5-2
体格の良い男達が中心となった一団が、小さく見える引き戸を潜って出てくるところだった。彼らは皆島長を認めると頭を軽く下げていく。ひときわ大きな体格のエリックが身を屈めて外に出ると、その後ろから現れた小さな姿が口いっぱいに物を詰めたまま、島長、シノ、フカミの姿を見、しまったという顔をした。
「食べきってからにしなさいよ!」
ショウゴは言い返すことも出来ないまま、エリックの影に隠れるように集団と共に浜の方へと去ってく。
「お行儀悪い!」
フカミの祖母である島長、ミツは苦笑いを浮かべている。母であるシノは困ったような顔で見送った。
後で叱ってやらなくちゃ。フカミは後ろ姿に誓いながら、二人に続いて戸を潜る。
夕食の時間も終わりに近づいた食堂は空いていた。八つ並んだ六人掛けのテーブルのうち、埋まっているのは一つだけだ。椅子がしまわれていなかったり、食べこぼしがあったりとつい今し方まで食事をしていた跡が残りのテーブルにもれなくついている。フカミはいつものように布巾を取ると、そのうちの一つを拭き清める。
「せめてお茶くらい飲んどきよ」
「お汁だけでもさぁ」
拭き終わると自身の分のトレイを取りにフカミは配膳口へと向かう。
今日の夕食は、小盛りの白米、ノリの佃煮、サラダ、青バナナの炒めもの、つみれ汁。――これだけか。思ったことが顔に出ないように精一杯気をつける。
「どうかしたのかい」
ミツはトレイをテーブルへと置きながら女性ばかりの一団を見やる。島長。言いつけるような訴えかけるような声で返したのは、農舎の中堅どころのホマレだった。
「ばーちゃんが食欲がないって言うんです。昼も食べてないのに」
ホマレはチラリと視線を老婆に向ける。島一番の長老であるスミはすっかり丸くなった背をさらに丸めて座っている。
目の前のトレイの皿は、あるはずの白米の茶碗が見当たらないが、どれも手がつけられた様子はなかった。
「食べナイ、ヨクない。スコシでも」
ジョアンナはスミの背をさすっている。心配そうに覗き込みはするものの、スミは顔をしかめるばかりだ。
「具合が悪いの」
「……食べたくないんだよ」
ミツの言葉にスミは苦い声で小さく応える。自身の手を腹のあたりに当て続けている。
「冷えたんだよ。ほら、夕べは雨だったろ」
言い訳のように聞こえはしたが、ミツもホマレもそれには言葉を返さなかった。
「医者、イこうヨ」
ジョアンナが立ち上がってもスミは緩く、けれど毅然と首を振る。必要ない。きっぱりと。そしてスミは椅子を降りる。面々は空いた食器を下膳口へと運んでいく。
「今日は大人しく寝ているよ」
スミの空いていないトレイは、ホマレがフカミの前へと移動させた。――もったいないから食べちゃって、ね。
「じゃぁね、ミっちゃん」
スミは椅子の背を頼って机を回り背を丸めて歩き始め。二歩ほど進んで大きくよろけた。
「すみサン!」
「おばあちゃん!」
机に手をついたスミをジョアンナとホマレが左右から支える。ジョアンナの腕が右腹に当たってスミは顔を大きく顰めた。
ミツはそれを見て、視線を落とした。自身のトレイの白米へと箸を伸ばし、つみれ汁の椀を取る。
「歳なんだから、考えなさいよ。いろいろ」
独り言のようだった。汁を啜る。
「人のことは言えんだろ、ミっちゃん」
スミは、七〇を超えているはずだった。初代と会話したことがある、島の歴史書のような人物だった。五〇そこそこのミツが頭が上がらないうちの一人だ。
「医者、行こう、ネ?」
ジョアンナが囁く言葉にスミは首を振り続ける。一団は黙したまま食堂を出て行った。
嫌だな。フカミは思う。こんな雰囲気は何度味わっても。慣れていても。
フカミはもそもそと、けれど佃煮を二口で食べきる。シノは肘で突いて、スミの残したトレイを目だけで示した。
「もらっちゃいなさい」
フカミは頷く。箸をつけたものは大鍋には戻せない。スミは箸などつけていないだろうけれど、それはもうわからない。捨てるのはもったいなさすぎる。
「スミさんもそろそろかねぇ」
呟いたミツの声は寂しげでフカミは聞こえないふりをする。
賄い担当たちがトレイを持って出てきた。もう終いの時間になっていた。フカミたち三人は空になったトレイを持ち上げ、席を立つ。
*
フカミはため息を小さく漏らすと掛布を横に押しのけた。雑魚寝している他の子供達を起こさないよう気をつけながら、這うようにして廊下へ出る。
階下からは生まれたばかりの子供の泣き声が聞こえてくる。やがて声は小さく消えていく。舎母の誰かが気付いて起きて、お乳をあげるなり寝かしつけるなりしたのだろう。
島は薄闇に沈んでいる。十分に太い月が星々を従え天上近くから見下ろすばかりだ。小高い位置にある子供舎からは島の東半分が見渡せる。どこからもほの赤い灯りは見えず、寝静まっているのがうかがえた。
――そろそろかねぇ。
ミツの声が脳裏から離れない。
フカミは手すりに凭れながら南を見やる。医療棟と堂が深い陰を見せている。
島人は死ぬと堂の扉をくぐる。事故で死ぬこともある。病で生きられないと諦めることもある。老いて時を迎えることもある。動けない、働けない、悟ると人々は『お別れ』を決める。
決めると大抵は島医者により長い長い眠りを与えられる。永遠に目覚めない眠りの中で徐々に心臓は動きを止め、やがて冷たく固くなる。そして棺に入れられ堂の扉をくぐるのだ。
寂しいな。素直に思う。
スミはフカミが生まれた頃にはもう生き字引のような存在だった。しわくちゃの顔でよく笑った。恐ろしい形相で怒り、よく泣いた。娘にも息子にも先に逝かれ、幾人もの若者を見守りそして見送った。いつまでも元気でいると、ありえないと思いつつも心の何処かで思っていたのに。
堂は静かに、ただ静かに扉が開かれる事を待っている。
ふとフカミは顔を上げた。北側、集会場の方を眺める。
チラチラと灯りが目に入った。灯りは二つ。揺れている。声が聞こえる。微かな足音が聞こえ出す。
眼を凝らす。灯りはだんだん近づいてくる。頼りないささやかな灯りに浮かぶのは、女性らしき二つの影。
集会場の前を下り、子供舎の前を過る。翳した灯りを遮る背中は医療棟の辺りで動きを止めた。
「……ラキく……、……ミばあちゃ……」
集会場の先には農舎があり、女性はミツとシノではない。フカミはどうやってもきしんでしまう階段を音をなるべく立てないように降りきると、月明かりを頼りに医療棟へと駆け出した。
「シガラキくん、デニスさん、起きて。ばあちゃんが大変なの」
医療棟の明かりが点くのとフカミが追いつくのは同時だった。
戸が開く。顔を出したデニスは不機嫌そうに目を細めて扉の外を一瞥すると、顎だけで中を示して見せた。
ジョアンナが先に立ち、ホマレが続く。最後のフカミに怪訝な顔をしてみせたものの、デニスは何も言わなかった。
「どう、しました」
シガラキはスイッチに手をかけたまましきりに目を擦っている。白っぽい熱のない光に照らされて寝癖が頭上で跳ねていた。
「stretcher」
知らない言葉を発したのはジョアンナだった。デニスは問い返すこともなく、立てかけてある担架を取る。
「一緒、来ル」
言葉少なに、出て行った。
「ばあちゃんが大変なの」
ジョアンナとは事前に話していたのかもしれない。ホマレはジョアンナを見送るでもなく言葉を重ねる。
「ゆっくり説明してくれるかな」
ホマレは頷く。少しばかり早口になりつつ説明する。
スミは夕食から戻るとそのまま寝床に入った。痛みは変わらずだが、どうしようもなかった。そのままホマレも他の仲間達も床についた。スミは苦しそうにしながらも、眠っているようだった。
気付いたのはついさっき。呻き声で目が覚めた。スミは脂汗を浮かべて身体を丸め腹を抱えて呻いていた。
ジョアンナも起きてきた。運ぶ必要があるとジョアンナは言い、そして二人でここへ来た。
シガラキの目がフカミへ向く。フカミは頷く。来るべき時が来た。
フカミは開けっぱなしの戸に手を掛ける。
「No!」
「へ?」
デニスだった。
何事かを言いかけて、息を吸い、吐く。
「オサ、要らナイ。邪魔。呼ぶ、ナイ」
――長は要らない。邪魔だから、呼ぶな。
「でもっ」
「デニス、そういう慣わしなんだよ」
デニスは強く首を振る。左奥、診察室を指さした。
「イル、なぜ、いい。準備、ヤレ」
――何で居るんだか知らないが居るんだったら手伝え。
多分、そんなことを言っている。
どうしよう。シガラキを見れば、ほんの少し明後日の方を向いた後で、曖昧な笑みを返された。
「直ぐにばあちゃんが来る。準備を頼むよ。奥を開けてベッドを作って。ホマレ、いつから様子がおかしかったか、ゆっくり教えてくれる?」
フカミは一度外を見る。星空をくり抜く影のように集会場は佇んでいる。
シガラキへと視線を戻す。ホマレは朝からの事を思い出し思い出し伝えようとしている。
デニスは奥へと向かっている。おそらくは自室か倉庫。必要となるだろうものを取りに、だろう。
もう一度外を見る。そして、心を決める。
デニスが何をするつもりなのかなど、フカミには到底解らなかった。これまでであれば、シガラキ一人ならば、やることは知れている。痛みを和らげる薬を使い、そしてスミに最後の選択をさせるのだ。
――見ておく。
フカミは診察室へと足を向ける。一旦その奥、のっぺりとした床と硬そうな台のある最奥の部屋まで進み、両開きの外へと続くドアを大きく開く。診察室との間のドアも開いて固定し、ベッド作りに取り掛る。普段は置かれているだけのベッドに布団を敷く。清潔なシーツを掛ける。長を呼びに行くでなく、フカミでもできる仕事だ。
フカミはシーツを張りながら思う。多分、これでいいのだ。閉め出されて、何も解らなくなるよりは。
担架は奥の扉から診察室に入れられた。運んできた農舎の面々を追い返し、デニスとシガラキはベッドに寝かされたスミへと向かう。
スミは脂汗を浮かべていた。顔をしかめたま腹を庇うように身を丸め、時折声を漏らしている。
フカミはドアを閉めつつ顔をしかめる。あまり聞いていたい声ではない。けれど部屋からは出ない。邪魔にならない隅に立つ。
デニスは慎重な仕草でゆっくり腹を押している。スミのくぐもった呻き声が広くもない部屋に響いた。顔色一つ変えずに今度はそっと静かに離す。スミは更に喉の奥から声を漏らした。
「戻す方が、痛い?」
シガラキが呟く。デニスは答えず動作を続ける。
あぁ、とも、うぅともつかない声が聞こえてきたのはその時だった。診察室の奥、シガラキたちのねぐらへつながる方のドアが開く。延びきったシャツに皺を大きくつけたまま、姿勢の悪い青年が目を擦りながら立っていた。
「カタセ」
医療棟に住まうカタセだった。フカミを眺め、スミへ顔を向け、シガラキヘ問いかけるように首を傾げる。大きく一つ欠伸をし、再び大きく目を擦った。
デニスは小さく舌打ちするとカタセへと背中を向けた。スミの額に手を当てる。シガラキは立上りかけ、フカミを認めて頷いた。フカミは小さく頷き返す。カタセへと足を向けた。
「カタセ、起こしちゃったね。まだ夜だよ。寝ようね」
「ばあちゃ、お別れ?」
フカミは頭一つ分は背の高いカタセを見上げる。思ったことしか言えないカタセは、無邪気に事実から問いかける。
「どうだろうね。ばあちゃんは決めてないよ。さ、寝ようね」
フカミはカタセと一緒に部屋を出る。開いたドアから漏れる光しかない廊下を、一番奥まで押すようにして移動する。
「きル。すグ」
背後からは声ばかりが聞こえてくる。
「切る?」
シガラキの声だ。
「きル。治ル。湯。たくさん。ジョアンナ!」
「デニ、何かする?」
振り返ろうとするカタセの背を懸命に押す。医療棟で寝起きし日中はシガラキを手伝うこともあるカタセだが、今、手伝えることは多分、ない。
それどころか。
「デニスは今が忙しいんだ。カタセが忙しいのは昼間でしょ。寝ないとお仕事出来ないよ」
カタセの部屋のドアを開ける。中から漏れ出た木の香りを嗅ぎながら、窓から差し込む淡い光をよすがにして、慎重に足場を選びつつカタセを押し込む。
「カタセ。朝になったらお部屋を掃除しようね」
「掃除! する!」
足の裏に感じるのは削ったまま放置したままの大量の木のくずだ。刃物を踏まないようにと目を凝らすが、カタセはお構いなしに歩を進める。
一つのことを覚えると延々とそればかりを続けてしまうカタセは、根気の要る作業を熟すことが得意だった。木くずの正体は食堂で使うためのスプーンを削り出した際の不要物だ。延々作り続ける事が得意なカタセは、それを止めて掃除したりすることは逆に不得手で。
時々見てあげないとな。ついため息が口を吐いた。
「ほら、こんなにくらくちゃ何も出来ないでしょ。寝ようね」
カタセをねどこに押しやることに成功する。カタセは起きてしまったとは言え眠かったのだろう。目を擦り、横になる。掛布をかければ、大きく欠伸を漏らしながら、素直に目を閉じた。
軽く軽く肩を叩く。一定のリズムで叩き続ける。かつて何度も舎母にフカミがしてもらったように。
カタセは唇をむにむにと動かして。吐息はやがて寝息に変わり。
フカミはそっと腰を上げた。
部屋を出るとまず、言い争いの声が聞こえた。急いで慎重に戸を閉める。灯りの漏れる広間へ続く戸をくぐり、少しでも声を減らせるようにと慌てて閉じた。
「カタセが起きちゃうよ」
デニスは顔をしかめて口を閉じた。ホマレは言葉の代わりに息を吐いた。シガラキは静かな声で言い聞かせるように話し出す。ジョアンナは、そこにはいなかった。
「デニスは、スミばあちゃんは治るって言っている。決める必要なんてないって」
「ばあちゃんは、それでいいって言ったの」
ホマレは慎重に囁くような声で返す。
「ばあちゃんは今は痛みを減らして眠ってるよ」
デニスはシガラキを見やるとフカミへと視線をよこした。目が合うと顎で示して診察室へと戻っていく。シガラキはホマレを長椅子へと座らせた。
来い、と言うこと。
「デニスはもともといた場所で、ばあちゃんと同じ病気の人を何人も助けたんだって。心配ないって」
不安そうに見上げるホマレにシガラキは静かに言い聞かせる。フカミはそれを横目で見ながら、示された診察室へと足を向ける。
スミは、身体を小さく丸めたまま、息をしていないかのように静かだった。
「眠ってるの」
デニスは軽く頷いて見せる。ベッドの横の台には、注射器と水滴のついた小さなケースが置かれたままになっている。フカミにも、見覚えがないわけではなかった。
「眠っている、だけ?」
探るように聞けば、デニスは面倒くさそうに頷いて見せた。そして、フカミが次の言葉を発する前に、スミの肩へ手を掛けた。
「動ク。足、もツ。奥」
「奥の部屋に動かすのね?」
スミの足を持ち上げる。デニスは肩を持ち上げた。――小柄な老婆だったから、なんとかなった。
スミは固い台の上に寝かされる。何をするのだろう。思ったけれど、フカミは思うだけにとどめた。
デニスは自分の手を見て大きく一つため息を吐く。
外側からドアが叩かれる。デニスに目線で指示され、フカミは慌ててドアを開ける。
鍋を幾つも抱えたジョアンナが、小さな一つを押しつけてきた。
「おユ。沸かス」
水を汲む。部屋の隅に設えられた電熱コンロの全ての口に湯を張った鍋を置く。
シガラキが入ってきて、フカミはジョアンナに肩を押された。多分、邪魔だと、言うことだろう。
「ジョアンナ。何をするか知ってる?」
「悪いトコ、切ル。トル。心配ナいヨ。デニス、何度もヤッた」
広間まで背中を押されたまま戻る。
白い揺れない光の中で、ホマレは静かに指を組んでうつむいている。
「大丈夫。スミさん、いい人。神様、見テテくれル」
ホマレはふと、隣に座ったジョアンナを見上げた。フカミは少し離れた椅子に静かに座る。
神様。
フカミは口の中だけで転がした。
浮かぶのは集会場の奥の扉。堂の奥のあの扉。白い姿のホシンたち。
神様、とは。
「神様?」
ジョアンナは頷く。ホマレは首を傾げて見せる。
「神様が何をしてくれるというの?」
ジョアンナが言葉もなく瞬くのをフカミはじっと見つめていた。
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