4-7

 半年ぶりの日差しを受けて美空は大きく伸びをする。すっかり慣れたとはいえ、二日近くに及ぶ航海は楽ではない。

 南国の風は優しくて海の香りに満ちている。Tシャツ、短パン、といった身軽な格好ができればよかったのではあるが。袖を何度も折り返したジャケットが風を受けて大きく広がる。肩口から袖口へと入り込んだ風が抜けていく。

 それでも。

 長袖長ズボン、帽子をかぶった作業着姿の人々が行き来する。邪魔にならないよう船室へと続く扉の脇に立ち、美空はそれらを眺めている。

 彼らが着ているのは白い防護服ではなかった。日焼け防止と安全のために生地の厚い作業着ではあったものの。ずっと人らしく見えると美空は思う。

「美空ちゃん、そろそろ行くって」

 ひょこりと顔をのぞかせた省吾も白いTシャツの上に作業着を羽織っている。細くあまり筋肉があるわけではない省吾にはあまり。

「はぁい」

 寄りかかっていた壁から背を離し、扉に手をかける。

「何笑ってるの」

 言われて少し明後日を見た。似合わないとか、思っていたとは言いづらい。

「みんな、動きやすそうだなって」

「防護服は面倒くさいからね」

 思い出したのだろう。顔をしかめる省吾の脇をすり抜ける。白くてガサガサする『服』はもちろん、ホコリの吸引を防ぐマスクやゴーグルは仕方がないとはいえ辛かったと美空も思う。

 階段を先に立って降りていく。

「その代わり、帰った後も、検査しないと」

 今回は船に乗る前に検査を受けさせられていた。職員、船員、契約作業員、この島に来ることになる全員だ。そして、戻った後にも検査がある。十日の行程に加え、前後の検査日を加算して都合十二日がスケジュールとして組まれていた。

 三月上旬に出発し、戻るときにはもう半ばを過ぎている。ふいに美空は柳瀬の顔を思い出した。検査日の前日、つまり休みに入る直前に柳瀬にはノートを貸して来ていた。

 ――内山さんは勉強、いいの?

 帰ったら、追試が待っているはずだった。率直に面倒くさい。

「島の人たちはみんな元気なのに」

「そうだね。だけど、だから大丈夫、とは言えないんだよ」

 船倉にたどり着く。移動検診車にみんな乗り込んでいる。省吾は助手席へ。美空は診察室の扉を開く。空いていた松木の隣のベンチに座る。

「さて、行こうかね」

 曽田の声を合図に、検診車は動き出す。


 *


 ケンシン車が医療院脇の定位置に停まると、医療院に住まうカタセや、少し離れた子供舎の子供たちは、こぞってこっそり(と本人たちは信じている)扉の隙間、窓の脇、柱の影や細い木の後ろからのぞき見する。

 フカミは洗濯物干しを手伝いながら、来たかと思い、目を瞬いた。

「ホシンじゃない!」

 ホシンじゃない?

 叫んだのは七歳になるやんちゃ坊主筆頭のシンタだった。

 仕事を放り出し医療院側のオレンジの木の鬱蒼と茂る葉の影から出て、よく見ようと目を凝らす。

「白くない。暑そうな服着てる。農舎のおっちゃんみたいだ」

 フカミは幾枚ものタオルを手早く広げシワを伸ばして干していく。最後の一枚を干し終わる頃には、ケンシン車を降りた一団は子供舎の前に達していた。

 ホシンじゃない。

 一行のうち一番小柄な姿が、フカミを見てぱっと笑った。フカミの肌色を薄くして、フカミの頬の線を少しだけ柔らかくして、フカミのぱさつく赤茶けた髪をつややかな黒にした、それだけでそっくりになる少女――ミソラだ。

 ミソラの横には見覚えのある細面の青年、美空の前にはソダと名乗った髭のお爺さん、後ろにはフカミにケイタイデンワの使い方を教えてくれた、丸くて大きいマツキもいた。

 ――防護服を止めることになったよ。

 いつかの夜、集会場の二階で、ケイタイデンワから聞こえてきたミソラの声はそう言っていた。島に行く人たちの集まりに出たと。色々な話が出たと。白いあの服を止めることになったと。

 みな、口元を覆うマスクはなかった。頭を覆うのは日除の帽子で、顔をわからなくするゴーグルもなかった。長い袖で腕を覆い、長いズボンで足を覆う。それだけだ。

 だから、誰が誰だか、わかるのだ。

 足にまとわりつく気配があった。手が握られる。生温く濡れた小さな手だ。

「フカちゃ、だぁ?」

 三つになったばかりのリンだった。ぬかるんだ場所で転んだのだろうか。手は泥に汚れ、膝から下もすっかり泥にまみれていた。

 フカミはリンを抱き上げる。集会場へと向かっていく一団をリンを抱えて一緒に見送る。

「神様のお遣い」

 教えられてきた事柄を返しながら、ぼんやりと思う。

 海の果てのホンドから来る神様のお遣い。眠れる神様を起こさないよう見張る存在。怒らせてはいけない、触れてはいけない。

 しかし、彼らは神様じゃぁ、ない。

 フカミはリンを抱えたまま集会場をぼんやり見上げる。しがみつくリンの相手をしながら、集会場の扉の向こう、見たことのない奥を思い描く。

 それでも、扉の奥には神様がいる。ホシンのようにホシン以上に。触れてはいけない神様が。


 *


 月明かりがこんなに明るいのだと島に来るたびに美空は思う。満月に近く雲がないなら、海沿いの道でも足元に不安はなかった。

 船の外でフカミと落ち合い、なんとなくシャッターの方の道を選んだ。人気がなく、二人でいることが見られる心配のないところを習慣で選んでしまう。防護服もなくゴーグルもなく、フカミそっくりの顔を存分にさらした後であっても。

 道の終点、シャッターの前にたどり着く。トラックがやすやすと入るサイズの大きなシャッターだ。美空はシャッターに触れてみる。風雨に曝されるばかりで土埃にまみれていても、このシャッターは現役である。昼間、美空が松木と割り振られた仕事をこなしている間に、開かれ閉じられたはずだった。トラックが入り、荷物を積み込み、船へと運ぶ。その荷物がなんであるかを美空は未だ知らない。

 そして、荷物を積み込むその横、最奥にある頑丈そうな扉にあのマークが描かれている理由も。

「フカミちゃん。この向こうって、何」

「向こう?」

 横に並んだフカミも同じようにシャッターへ触れる。思えば、初めてフカミと顔を合せた場所は、ここだった。

 フカミはシャッターへと触れた手を見つめている。

「神様がいる場所。そう言われてる」

「神様」

 美空は呟くように繰り返す。神様。この島では度々聞く、そして、美空にはあまりなじみのない言葉だ。

「神様って、どんな神様?」

 シャッターの向こう、集会場や堂の扉のその向こう。島の泉は『神の泉』 この島には至る所に『神様』がいる

「え?」

 きょとんとした声に美空はフカミを見返した。遮る物のない月明かりの下で、フカミは首を傾げている。

「え、って?」

「神様は神様だよ?」

「怖いとか、優しいとか、死んだヒトが神様になるとか、世界を作ったとか、一人しかいないとか、たくさんいるとか」

 逆に問われて美空は知りうるかぎりの『神様』を挙げてみる。日本には八百万の神様がいる。厳しい掟を課す神様もいる。死んだ後には天国へ連れて行ってくれる神様もいる。神様とは少し違うかもしれないけれど、死んだヒトを神様のように扱うこともある。

 死んだヒト。美空はぼんやりと思い出す。そういえば一度だけ、美空は『葬式』を見たことがあった。もう何年も前のことだ。

「ヒトが死んだら、どうなるの」

 港から集会場までの道筋で墓のような物を見た覚えはなかった。集会場から泉までは農地が広がっていたように思う。焼き場らしきものも覚えがない。こんな狭い島である。隠れた施設など想像できない。

「どうもしないよ?」

 フカミは瞬き崖を見上げた。美空も釣られて上を見る。

 崖の上には、陽光を求め中空へと大きく迫り出した草があった。月の光で影を作りながら、海風にさらりさらりと揺れていた。

「お堂の扉から『神様』の元に送り出す」

「お堂」

 あぁと美空は思う。崖の上には堂があったはずだった。その隣には医療院。コンクリート製の建物は島建造当初からあったものだろう。そういう位置関係になるのだったか。

「ヒトは神様じゃない。神様は眠っている。けれど、『さよなら』を選んだ人を受け入れてくれる」

『お別れの式』は棺を扉に納める式だという。島人全員がそれを見守る。フカミは続ける。

「ホシンはね。神様のお遣いなんだ」

「そんなの」

 あるわけがない。思わず美空はフカミを見る。

 うん。目を合せたフカミは頷いてきた。判ってる、と。

「ホンドからくる白い不思議な姿の神様のお遣い。だから、触っちゃだめだって、ずっとずっと言われてた」

 曖昧に美空は頷く。それは以前にも聞いた話だ。

「ミソラは扉を潜ってここにいて」

 フカミは崖を再び見上げる。くるりとシャッターに背を向けて、ずいぶん上った月を見上げる。海の向こうを。

「ホンドには神様はいなくて、ホシンはヒトで」

「東京に神様がいるはずがないわ」

 ヒトばかりでビルばかりで人々は他人に無関心な、そんなホンド――東京に。

 美空はフカミのマネをする。がしゃんと、寄りかかったシャッターが鳴った。

「神様って、何?」

 フカミはすぐには言葉を返してこなかった。

 静かな波音が繰り返し。

「わかんない」

 でも、確かにここにいるんだ。――フカミはぽつりと呟くようにそう続けた。

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