ苦く感じられる。

 フカミからいつか聞いた。島には掟があるのだと。

 入ってはいけない、出てはいけない――一〇〇年間。

「一〇〇年」

「ん?」

「一〇〇年、って言われてるんです。掟を守らなくてはいけない期間」

 新戸は一瞬間を開けて考えるような顔をした。つまり、報道された内容ではないのだ。

 そうだなぁ。腕を組み天井を睨んだ新戸はゆっくりと美空へ視線を戻す。

「物事には何でも理由がある。そう決めた人がいる。一〇〇年にも理由があるはずだ」

 新戸は人差し指を立てて見せる。一つ。

「例えば、島の土の放射線量が十分に下がる時間として、一〇〇年を考えた」

 続けて中指を立てる。二つ。

「国際法上、島として認識される期間として、一〇〇年を考えたのかもしれない」

 そして、薬指を。三つ。

「刑期、なんて可能性もあるかな」

「刑期」

 呟く美空へ、頷いた。

「日本の無期刑は実際には『死ぬまで』の意味じゃあない。『期限が決められていない』の意味で、態度によっては社会復帰可能だ。が、一〇〇年の有期刑を考えたら、それは『死ぬまで』の意味では十分な時間だろう」

 もしくは。呟きかけて新戸は、緩く首を振りつつ口を閉じた。


 新戸は別の用事があるからと会計を済ませて言葉ばかりは謝りながらファミレスを出て行った。美空は自身の端末に新戸からもらったデータを表示させる。

 説明に使ったファイルに新聞記事、雑誌記事、紙の資料を納めた写真。知っている事柄も含まれていたが、読むだけでもかなりの時間がかかりそうだ。

「歴史ばっかりで終わっちゃったね」

 柳瀬がトレイを置いた。美空の分のカップも乗っている。ありがとう。ソーサーごとテーブルに移動させ一緒に持ってきてもらったティーバックを湯に浸した。

 美空は緩く頷いた。知っていたこと、知らなかったこと。聞きたいことは聞けていないが、まだどう聞けばいいのかもわからない。

「どんな事聞きたかったの?」

 メロンソーダの香りを振りまきながら、柳瀬は美空を見上げてくる。柳瀬の手元では、『ホシン』に興味のなさそうな外国人女性が整った横顔をさらしている。

 女性の横顔をちらりと見遣り、美空はティーバックからにじみ出る紅茶色へと目を落とした。迷いながら口を開く。

 たぶん、言うとすれば。

「神様って、何なのかなって」

 柳瀬は目を瞬いた。

「神様仏様?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかも」

 柳瀬の視線は瞬きながら、あっちへ行きこっちへ行く。

 特別聞いたわけではなかったが、柳瀬も宗教に興味があるとか、信じている宗教があるとか、そんなことはなさそうだった。柳瀬の視線はしばらく彷徨った後で美空の方へ戻ってきた。

「難しいんじゃないかな」

「難しいかな」

「前にね。新戸さんが言ってたことがあるんだけど」

 十分に色の出たティーバックを取り出す。ほんの少し温度が下がり、でもまだ十分熱い紅茶を一口すする。熱い液体が胃に落ちていくのがわかる。

「伝説とか、神話とか、昔話とか、言い伝えとかって、理由があったりするんだって」

「理由?」

「毒ガスが出てくる場所なら、『呪いで死んでしまうから近づいてはいけない』とか、森が深くて迷子になってしまうところなら『神隠しに遭う』とか」

「あぁ、なるほど」

 子供のころ、そういうアニメを見たような気がする。言いつけを守らず行ってはいけないといわれる場所に踏み込んで後悔するような話だったような気がする。

 ――神様のバチがあたったの。

 もうずいぶんと前のことだ。小さいショウゴの怪我をフカミはそう説明した。

 入ってはいけない泉に落っこちた。バチがあたった――なんで?

 物事には理由がある――神様にも?

「沖ノ鳥島には神様がいるの?」

 柳瀬は小さな顔のわりに大きな目をまっすぐに美空に向けてきた。

 フカミは神様はいるのだと言い切った。省吾もいると言っていた。神の扉は存在し、死ぬと扉をくぐるという。

 神様はいるのだ。少なくとも、島の人々は信じている。

 美空は端末をつつき写真を呼び出す。ほとんど真上から照らしてくる光でどうやって撮ってもそこは黒く沈んで写る。

「ここがお堂。この中に焼却炉の扉みたいなのがあって、神様のところへ続いているんだって。人が亡くなると、この扉をくぐるの」

「へぇ!」

 身を乗り出して覗き込んだ柳瀬は、画面をいじり写真を次々と表示させる。一度流して見た写真をじっくりと。堂の隣の医療棟、さらに隣の検診車。そこで柳瀬は拡大する。

「車だ」

「これは、検診車。島の物じゃなくて、船で一緒に行くの。お父さんの仕事場」

 きょとんと、柳瀬は見上げてくる。

「内山さんのお父さんて」 

「医者。健康診断する決まりなんだって」

「なんで?」

 柳瀬の視線はまっすぐで。美空は見つめたまま首を振った。――知らない。

「聞いたことない。決まりだからって」

 柳瀬は首を傾げつつふぅんと呟く。知らないのだから仕方がないと思ったか。再び写真を鑑賞にかかる。

 食堂、集会場、湾、小さく写る漁舎に港。そして。

「壁?」

 柳瀬の指は闇にうっすら浮かび上がるシャッターの画像で止まっていた。松木との仕事を終えた後、月明りを頼りに写真に撮った。画面いっぱい、納まっていない。

「大きなシャッター。倉庫みたいなものなんだって。ちょうどお堂の裏の崖の下にあって、トラックが入れる大きさで……」

 フカミと二人で見上げた時にも思ったのだ。船が寄せられる高さに道がある。少しばかり広くなった土地がある。シャッターがあり、その上に堂がある。堂の先にはプレハブの子供舎があり、集会場がその先にある。堂、医療棟、集会場はほかの建物とは違いコンクリートで出来ている。集会場は島の最も高い場所に位置していて、シャッターはその島の一番下の部分にある。

 覗き込んでくる柳瀬に、美空はスケッチアプリを起動する。丸を二つ。向かって左を、上が開いた三日月型に。もう片方に『丘』と書く。丘の中心に小さな四角を。丘の上の方、三日月が開いた方に四角と線を。

 例えば。砂場にブロックを置く。ブロックの上から砂を落とす。砂はブロックを覆いつくす。そのうち小山ができあがる。例えば。

「何か埋まってそう」

 柳瀬は無邪気にそう評し。

 それがすべてだと、美空は頷く。

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