5-4
一人だ。フカミはふと、思った。
食堂へ収穫した葉物野菜を届け戻ろうとした時だった。手頃な枝を杖にして息切れしながらも、スミは一人で歩いていた。農舎へ戻ろうとしたフカミを認め、しわくちゃの顔に笑みを浮かべた。
「いつも手伝ってもらって、ありがとうね」
「ううん」
集会場かと示して問えば困ったように頷いた。杖を突いて力もなくなり開けられないのだと思い至る。開ければ、ありがとね、と入っていった。
扉を閉めて農舎へと再び足を踏み出して。
集会場へと振り返った。
「ばあちゃん、あたしのこと、わかった……」
農舎へ戻るとホマレが顔色を変えていたから、集会場だと声をかける。
ホマレはホッと泣きそうに顔を緩ませて、足早に迎えに行った。
それが、昨日のことだった。
フカミが扉を開けると、すでに島人は集会場にあらかた揃っていた。一緒に夕飯を食べたジョアンナは、フカミの後から足を踏み入れ、農舎の面々が固まるほうへと声をかけつつ向かっていった。
スミはホマレと共にいた。ぼんやりした顔でどこかをじっと見つめている。ホマレはスミの腕をつかんだまま、ジョアンナへと手を振っている。
集会場の中はざわめきに満ちていた。中央の神様の扉の前に島長は立ってはいたが、まだ口を開く気配はない。シノは硬い表情で、フカミと目を合わせるとぎこちなく微笑んだ。
何だろう。フカミは思う。
集会の連絡は唐突だった。昼食時に知らされて、夕飯後に開催となった。今島長が動かないのは、賄い担当の到着待ちだろう。
子供たちの集まるあたりが騒がしくなって、フカミは慌てて移動する。ぐずりだした一人をあやすうちに、ほかの子供たちが騒ぎ始めた。今は少し難しい子が一人いて、舎母の手が足りない時がある。走りだそうとした一人を捕獲し、泣き始めた一人を抱えて頭をなでる。子供舎を出るのも間近な歳ともなれば、こんなお守も慣れたものだ。
「ごめんなさい、遅くなって!」
賄いを取りまとめる女性の声が響き渡って、島長は大きく息をついた。
ざわめきが潮が引くかのように、小さくなる。
「すこーし、静かにしようね。長が大事なこと話すからねー」
目を見て話す。唇に人差し指を当てる仕草をして見せる。同じ仕草を返して来たら、分かったというその証拠。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの子がうん、と小さく頷いた。首根っこを掴まれた悪ガキ坊主は、騒ぐ時ではないと自ら悟っておとなしくなった。
島長の目が、集会場を一周する。島長の隣でシノはわずかに目を伏せた。
「急に集まってもらってすまなかった。このことは後回しにすべきでないと判断した」
シン、と場内が静まり返る。ぐずり続ける子供の声だけが、わずかに響いているばかりだ。
前回の集会はホシンの船が帰った後。ソダというホシンと話したこと、あと一年半という時間について。そんな連絡ごとだった。開催は二日前には知らされた。こんな、張り詰めるような空気はなかった。
島長は、硬い表情のまま、口を開く。
「明日『お別れの会』を行う。できる限り出席してもらいたい」
え、とか。何、とか。誰、とか。声が上がり、『誰』を探し出す気配が続く。
フカミは思わず目を瞬く。反射的に、スミを見ていた。
スミは変わらずぼんやりどこでもない場所を見ている。ホマレはスミの腕をきつく抱え、スミは痛いと声を上げる。
顔を見合わせた島人たちの視線は、硬い表情のままの島長に戻っていく。
「誰ですか」
手を上げて立ち上がったのはシガラキだった。常になく白い顔をして、食い入るように島長を見つめる。
島長はシガラキを見、一度目を閉じる。そして、ゆっくりと目を開くとスミのほうへと視線を投げた。
「スミだ」
何故と、やっぱりと、どうしてと、でもと、声があちらこちらで上がる。
シガラキは白い顔のまま崩れるように腰を下ろした。代わりに立ち上がったのはシガラキに並んで座るデニスだった。
「ワケ、聞く、タイ」
いたい、悲鳴のような声が響いた後で、島長はおもむろに口を開いた。
「スミが働くことが難しいのは誰が見ても明らかだ。そもそも、腹痛に対して治療をした。これは掟に反すること。それらを考え、私が、決めた」
心なしか『私』に力が入っているようにフカミには聞こえた。島長の表情は硬いまま。何を思っているかなど、うかがえない。
「スミ、元気」
「それでもだ」
島長の言葉は強かった。当たり前で、自明で、疑う要素などどこにもないと。フカミには、そう、聞こえた。
「嫌よ!」
ホマレだった。スミの腕を抱えたまま立ち上がる。
「ばあちゃん、行こう!」
スミは金切り声で身をよじるが、ホマレは力任せにスミを引く。人を押しのけ進んでいく。誰に止められることもないままに集会場を出ていった。
あぁ。ため息がいくつも上がる。――フカミの口からも。
「ばあちゃん、お別れ?」
腕の中で問われて、曖昧にフカミは返す。
重苦しい静寂を破るように、今度はジョアンナが手を上げた。
「働けナイ、生キル、ダメ?」
「No meaning to live uselessly!」
わからない言葉を吐き捨てたのはデニスだった。カタセの方へ目をやりながら、苦々しそうに首を振る。――なんとなく、何を言いたいのか、知れた。
フカミは舎母の一人へと振り返る。たぶん気付いてはいないのだろう。歩くのが遅く、言葉も遅く、カタセとよく似た顔立ちの我が子へ、静かにしましょうと諭す声が小さく聞こえた。
「何と言われようと、決めたことだ」
言い切る島長の顔は硬いままだ。
「シガラキ」
返事はなかった。
視線が島医者に集まっていく。俯き、手で顔を覆うシガラキは、それにすら気付かない。
「コロす、か」
びくり。シガラキの肩が動いた。
静かな声だった。デニスはじっと、シガラキを見つめている。
「イシャ、救う。コロす、か」
僕は。小さく声が聞こえた。小さくとも、十分な声だった。
「『お別れ』に備える。苦しくないように眠らせる」
ムツミの白い顔が浮かんでくる。ランの笑顔を覚えている。イツキのぐたりと重くなった感触がよみがえる。
お別れはいつも悲しくて、辛い。ただ見送るだけのフカミでさえ。
シガラキはゆっくりと顔を上げる。唇をひき、デニスを見上げる。
「それが島医者なんだ」
クククとシンとした中に笑い声が響いた。場内の視線が動く。フカミもまた、声の出所を探し、見つけて、あぁ、と心の中でため息を吐く。
「デニス、無駄よ。その男は自分の娘だって、」
「ヨツバ、黙りなさい」
遮ったのは島長だった。ヨツバは漁舎が集まるあたりの一番後ろで、壁に寄りかかり集会場を見渡している。島長から最も離れた場所で。
ヨツバは一度言葉を切る。薄ら笑っていた顔をこらえるように目を閉じ、ゆがめた。
「イツキは、生きたがっていたのに」
あれは。
シガラキの悲鳴のような声を聞きたくなくて。フカミはぎゅっと目を閉じる。
「ねぇちゃん、痛い」
腕の中から悲鳴が上がって、ごめんね。フカミは呟いた。
「シガラキは私の決定に従っただけさ。スミさんのことも、決めたのは私だ」
島長の声が集会場に染みていく。身じろぎの音が続く。
「ヒトごろシ」
ジョアンナの声だった。
「そう取ってもらっても構わない」
島長の声は揺るがない。
「シマ、守る。オサ、しごと」
「島長の仕事? そうさね」
デニスの言葉に島長は返す。ほんの少し、ほんの少しだけ、事実を告げるのではない色が見えた、気がした。
「島を守ることだよ」
島人、とは、言わなかった。
「守る、ね」
押し殺した声だった。顔を上げて振り返る。ヨツバは冷たい目で島長をじっと見つめている。
「島長は島の管理者。島人の味方じゃないわ。最初から」
ざわり。わずかなどよめきがヨツバの周りから広がっていく。低く小さく囁くように。波紋のように。
「ヨツバ、それは」
「島をホシンに売り渡す気なんでしょう」
シノの声など聞こえなかった。そんな風にヨツバは続ける。――今度の波紋は大きかった。
今回も髭のホシン――ソダは言っていた。あと一年半。たった一年半。一年半で、一〇〇年は終わる。
――準備をしておいてもらいたいのです。
準備とは? 一〇〇年が経つと、どうなる? 何が変わる?
だれも、その答えを知らない。
「一〇〇年の間、この島を守る。起こしてはならない――私たちを守ってもくれない神様を見守る。そして、ホシンに島ごと売り渡す。違う?」
「売り渡す、というのがどういうことを示すのかわからないが、ホシンとはこの先のことを話し合っている。この間伝えたとおりだ。しかしそれは、神様とは別の話で、スミさんのこととも違う話だ」
「みんな、信じる?」
広がりきった波紋は、端で勢いを増して折り返した。ざわめきが広がっていく。
役立たず。用なし。売られる? どうなる? 神様は。ホシンが。――殺される?
フカミは島長の背後、扉を見る。開くことのない神様へと続く扉はただ静かにそこにある。
「信じなくても構わない。シガラキ」
「……はい」
「準備を」
島長はそれだけ言うと、脇の、私室へ続く扉へと入っていく。集会はそれで終わりだ。
島長の姿が消えるとざわめきは一層増した。もう誰が何を話しているのかなど、聞き取れない。
「フカミちゃん、ありがとう」
舎母に声をかけられて、腕の中の子を解放した。首根っこをとっ捕まえたままの悪ガキは、逆にフカミのシャツを引いた。
「なー、ねーちゃん」
「なに」
「おれたち、うられるのか?」
フカミは思わず頭を叩く。あた、と間抜けな声がする。
「あたしたちは島長を信じてればいいの」
『売られる』がどういうことかも、わかってなどいないくせに。フカミにも、わからないけど。
舎母に連れられて悪ガキは扉へ向かう。
ヨツバの姿はとうに無く、デニスやジョアンナの姿もなかった。
シガラキは座り込んだまま、微動だにしない。
「シガラキくん」
シノはそっとシガラキへと歩み寄る。もう、フカミと、シノと、シガラキと。それしかいないのに、足音を忍ばせて。
「辛いことばかり頼んでしまって、ごめんなさい」
シガラキは緩く首を振る。
「神様もホシンも助けてくれない。だから、僕らは僕らでやるしかない」
あるかなしかの笑みを浮かべて、顔を上げた。
シガラキはゆっくりと立ち上がる。シノの手がするりと外れた。
「僕はやります」
シガラキは静かに、集会場を去っていった。
「フカミ」
呼ばれてフカミはシノへ振り返る。シノは寂しく微笑んだ。
「昨日、スミさんと会ったわね? その時、はっきりしていたことは、誰にも言わないで。特に、ホマレには」
どうして、と、聞いてはいけない気がした。――決めたのは島長なのだから。
フカミは黙って頷いた。
「お母さん、おやすみなさい」
「……もうしばらく、農舎を頼むわね。おやすみなさい」
集会場の扉を開ける。入るときには残っていた夕日の名残はすっかりなくなり、数多の星が空を覆いつくしている。漁舎の明かりと坂の途中の小屋の明かり。子供舎の明かりに医療棟の。ここから農舎は見えないけれど。
フカミは集会場を振り返る。集会場の扉の向こう。神様は眠り続けている。
――昔々神様は一人の男に見つけられました。
――人々は神様の偉大さに気付き神様のお力を借りることができないかと考えました。
――神様の力は扱いが難しいものでした。
――最初のころ、神様の力の使い方を間違えて街が二つ消えてしまいました。消えただけでなく、深い呪いも残しました。人々は、恐れ慄きました。
――呪いは何十年も続きましたが、やがて人々は忘れていきます。人々が呪いの恐ろしさを忘れたころ、神様の力を借りた施設で大きな事故が起こりました。
――神様の力の使い方を誤ってしまった事故でした。事故は呪いを振りまきました。人が逃げなくてはならないほど深く広く呪いました。
――神様を恐れた人間たちは、神様に眠っていて頂くことにしたのです。
――初代の島長は人々を連れて島に渡り、その番人になりました。
翌日、太陽が真上を通過したころ。
ホマレが一人泣き叫ぶ中、スミは永遠の眠りについて扉をくぐった。
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