島歴98年4月~98年12月
5-1
ポテトフライと紅茶の紙コップをトレイに載せた美空は、機敏な動きで奥へと進んでいく柳瀬に置いていかれないように必死で机と椅子の間を進んだ。四人がけのテーブルを確保した柳瀬はほっと息を吐き、薄い上着を椅子にかける。トレイをテーブルにおいた美空は顔をしかめながらそれに倣った。
休日の午後の繁華街は駅前も通りも店もどこもかしこもいつもながらに人で溢れていた。新年度、新学期を迎えてすぐの陽気のいい日ともなれば無理もないのかもしれないとも思いつつ美空は大きくため息を吐く。どこかへ行こうとしているらしい集団、ポケットティッシュ配りが数人、学校でも時々注意が飛び交う怪しい寄付を募る団体。駅からの僅か数十メートルでも、それだけ目につく集団がいた。何度来ても人混みは好きになれない。
「やっと落ち着けるー」
柳瀬は早速コーラにストローを突き立てる。『トナリアイテル?』どこか硬い日本語に人が来る旨を慌てて伝え、美空は柳瀬の斜め前へと移動した。
美空は紅茶を啜りながらなんとはなしに周囲を見回す。日本語でない言葉が飛び交い、カジュアルで若い集団が慣れない風の数人を取り囲み、部活に行くのか帰るのか制服姿がたむろしている。
そしてまた一人階段から、トレイを片手にやたらと大荷物の社会人風の男が現れ。
「ゆ……新戸さんー!」
柳瀬が声を張り上げる。ざわめきに負けない、教室でも図書館でも聞いたことのない声だった。
美空は思わず柳瀬を見る。美空の視線など意にも介さない柳瀬の視線の向かう先に、大荷物の男が立っていた。
「結芽ちゃんコンクール入賞おめでとう、頑張ったよねって言うのが遅くなっちゃってごめんねこのところ忙しくてさ、連絡もらっててもそもそも電波も入らなかったり電源落ちてたりして、上司にも怒られたんだけど充電してる暇もないって言うか。美空ちゃんだったよね久しぶり」
息もつかずに反応を待つこともなくそこまで一気に話された。既視感を覚えつつ、何に思い当たるのかを思い出せず美空は黙ってポテトをつまみ。
「え?」
水を向けられ固まった。
知ってるの? 柳瀬は忙しく瞬きし美空と新戸で視線を幾度も往復させる。視線で問われても、答えられない。
新戸と呼ばれた男は、柳瀬が荷物を片付けた美空の正面の椅子へと腰掛け、参った参ったと独り言のように続けていた。
ここのところ世界のあっちこっちで事件が多くて出張が多くて休まる暇がない。ニュース見てる? 英語のニュースとか見てると勉強になるよ。まず中東が忙しい。去年からまたきな臭くなった。中東だけじゃない、中央アジアの辺りやら、もっと近場、東南アジアのあたりも。政治宗教異常気象に温暖化、豪雪豪雨旱魃蝗害火災に、石油の埋蔵量やら原発やら訴訟やら核融合やら反対派やらテロリストやら大規模デモやら暴動やら。挙げ出せば切りがない。おかげで毎週どこかしらに飛ばされる。この後も飛行場へ直行でね。
柳瀬は一つ大きく息をつくと口を一度開きかけ、そのまま声を発することなく閉じた。新戸を見上げる姿勢になる。
遠くから聞こえるシュプレヒコール、緊張感が届かなかった怠惰に過ぎゆくデモの末尾。省吾の苛立ったような顔。あぁ、美空は思い出す――一年ほど前の図書館の前だ。
「省吾お兄ちゃんと話してた」
ぱっと新戸は笑んだ。笑むと目が無くなり、一気に年齢が下がったように見えた。何やら柳瀬はニコニコしている。
「覚えててくれた? 嬉しいね。まさか結芽ちゃんが会わせたい友達が美空ちゃんだったとはね。あの話は考えてくれた?」
「あの話?」
なんの話だと美空は首を傾げつつ、あの時の話題しかないと思い至る。
では、あのとき省吾は何を話していただろうか。あまり見ない険しい顔で拒否していたことしか思い出せない。
「あれ省吾から何も聞いてない?」
頷くより他になかった。
「そっか。結芽ちゃん経由だもんね全然別件かぁ残念」
対して残念でもなさそうに新戸はコーヒーのカップを手に取った。新戸の袖を柳瀬が引く。新戸の視線が柳瀬に向いた。
「あのね、内山さんね、聞きたいことがあるんだって」
はしゃぐ小型犬。美空はぼんやりと連想する。紅茶を啜りながら柳瀬をじっと観察する。
少しばかり上気して、懸命に見上げている。新戸は省吾と比べてもあまり変わらず特別大きいわけではないが、柳瀬は十分に小柄だった。小型犬を想像してしまうくらいには。そして、小型犬が飼い主の足元で飛びつく機会を窺うような、そんな様子で新戸の袖を掴んでいる。
「沖ノ鳥島のことで」
ふぅん? 新戸はコーヒーを啜る。苦く芳ばしい香りが美空のもとにまで薫ってくる。
「沖ノ鳥島ね」
目が合う。覗き込むようにじっと見られ。居心地が悪くなる頃、にっと口元ばかりの笑みに変わった。
「俺で協力できることなら?」
ブルルと机が鳴った。柳瀬は大きくため息を吐く。ようやく引き剥がすように新戸の袖から手を離し、テーブルの上に出しっぱなしのスマートフォンを手に取った。アラームをかけていたのかディスプレイを突いて止めると、もう一度溜息を吐いてカバンにしまう。よっこらせ、とでも言いそうな動作で席を立った。
「時間になっちゃった」
重そうな荷物を持ち上げる。視線は恨めしげにカバンの中だ。トレーは新戸がさり気なく自分の分と重ねている。
柳瀬は諦めたように顔を上げた。
「新戸さん、また、お話聞かせてね」
「結芽ちゃんがテストで良い成績取ったらご褒美を上げよう。いってらっしゃい」
柳瀬はぱっと笑顔になった。頷きほんのりと赤い頬を見せながら、椅子と椅子との間を抜ける。
「きっとよ! じゃあね!」
最後に小さく手を振るとパタパタと階段を降りていった。
「学校でどうかな」
「はい?」
唐突だった。
新戸は頬杖をついて柳瀬の背中を見送っている。すっかり階段を降りきっただろう頃に、美空へ視線だけを戻した。
「結芽ちゃん、兄弟もいないし、家にいて難しい話ばかり聞かされているような子だったし、友達と遊んでる様子もなかったから、学校で馴染めてるか少し心配してたんだよね」
四月の進級に伴い柳瀬とはクラスが別れた。とはいえ、学内で見かける柳瀬は大抵女の子達と一緒だ。姦しい女の子達の集団の中で、いつも一歩引いて笑っている印象がある。
弁論大会で優勝したときの遠慮がちな笑み、いつも肩をすぼめて小柄な身体をさらに小さくしているような姿勢。美空が覚えている柳瀬は、そんなものばかりだ。
あれ、と美空は思う。
学外で、図書館で会う柳瀬と、何か違う気がする。
「上手くやろうとしてると、思います」
「そかー。やろうとしているかぁ」
新戸は腕を組み、困ったような笑みを浮かべる。参ったなと、呟くような声が聞こえた。
そしてのそりと背筋を伸ばす。
「聞きたいこと、だったね」
美空もつられて背筋を伸ばす。手は膝の上。足は知らず揃っている。
聞きたいことと言うべきなのか、知りたいことと言うべきなのか。
「図書館で調べようとして、うまく探せなくて。柳瀬さんが聞くほうが早いからって」
とはいえその後、やはりうまく見つけ出せてはいないのだけれど。
父親である考志にはまだ早いとだけ言われ。正式に曽田が代表を務める団体の職員になった省吾は島に行くとき以外捕まえることができないでいる。とはいえ、船で聞いてもやはりはぐらかされたのだが。
「お願いします」
美空が新戸を見返すと、新戸は一つ頷いて見せた。
「俺が答えられそうなことなら答えるし、何なら調べてみても良い。ただし、条件がある、って言ったらどうする」
「条件?」
新戸はじっと美空を見ている。聞き返すように見返した美空へ頷くように瞬いた。
「取引って言ってもいい」
「取引」
「情報というのはそれだけで価値がある。対価もなく知りたいのなら親父さんか省吾にでも聞けばいい」
価値。対価。美空は思わず視線をあちらこちらへ彷徨わせる。情報の代わりのもの。
「お小遣いで、足りますか?」
新戸はほんの少し目を見開いて二度三度と瞬かせ。吹き出した。
「えっ!?」
「いや、いい反応だけど中学生から金を巻き上げたりはしないから!」
「でもっ」
声が十分響いてしまった。美空は椅子に座り直す。一瞬静かになったフロアにもとの喧騒が戻ってくる。
「対価って」
「多分、美空ちゃんには難しくなくて俺にはとてつもなく大変なこと。省吾には怒られたんだけどね。こっちも商売だから」
美空は頷く。理解はしきれていないけれど。先を促す。
「省吾はね、島のことを記事にして欲しいって言ってきた」
記事に? 何故? ――疑問は顔に出ていたろうか。新戸は答えず、話を続ける。
「でも、記事にするにはそれなりの話題性が要る。記事にしておしまい、じゃあない。そんなすぐに忘れられてしまうようなものに紙面を割く気はない。上司も許可しない」
美空は頷く。正直よくわからなかったが、そういうものなのだろう、思った。
「じゃあどうするか。どんな記事であれば忘れ去られず有効か。……何だと思う?」
「えと、すごい記事」
「すごい記事かぁ。俺もねぇ書きたいとは思ってるのよ。正解だけど、なかなかそうも言ってられないなぁ」
新戸はまいったと頭をかいた後で、人差し指を立てて見せた。一。
「ひとつは、事件性・話題性があること。芸能人のスキャンダルは話題性の塊だ」
う、うん。美空は頷く。
新戸は続いて中指を立てる。二。
「で、もう一つは、物語性があること」
「ものがたり?」
「苦労の結果栄光を掴む。周囲との軋轢に耐えて結果を残す。挫折を繰り返しても諦めずに辿り着く。そういう物語を読者は好む」
プロ野球、フィギュアスケート、体操、卓球……あの子は昔から頑張って。この選手は怪我したのに克服したんだ、すごいねぇ。甲子園の時大泣きしてたんだよ。頑張ったねぇ。
美空が思いつくだけでも、祖父母はそんな風によくテレビを見ながら話していた。
「南国の孤島で生まれて育ち手違いから東京へ連れてこられる。知らない土地、知らない風習、知らない人たちの間で育ちついに島へと帰り着く。思い描いていた故郷は、少年を異邦人として扱った」
美空はまじまじと新戸を見る。声を出すことも忘れていた。新戸は薄い笑みを刷いたまま言葉を続ける。
「こんなのもある。島で生まれて死んだことにされて東京へ連れてこられる。片親で育ち密航するようにして生まれた島に帰り着く。そこには生き別れの姉妹がいた」
しっかりと聞いたわけではないが、おそらくは省吾で、そして、美空だ。
省吾が話したのだろう。それしか思いつかない。しかし。
「そんなの、物語なんかじゃ」
「追い出されるように故郷を捨てざる得なかった。捨てる代わりに宛がわれたのは見知らぬ土地の集合住宅。知らない人たち、知らない習慣。歓迎されるわけでもない」
新戸は淡々と言葉を重ねる。それは何。美空は出そうになった言葉を飲み込む。
「それどころかいじめが起きた。回覧板は飛ばされる、郵便物は盗まれる、陰口は日常茶飯事。話しかけようとすれば理由をつけて去って行き、寄り合いに出ても遠巻きにされる。世間は認めなかったが、いじめだったとしか思えない」
新戸は口を湿らせるためだけとでも言うように、一口コーヒーを含んだ。
「年老いた祖父は病んだ。帰りたくても帰れなかった。そこで生きていくしかなかった。不安はついてまわった。相談出来るのは離ればなれになった知人や、ツテを辿った専門家ばかり。電話やらSNSやらで連絡し合い、耐え続けた。笑顔を心がけ、寄り合いには出続けた。息子の進学は別の土地を選ばせたものの自分たちは動かなかった。世代が変わったと言われる頃、世間は忘れ、ようやく一家は受け入れられた」
「それで」
「それが、物語ってもんさ」
何かを言うということが出来なかった。美空は紅茶が冷めることも、ポテトフライが冷たくなっていくことも気に出来ずに視線ばかり泳がせる。
その物語は、柳瀬の物語と酷似していて。
「省吾には拒否されたけどねぇ。まぁわからんくもないが。自分が物語になるってことは、自分を世間に曝すことと同じ。そのくらいの覚悟がなければ『残る』ものなんて生み出せない。その覚悟もなさそうだから俺は話自体を断った。もっとも、キミが構わないというなら、俺にとっては省吾でもキミでも変わらない。どう?」
――ギブアンドテイクってやつでしょ。
言葉が蘇る。
けれど。頷けることでは、なかった。
「悩まなくて良いよ。だから話題性の方で持ち上げることを考えてる」
「話題性?」
「そ、話題性。俺に何かさせるなら、俺からの条件は二つだ。話題性を増す材料の提供と」
「材料」
言われても何も思いつかない。
見返した美空の視線を新戸は頷き受け止めた。
「大丈夫。難しくない。で、美空ちゃんにしか多分出来ない」
「……私に、出来るなら」
うん。新戸は口の片端だけを上げて頷く。何でも目に焼き付けてやるとばかりの強い目が美空を捉え。
ふと、緩んだ。
「もう一つは」
「え?」
「もう一つの条件は、その」
美空は首を傾げる。これだけ自信満々に言葉を重ねていたと言うのに。
「結芽ちゃんと仲良くしてあげてくれないかな」
そんなこと、と思い、ふと疑問が浮かんだ。仲良く?
新戸は淡く笑んでいる。来たときの賑やかさはなく、物語を語るときの確としたものは抜け、何かを企むような笑みも消え。
優しい顔。美空は思う。
「柳瀬さんは友達だよ」
多分、とか、きっと、とか。言葉にならない言葉を美空は心の中で付け加える。
新戸の顔を見られない。
「そだよね。ごめんね変なこと言って。じゃぁ、商談成立って事で何が聞きたい? 俺は何をすれば良いかな。あ、省吾にはこれ、内緒ね?」
視線を戻した新戸は、一緒に企んでいる……そんな顔で美空を覗き込んでいた。
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