5-3

 ドアを開けると突き刺すような陽射しに躊躇する。東京では暑い盛りを過ぎた頃だが、常夏の島には盛りしか存在しないのだろう。

 美空は掌でひさしを作り空を見上げる。数日後には嵐になるかもしれない雲の切れ端は見られたが、空は概ね青く広い。ほぼ真上にかざした手の甲はじりじり焼かれているようにさえ思える。建物も木も影は地面に凝ったように小さく落ち、辺り一面が白っぽく見える。

 ――散歩? 暑いのに? あれだよね防護服は陽射し避けには優秀だったね。

 美空が残したおかずを自分の弁当箱へとのんびり移し替えながら松木が言っていた言葉の意味を、美空はドアを出て数秒で理解した。

 それでも。

 帽子を深く被り直す。手の中の小さなデジタルカメラを確認する。目の前を談笑しながら過ぎっていく人たちの背を早速カメラに収めてみる。鮮やかな画が小さなモニタに映し出された。

 まずは人の集まる食堂を撮ろう。美空は思いつつ薄く土埃の立つ道へと足を下ろす。中に入るには勇気が要る。フカミに頼めないだろうか? もしくは、今日は外側だけ。医療棟に集会場。時間があるなら農地の方も。思いながら歩を進める。

 食堂は集会場からほど近い医療棟の前にある。湾へと降りていく坂の、降り口のそばに建っていた。漁舎からは坂を登って。農舎からは集会場を迂回して。朝、昼、夕と島中の人が集まってくる。

「ミソラだ!」

 食堂の陰、坂を登ってきた一団の小柄な影が手を振った。美空はカメラを構えて素早く撮ると、小さく手を振って応えた。

 ショウゴは小突かれ食堂の中へ入っていく。幾人かが美空を見やり、幾人かは『ホシン』と判ると興味なさそうに目を逸らした。談笑を止めた女性一人を除いて。

 女性には見覚えがあった。何度も通っているのだから、見覚えくらいあるだろうとも美空自身で思い直した。強そうなまなざしで頬は細い。半袖から剥き出しの腕も、短パンから伸びた足も綺麗な小麦色を見せながら、スポーツ選手のようにスッキリとしている。油断のない印象を受けたが、名前はついに出てこなかった。

 女性は美空と目を合せると、何事もなかったように目を逸らした。そのまま食堂の中へと入っていく。

 美空は食堂の入り口を撮る。向き直り医療棟と堂を撮る。坂の上から湾を撮る。振り返って、子供舎とその奥の集会場を。

 集会場の方からも人がやってきていた。女性数人の集団は島長でもシノでもない。農舎の人たちだろうか。美空はまだ慣れない手つきでカメラを構える。シャッターを押す。

 シノくらいの女性が二人。島長よりずっと高齢の老婆が一人。老婆にももちろん見覚えがあった。田舎の祖父母、孝志の両親より年上に見える人など、島には一人二人しか居らず、しかもとてもカクシャクとして元気なのだ。が。

 美空はモニタから目を上げた。老婆は同行の女性に腕を取られ、ようやく歩いているように見えた。東京なら杖なり手押し車なりを持っていておかしくなさそうだ。

 美空は一人首を傾げる。春に来たときには、とても元気そうに見えたのに。

 老婆は食堂の前に差し掛かる。ふと美空に視線を留めて茫洋とした笑みを浮かべた。

「カズミおばちゃん」

 かずみ、とは。

 美空が問う前に女性が間に割って入る。女性は美空へほんの一瞬視線をよこし、老婆を隠すように背中を向けた。まるで『ホシン』とは関わりたくないと言っているかのようだった。

「みっちゃん」

 老婆が大きく声を上げた。食堂から食事を終えたらしい島長が、シノを従え顔を出した。

「スミさん。これから食事かい?」

「天気が良いからね。ブドウの世話に手間取ってすっかり遅くなっちまったのさ。その代わり今年はきっと良い実をつけるよぅ」

 ブドウ。口の中で転がしながら、美空は邪魔にならないよう気付かれないよう、そっとシャッターを幾度か切る。切って。

 何か変だ。顔を上げた。

「ばあちゃん、片付けられてしまう。入りましょ」

 女性は老婆を急かしている。

 シノは一歩引いた場所から老婆を伺うようにしている。

 島長は何かを言いかけて、口を閉じてから再び開いた。

「楽しみにしているよ」

「きっと待っておいで! イツミさんも大好きだからね!」

 食堂へと入っていく老婆が、島長の陰からようやく見えた。女性に押されて、けれど、なんの衒いもなく嬉しそうに笑んでいる。

 老婆に場所を譲った島長の横顔は笑顔で。ふと、寂しげな色を浮かべた。

 目が、合った。

 美空へと振り返る。もう、寂しげな表情の残滓はなかった。

「休憩かい?」

 美空は頷く。カメラは手の中に隠すようにして、下ろした。

「今のは」

 食堂の入り口をチラリと見る。

「今の?」

 島長は、気付いてかそれとも本当に気付いていないか、何のことかと問い返した。

「なんでもない、です」

 ――多分、きっと。立ち入るべき事ではないのだ。

 派手な足音が聞こえてきて、島長は集会場へと振り返った。

 フカミだった。フカミだと思った時にはすごい勢いで近づいていた。大きく肩で息をしながら大きく手を振っている。その後ろには女性の外国人がぴったりと着いていた。

「食堂、まだやってる!?」

「まだ大丈夫よ。少し混んでいるけど」

 答えたのはシノだった。

 よかった。明らかにほっと息を吐き、フカミは美空へ小さく手を振り食堂へと入っていく。外国人の女性――ジョアンナと言っただろうか――は、島長、シノに目を留めることなく、フカミに続いて入り口を潜った。

 長は集会場へと足を向けた。シノは美空へ視線を向けると島長の後ろに着いていく。美空は腕時計を確認し、慌てて二人の跡を追う。一時間。松木に言われた刻限は間近だった。

 島長は心なしか俯いて、地面ばかりを睨んでいる。


 わずかなきらめきと波音とを横目で見ながらフカミと二人、並ぶ小舟によじ登った。島で見る夜空は、邪魔する街の明かりもなく美空が知る中でどこよりも美しい。

 また今年もここに来れた。

 美空は先に落ち着いたフカミの肩にもたれかかる。フカミは気にする風でもなく、美空のカメラを乏しい月明かりに翳しながら興味深そうに弄っている。

「面白いものがあるんだねぇ」

 どこをいじったのか、モニタにぱっと光が入った。プレビューには、集会場の前あたりが表示されている。

「写真っていうんだよ」

 美空は手を出し操作する。プレビューを自動で流す。フカミが息を吸う音が聞こえる。

 堂と医療棟、食堂の景色。次いで、食堂へ集まりくる人たち。

 小さなショウゴ、睨みつけてきた女性、女性に支えられた老婆。

「そだ、フカミちゃん」

「ん?」

 フカミの目はモニタにくぎ付けだ。

 老婆は島長に入れ替わり、再び風景が現れる。

「ブドウって育ててるの?」

「ブドー?」

 寄りかかる肩が頭の横でずらされて、美空は船べりに座りなおした。フカミが見返してくる気配に美空も覗き込むように視線を返した。

「ぶどう。果物。知らない?」

「知らない」

 美空は明後日を眺めてみる。どうすれば説明できるだろう?

 船べりから腰を滑らせ砂浜に降りた。月光が注ぐ場所へとしゃがみ込み、適当な貝を拾う。砂浜のキャンパスに丸を接するように幾つも描く。全体が逆三角になるようにした、小学生が描くようなブドウの房のつもりの絵だ。

「小さい粒が沢山ついてるの。緑とか紫の色の種類があって。すっぱいのとか、甘いのとか」

 フカミは首を傾げたままだ。しばらく絵の辺りを眺め回して、知らないとばかりに首を振った。

「ブドーがどうしたの」

 美空は再び船べりへとよじ登る。少し離れてみると、三角形に整えられた丸の塊は、ブドウに見えず、何にも見えない。――そのうち波にさらわれ、消えるだろう。

「お婆さんがね。言ってたから」

「お婆さん……スミばあちゃん?」

 スミ、と聞いた気がそういえば、する。多分。美空は曖昧に頷いた。

「そっか」

 フカミは湾の向こうへと顔を向けた。水平線のその向こう、星が昇り始める辺りのどこでもない場所。

「ばあちゃんが小さい頃には、もっといろいろなものを作ってたって聞いたことがある。ブドーももしかしたらあったのかもしれないけど」

 ばあちゃん、最近変なんだ。呟くように続ける。

「変?」

「ぼーっとしてることが多いし、仕事もうまくできなくなった。ご飯の時間も日が暮れても探しに行かないと戻ってこないし。反対に、ご飯食べたばっかりなのに食堂に行こうとするんだ。最近はホマレがつきっきりで、仕事をあたしが手伝ってるくらい」

 痴呆。そんな言葉が浮かんできた。

「デニスは年だからとしか言わないし。そういえば、お腹を切ったあとからだな」

「お腹?」

 美空はまじまじとフカミの顔を見返した。大きな月が目の前から、ほの明るく照らしている。

 美空と同じ顔で、美空とは随分違う顔だ。美空より細く締まっていて、日に焼けた肌は荒れ気味で、パサついた髪は乱暴に括られていて、美空よりずっと強い印象の目が自身の横腹を覗き込むようにして見つめている。

「お腹が痛いって言い出して、すごく辛そうだったんだ。お別れを覚悟するくらい」

 お別れ。美空は口の中で言葉を転がす。あぁ。ため息が溢れる。――死を。

「でも、デニスが治るって、この辺を切って」

 指で示すのは右の脇腹の辺りだ。少し覗き込むようにして、盲腸かなと美空は思う。美空でも知っている病気だ。

「しばらく寝ていて、けど、治って、動けるようになって。でも、前みたいには動けなくて」

「うん」

 それも知っている。大きな病気をすると、リハビリというのが必要なのだ。いきなり前のようには動けない。

「ずっと寝ていると、動けなくなっちゃうんだって。少しずつ戻していくんだって、お父さんが言ってた」

「うん……」

 フカミは大きく息を吐いた。

「元に戻ればいいんだけど」

 あのね。美空は少しばかり大きめの声を出す。

 まだ祖父母のもとにいたころに、立ち話か電話口でか、それとも茶飲み話のついでだったか。聞いたことがあった。

「動けなくなるのがきっかけでボケちゃう人もいるんだって」

「ボケ?」

「えっとね、ちほうっていうの。自分のことが分からなくなったり、話している人が誰だかわからなくなっちゃうの。散歩に出て、道がわからなくなっちゃう人もいるって。そういう病気なんだって」

 ――どこそこのおじいさんが。だれそれさんは施設に。角の家の○○さん、最近ちょっと変よね。怖いわぁ。脳ドッグ受けた? あれ高いじゃない。

 なぜそうなるかとか、詳しいことはわからない。歳をとればボケることがある。ボケると面倒を見る家族が大変。そんな印象ばかりがある。

 孝志に聞けばもう少しちゃんとしたことがわかりそうだが、とても難しいことを言われる気がする。

「病気?」

 瞬いた、気配がした。

 フカミへと振り返る。乏しい月明りの中、まっすぐな目が待っていた。

「……船医者先生なら、治せる?」

「お父さん?」

 無理じゃないかな。美空は率直に思う。孝志は良い医者だと思っている。けれど。

「デニスはお腹が痛いのは治してくれたけど、おかしいのは治してくれないんだ」

 美空はフカミから目を逸らす。

 難しいんじゃないかな。

 そう、呟いた。

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